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全面改憲への陶酔は危険だ 長い時間軸をふまえ、徹底した議論を

杉田敦 法政大学法学部教授

 政治学者は、あまり憲法については発言しないし、発言を求められることも一般的には多くない。私が自分なりに憲法について考えたり物を言ったりするようになったのは、小泉政権から前の安倍政権の時期にかけて、憲法改正論が盛り上がった時に、何人かの憲法学者たちと出会ったのがきっかけである。

 彼らが私のような者とまでつき合うようになったのは、危機感によるものであったろう。いよいよ巷に憲法改正の声が高まってきたので、素人を説得するには素人の意見を参考にしようということだったはずだ。

 その後、自民党もそれどころではなくなり、少し事態が落ち着いたが、安倍首相再登板の前後から改めて大きな動きが出てきたので、また何か言わなければならないことになった。

 いわゆる改憲論に関して私が一番違和感をもつのは、憲法というものを、まるで何でも変えられる魔法の杖のように見なしているところだ。

 日本社会のあらゆる問題を今の憲法のせいにする。そして、違う憲法にすればすべての問題が解決すると考える。地球を動かす梃子の支点とされた「アルキメデスの点」のような扱いだ。日本では、こういう扱いをされるものが憲法の他にもう一つあり、それは教育である。戦後教育が諸悪の根源であり、これを変えればすべては解決する、という言い方はずっとされて来たし、最近もまた声高になっている。

 しかも、そういうことを言っているのは、たいてい、これまで自分たちが中心になって政治をやってきた側の人びとなのである。自分たちの政治のせいで世の中が悪くなったとはなぜ思わないのか不思議である。

「憲法典がすべて」改憲派のフェティシズム

 憲法典がすべてだ、という考え方は一種のフェティシズム(物神崇拝)のようなものではなかろうか。

 憲法をめぐる戦後史では、今の憲法を評価する人びとが、それを護るという「保守的」な役割を担うことになったので、護憲論がフェティシズムだと思われていることが多い。そうした側面がないとは言えないが、それ以上に、実は改憲派の方がフェティシズムにふけっている。

 このことは、憲法の制定経緯へのこだわりに、何よりも表れている。

 安倍首相自身、読売新聞のインタビュー(4月17日)で、憲法改正を主張する理由の第一に、「憲法の制定過程に問題がある」ことを挙げている。いわゆる「押しつけ」論という形で、こうした議論はつねにあった。

 また、このヴァリエーションとして、現憲法の内容には賛成であるが、どうしても制定過程が気になるとして、国民投票で現憲法を「選び直す」べきだという主張もあった。

 たとえば評論家の加藤典洋氏のかつての議論(『敗戦後論』 初出1995年)であり、そこでは現憲法の制定過程における「ねじれ」、「汚れ」が問題にされていた。ねじれていない、汚れていない、まっさらのものへのあこがれのような情動がそこにある(加藤氏は後にこうした考えを撤回したが)。

 安倍氏は、「占領軍の手で閉められた鍵を開けて、国民の手に憲法を取り戻す」(上記インタビュー)という、ネーションの回復の物語をここに結びつけている。

 こうした発想よりも、私は、憲法とは「法人の定款」のようなものにすぎず、機能していればそれでいいのであって、そこに過剰な思い入れを持ち込むべきではないという憲法学者の長谷部恭男氏の考え方に共鳴する(長谷部恭男・杉田敦『これが憲法だ!』朝日新書、参照)。

 使い易ければそれでいいではないか。もちろん、そのことは、逆に使いにくいのなら、変えたってかまわないということをも意味する。それが道具に対する接し方であるからである。

 したがって、私自身は現憲法に指一本ふれてはならないという立場では必ずしもなく、国民主権や基本的人権、平和主義などの諸原則は別として、政府の機構のあり方などについては改正も議論の対象になりうると思っている。

