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被災地で取材者はどう変わったか? 当事者との間の「壁」を超えるには

寺島英弥 河北新報社編集委員

 2011年3月11日に起きた大震災の後、東北3県の被災地には内外のあらゆるメディアが入った。そこで何を感じ、何を持ち帰ったか? という取材者自身の体験は、発表された記事や作品以外の生の形で語られる機会はまれだ。マスメディアの場合、現地での記者の行動記録などは社ごとにあっても、内部資料にとどまると想像される。

 NHK放送文化研究所の主任研究員・井上裕之さんは同年6月、震災報道に関わったNHKの記者、アナウンサー、ディレクター、カメラマンらのアンケート調査を行い、被災地で取材者にどんな変化があったかを「言葉」の視点から分析。

 「『被災者』ではなく『被災した人』~震災報道で取材者が選んだことば」として今年3月に発表した(詳細はNHK放送文化研究所刊『放送研究と調査』9月号に収録)。回答した217人の生の声を伝える労作で、筆者も地元紙記者の立場からいくつかの意見を述べさせてもらった経緯がある。

 一メディアを超えて共有されるべきもので、筆者の取材体験も重ねて一端を紹介したい。

取材で気をつかったことば・表現・しぐさ

 津波から間もない被災地に入った刹那の記憶は、すさまじい破壊の風景に圧倒され、声をなくし、何をしていいのか分からない無力感に襲われたことだ。

 どの取材者も共通した出来事だったと思う。それから現場や避難所で、被災した人々に出会う。無論、話を聴くためだが、どう話しかけるか、何を聴けばいいのか? 廃墟となった街で、家と財を失い、家族が亡くなったり不明になったりした人々に、どんな言葉を掛けたらいいのか―。初めて入った取材者は、否応なく自分が「他者」であることを自覚する。それが始まりだった。

 井上さんの調査はまず「取材で気をつかったことば・表現・しぐさ」