 しかし、改憲派はほぼ例外なく、現憲法を頭から尻尾までいじろうとするのであって、ここに憲法に対する全く異なる接し方を見出さざるをえない。

 この間、憲法論議を単に報道するのみならず、自らそれを主導してきた一部新聞社も例外ではない。

 産経新聞は4月26日に全紙面を費やす勢いで「国民の憲法」要綱を発表したが、それは天皇の位置づけから防衛問題、権利論に至るまで全面的な改正を内容とするものだった。

 読売新聞が1994年に「憲法改正試案」を出した時のことを橋本五郎氏が述懐しているが(5月11日)、この試案も全面改正案であった。

 なぜ憲法を論じる時に、部分改正を提起しようとしないのか。それは、白紙の上に一から書き直すという行為そのものに、特別の意味を見出しているからであろう。他の法律や政策一般について論じる時とは、全く違うものがそこでははたらいているのである。「憲法制定権力」という言い方もあるが、通常時にはふるえないような巨大な権力を自分たちがふるいたいという、ある種の欲望のようなものが、改憲論にはつきまとう。

 ふつう、法律の改正論は、具体的な論点から出発する。ここが問題だからここを変えるべきだと提起され、賛否が寄せられる。

 ところが、日本の憲法論議では、一般論として憲法改正の是非が論じられてきた。これはまったく奇妙なことである。ふつうの法律とは違い、憲法は特別だと言うかもしれないが、諸外国で、具体的な論点と無関係に憲法改正の是非が問われているなどとは想像もできない。

「憲法改正の是非」問い続けた新聞社の責任

 そして、このことについては、新聞社にも大いに責任がある。世論調査で漠然と、「憲法改正の是非」を問い続けてきたからである。朝日新聞と東京大学谷口将紀研究室の立候補予定者に対する共同調査(7月3日付朝日朝刊掲載)でも、任期中の憲法改正への賛否を一般的に問い、自民党や維新の会の立候補者で賛成が高い結果が出ていることを紹介している。そして、こうしたやり方が、96条改正論の登場を促した面がある。現に安倍首相は「今、世論調査で5割以上の人たちが憲法を変えたいと思っています」(上記インタビュー。根拠として、読売新聞の2012年2月の調査で、回答者の54%が「改正する方がよい」と答えたとされる)とし、それなのに「国会議員の3分の1をちょっと超えた人たちが阻止できるのはおかしい」と論じている。しかし、一般論として憲法を変えたい人びとの割合というのは、何の意味もない数字である。9条のことを想定している人もいるだろうが、環境権のことを想定している人もいよう。もっと漠然と、閉塞感を打破したいと思っている人も多いに違いない。それらを全部足して過半数を超えたからといって、個々の論点について、改正に賛成する人が過半数である保証は全くない。

 新聞社が憲法案を提起することをどう考えるかについて言えば、それをいちがいに否定することはできまい。憲法改正を論じることは自由である。

 しかしこれまで見てきたように、憲法論議を抽象化し、憲法改正そのものを自己目的化するような方向に誘導しているとすれば問題である。

 新聞社の仕事は、人びとのさまざまな不満を憲法にぶつけさせて「憲法制定権力」への欲望をかきたてることではなく、個々の具体的な政策課題について問題提起することにある。

 今回の改憲論議の特徴は何よりも、96条改正論が前面に出たことである。これまでの日本の改憲論議では、つねに9条が焦点であった。96条改正論は、従来から改憲派の憲法学者の一部では提起されていたようだが、橋下徹大阪市長や安倍現首相が言及して一挙に焦点となった。

 憲法改正手続きを定めた96条は、両院それぞれで総議員の3分の2の賛成を得れば改正案が発議され、国民投票で有効投票数の過半数を得れば成立するというものである。

 これに対し、安倍氏や橋下氏は、先にふれたように、わずか3分の1で阻止できるのはおかしい、という議論を展開した。民主的な決定はすべて過半数の単純多数決によって行われるべきであるという考えを前提としている。

 しかし、憲法学者の石川健治氏が憲法記念日に朝日新聞で指摘したように(「96条改正という『革命』」)、憲法改正を単純多数決の連鎖によって可能にするような軟性化をすれば、「憲法と法律を区別する意味が、事実上なくなってしまう」という重大な結果が生じる。石川氏が言うように、そもそも、「構成員全員が納得して従える、正しい意味で民主的な決定は、全員一致による決定であろう」(上記)。しかし、それではあまりに決定が困難になるため、単純多数決との中間あたりで、3分の2という規定を設けることは、何ら奇異ではない。こうした考え方に則り、憲法学者や政治学者を中心とする「96条の会」も発足し、96条改正論への批判を展開した。

 一方で読売新聞は、2月28日の橋下氏へのインタビューを始めとして、96条改正論を主要な論点とする大型シリーズ「憲法考」を展開し、とりわけ6月7日には、「基礎からわかる憲法96条改正」と題して、改正反対派から出されている、96条の要件は厳しすぎないといった議論に逐一批判を試みている。

 たとえば、「アメリカは上下両院の3分の2以上の賛成で改憲を発議。全50州の4分の3以上の承認が必要」だから硬性であるという論点について、日本の各都道府県別に国会議員数を見ると、自民・維新・みんなの党から公明党まで足せば、過半数をとれていないところは少ないので、州の承認という条件は大したことはないと主張している。

 しかし、今回の参議院選挙を含めて、これまで国政選挙が憲法改正そのものを主要な争点として行われたことはない。過去の議席数に反映された民意が、憲法改正が実際に具体的に提起された時にそのまま維持されると考えるのは合理性を欠いている。読売が挙げているその他の論点については、後に見よう。

跳び箱を跳ぶ前から駄々をこねる

 96条が厳しすぎることが理由で憲法改正ができないという議論には、少なくとも、次のような問題点がある。

 まず、実際に憲法改正を提起し失敗し続けた経験でもあるのならともかく(諸外国での改憲成功例ばかり改憲派は挙げるが、途中で失敗した例も多くある)、一度も提起もせずに、そうしたことを主張しても説得力がない。こんな跳び箱は高すぎて跳べないと、跳ぶ前から駄々をこねているようなものである。

 アメリカやフランス、ドイツなどでの改正回数を挙げて、それと日本の経験を単純に対比するという論法も繰り返されるが、他の国では単に条件がゆるいから通ったかのように印象づけるのは、ずいぶん他国をばかにした話ではなかろうか。 それらの国では、説得力のある改憲案が提起され、十分に国民的な論議が尽くされたから成立したと考えるべきではないのか。

 いまの96条改正論が、9条改正を当面の目的としていることは明らかであるが、これまで9条改正を提起することさえできなかったとすれば、それは、9条改憲が議会でも国民の間でも受け容れられそうになかったから、というのが主要な理由であろう。

 ところが、改憲推進派は、たとえば環境権規定の新設や衆院の優越を強める二院制改革などといった別の論点を例に挙げ、そうした改正さえ現96条を維持するかぎりは無理であるかのように印象操作することが多い(上記 読売「憲法考」など)。しかし、それらの提案が具体的になされ、各政党の意見や有権者への世論調査において拒否されたという前例があるわけではない。

 現在の自民党改憲案のような、9条改正や人権の大幅な制限を掲げるような改憲案なら拒否されるかもしれないが、すべての改憲案が一律に拒否されるなどという根拠はどこにもない。

 むしろ、二院制改革を(おそらく参議院議員の反対を恐れて)封印しているのが、他ならぬ自民党の改憲案なのである。

 今春以来の政治の展開の中で、96条を先行して改正し、改正条件をゆるめた上で9条から続々と憲法を改正して行こうという安倍氏や橋下氏、そして読売や産経の目論見は、有権者の理解を得ることができていない。

 毎日新聞は、すでに4月9日に、9条改憲派の憲法学者、小林節氏の「絶対ダメだよ。邪道。憲法の何たるかをまるで分かっちゃいない」という言葉を掲載。「国民の憲法」要綱発表翌日、4月27日の産経も、自社とFNNの世論調査で、要件緩和への反対が賛成をわずかに上回るなど、「国民にも慎重論が残る」ことを伝え、「注意深く考えていかなければならない」という安倍発言を紹介している。

 6月21日産経は、公明党が96条先行改正に批判的であることを受けて、安倍首相らが「まだ国民的理解を得られている段階ではない」と「路線転換」を図ったとする。7月3日の朝日・東大谷口研究室共同調査は、自民党や維新の内部にさえ、改正論に反対する候補者が1割程度いることを明らかにした。

 こうして、96条改正案は、7月末の参議院選挙以前の時点で、かなりの程度、後景にしりぞいた。その主因が、公明党の態度が固かったことに加えて、従軍慰安婦問題などに関する一連の発言への反発によって、橋下氏の維新が勢いを失い、維新との協力関係で改憲を進めようという安倍氏の戦略が挫折したことにあるのは、各メディアによって報じられている通りであろう。

 さらに、有権者の関心が憲法問題にはなく、景気や雇用の問題に集中していることから、憲法を選挙の主要な争点にまで格上げすることは避けたと思われる。

96条改憲論と国民主権の関係

 次に、96条改正論と国民主権との関係について見ておきたい。

 安倍首相をはじめ、改憲論者たちは、96条の議会による提案条件をゆるめても国民投票は維持するのだから、国民の判断を仰ぐのであり、批判はあたらないと主張する。
読売の特集(6月7日)では、国民投票も暴走し間違うことがあるので慎重にすべきという他紙の論調に対して、次のような橋下氏のインタビュー発言(2月28日付読売朝刊)を引き、それが「明快に論ばくしている」とする。

 「国民の意思で、変えるか変えないかについてしっかり議論して、守るべきものは守る、間違ったものは修正する。それが真の民主主義であって、手続きを極端に厳格化させて無理やり変えさせないようにするというのは、あまりにも国民をばかにした、国民を信用していないやり方だと思います」

 さらに、この連載を主導した読売の永原伸氏は、雑誌「新聞研究」7月号で、憲法論議は国民の「常識」でやればよいとし、常識のない憲法学者の意見など聞く必要はないとまで述べ、右のような橋下氏の指摘こそが、「私たちがこだわる『常識的な判断』に相通じるものがある」としている。

 これに対しては、先にも引用した石川健治氏の議論のように、国民投票があっても「憲法改正について実質的な審議を行うのは、国会であることに、変わりがない」とした上で、「直接『民意』に訴えるという名目で、議会側のハードルを下げ、しゃにむに国民投票による単純多数決に丸投げしようとしている」ことは、「衆愚政治」への警戒が十分でなく、「議会政治家としての矜持が問われ」るといった、議会の役割を再確認する方向からの批判も可能であろう。

 しかし、私としては、国民投票の重要性についてはもう少し率直に認めた上で、それが適切に行えるような条件を今の改正規定は追求していると考えたい。

 つまり、国民の自己拘束である。「国民主権」という言葉は勇ましいが、現実の私たちは、そんなに立派な存在とは限らない。自分さえ良ければいいという行動をとりがちである。特に、少数派には冷たいのが普通だ。多数派の生活を守るためには、少数派の権利を奪ったり、少数派が生きにくいような社会にしてしまいかねない。

 また、目の前のことしか考えられないので、将来に大きな負担を残すようなことでも、平気でやってしまうことがある。何でも単純過半数で決めて行くと、こうした過ちを私たちは犯してしまうので、自分たちに制約を課している、ということである。

 私たちは、食べたいものをどんどん勝手に食べていると太ってしまい、寿命も縮むので、自分からダイエットすることがあるが、それは、自由が奪われているとか、誰かに支配されているということではない。また、食事内容について、専門家である医者やトレーナーの言うことを参考にすることもあるが、それは自分を「ばかにした」、自分を「信用しない」やり方として、問題にされるべきなのであろうか。

 自らが暴走しないように自己拘束する硬性憲法は、自らを律する「大人」の憲法なのであって、その場その場の思いつきのまま、気分がいいことをやらせてくれという「子ども」の憲法とは異なるのである。

 96条改憲がひとまず後退したようにも見える中、気になる動きがある。それは、とりわけ9条について解釈改憲を進め、集団的自衛権の行使を可能にしようとするものである。

 安倍首相の私的諮問機関の「安保法制懇」がそうした方向で検討を進めており、また、この懇談会の裏方であった人物が、新たに内閣法制局長官に就任した。内閣法制局はこれまで、政府の憲法解釈に影響力を与え、政府見解に整合性を与える役割を果たしてきたが、現憲法の下でも集団的自衛権行使は認められるとする立場の人びと等からは、障害と見なされてきた経緯がある。

 選挙で代表となった政治家の意見がすなわち民意であり、そうした民意ですべてを動かすのが民主政治だという政治観は、橋下氏に典型的だが、民主党政権の「政治主導」論にもそうした傾向はあったし、現在の自民党政権にも継承されている。その意味では、これは、この十年以上の間に、この国の主軸となった考え方である。

 私自身は、そうした考え方に反対であり、選挙は重要であるが、民意はその他のさまざまな回路を通じても政治の場に伝えられるべきであると思っている。

 また、右にダイエットの例として述べたように、人間というものは、「耳の痛い」存在がいなくなるとロクなことをしないというのが私の人間観であり、権力を集中するために「耳の痛い」中央銀行を黙らせたあげく、今度は「耳の痛い」法制局を黙らせるという安倍流のやり方にはついて行けない。

 自民党政治における96条改憲と9条解釈改憲との関係については、朝日の星浩氏が重要な指摘を行った(6月2日)。自民党内には石破茂幹事長など外務省に近い「安保重視の親米保守」と、安倍首相など「米国と距離を置く(離米)自主憲法路線」の人びととの二つの潮流がある。96条を正面から改正して憲法全面改正に進もうとしているのは後者であり、9条の解釈改憲を進めようとしているのが前者である。

 両者は元々自民党にあった路線だが、「いま、その二大潮流がぶつかり合うかもしれない」状況にある。そうした中、公明党などの反対が強いこともあって、安倍氏は「ジワリと集団的自衛権派に軸足を移してきたようにみえる」というのである。

 最近の事案としては、麻生元首相が改憲派の集会で、憲法改正をめぐって、先進的なワイマール共和国憲法を骨抜きにしたナチスを引き合いに、「あの手口を学んだらどうか」などと発言をしたこともあった(東京新聞7月31日)。

 この事件についてはいまだによくわからない点が多く、麻生氏のワイマール憲法理解そのものが不正確であることもあって、真意がつかみにくいが、96条を改正して全面改正を目指すべきという櫻井よしこ氏ら集会主催側の考え方に対して、麻生氏が、全面改正とは違う路線、すなわち解釈改憲的な方向性の重要さを匂わせたと見ることも可能である。

解釈改憲の動きを注視しよう

 もちろん、今後の状況次第では96条改正論が再び盛り上がってくる可能性もあるが、同時に、解釈改憲の動きについても注視する必要が出てきている。

 上記でふれた星氏の指摘のように、改憲論と解釈改憲論とは、対米関係という日本政治における最も重要な問題にかかわる点で、政治的に緊張関係にある。しかし、それだけではなく、両者は論理的にも緊張関係にあることを意識すべきであろう。

 改憲論の主要な論点の一つとして、憲法の条文というものは、解釈などしなくても、子どもが読んでもわかるようなものでなければならない、というものがある。9条をすっと読むと、自衛隊の存在とは矛盾しているように見える。だから、自衛隊を残すなら憲法を変えなければならない、というのが条文改憲論である。 これに対し、解釈改憲論は、今の9条のままでも、さまざまなことができると主張するわけで、それが通るのなら、条文の改正など不要となるので、改憲論と解釈改憲論は両立しない。

 私自身はどう考えるのか。

 そもそも憲法というものは、どう記述したとしても、結局は解釈を必要とするということは、どんなに強調しても強調しすぎるということはない。

 たとえば、自民党改憲案のように、「国防軍」と書いたとしよう。それでも、国防軍とは一体何であり、どういうことはできて、どういうことはできないのかということまで、憲法に全部明示しておくことなどできない。

 結局は、法律によって肉付けすることになるし、判例によって解釈されることになる。その意味では、憲法における解釈の重要性を私は信じている。

 しかしそれなら、解釈改憲を極限まで認め、時の政府によって条文はいかようにも自由に解釈できるものとしていいのか、と言われれば、もちろんそんなことはない。それを認めてしまえば、憲法の存在意味そのものが失われてしまう。それに、これは安倍氏やその諮問機関の人びとに考えてもらえばいいことであるが、従来の政府解釈と整合しないような新たな解釈を打ち出すことは、やはり一国の政府としての首尾一貫性を失い、対外関係を困難にすることになりかねない。

 小林節氏は96条改憲を「裏口入学」と表現したが(朝日5月4日)、解釈改憲もまた別種の「裏口入学」である。新たに最高裁判事に就任した、内閣法制局出身の山本庸幸氏が、解釈による集団的自衛権容認について、「私自身は非常に難しいと思っている」とした上で、必要なら条文改正しかないとした(朝日8月21日)ことは、最高裁判事の立場での発言として妥当であるかは別として、考え方としてはまっとうである。

 9条に限定せず、一般論として言うなら、さまざまな「裏口入学」の道を探すよりは、国民的な議論をきちんと行うべきである。本来、憲法改正など必要のないさまざまな問題(たとえば道州制の導入)をことさらに憲法問題に「格上げ」するようなことは問題であるが、どうしても憲法改正しかない、という問題があるとすれば、それについては議論が正面から提起されてよい。

 もっとも、最後に注意しておくべきこととして、それぞれの国の憲法は、主権国家が決めるべきものであるとはいえ、今では世界中の人びとの目にさらされており、まともな憲法についての世界的な「相場観」のようなものがあるので、それを満たさないような改正はできないし、憲法改正が周囲にどう受け止められるかがきわめて重要だという点がある。

 この論点をめぐっては、朝日の大野博人氏が、EUでの憲法状況について次のように指摘している(5月3日)。

 フランスやドイツでの憲法改正のかなりの部分は、実は欧州連合の基本条約に自国の憲法を合わせるためのものであった。「人や物、金、情報が国境を超えて行き交う」グローバル化した現在、それぞれの国家が勝手に主権をふりかざしていれば問題が解決するわけではない。むしろ、共に問題を解決すべく「国家主権を相対化する」憲法改革がヨーロッパでは試みられているというのである。

 もちろん、大野氏も指摘しているように、東アジアの状況はヨーロッパのそれとは異なるが、国境を越えた交流の拡大という基本的な方向性は同じである。そうした中、自民党の改憲案は「国柄」を声高に主張しつつ、対外的な「防衛」を前面に出すものであるし、改憲を主唱する首相自らが、改憲が必要な理由として北朝鮮や中国の脅威に具体的に言及しているのである。

 北朝鮮のミサイル開発や中国の対外政策には問題が多く、それが東アジア地域の脅威を高めていることは否定できない。しかし、そうであったとしても、そうした認識を憲法論に直結させるということが、品格を欠くものであり、誤解を生むものであることを理解すべきである。

 隣国を「仮想敵」と指定して憲法改正や解釈改憲を進めながら、どんな顔をして、その国との外交関係を維持・発展して行くことができるのか、想像もできない。きっかけが実際にどこにあるかとは別に、憲法改正論議は、目の前の事態への即応としてでなく、より長い時間軸の中で行われるべきである。

 その点で問題なのは、先の麻生氏の失言に限らず、この国の政治家たちには、自分たちが世界に向けて発言しているという自覚が決定的に欠落していることである。
そうした人びとが主導する憲法政治が、世界水準を満たすものとなりうるのか、大いに心もとないというのが率直な印象である。

     ◇

杉田敦(すぎた・あつし)

法政大学法学部教授(政治理論)。「96条の会」発起人の一人。1959年生まれ。東京大学法学部卒。主な著書に『境界線の政治学』『権力』(いずれも岩波書店)、『政治的思考』(岩波新書)、『デモクラシーの論じ方』(ちくま新書)、共著に『対論 憲法を/憲法から ラディカルに考える』(法律文化社)、『これが憲法だ!』(朝日新書)。

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本論考は朝日新聞の専門誌『Journalism』10月号(特集は「正念場を迎えた日本の政治と社会 憲法改正とメディア」)より収録しています

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筆者

杉田敦

杉田敦(すぎた・あつし) 法政大学法学部教授

法政大学法学部教授(政治理論)。「96条の会」発起人の一人。1959年生まれ。東京大学法学部卒。主な著書に『境界線の政治学』『権力』(いずれも岩波書店)、『政治的思考』(岩波新書)、『デモクラシーの論じ方』(ちくま新書)、共著に『対論 憲法を/憲法から ラディカルに考える』(法律文化社)、『これが憲法だ!』(朝日新書)。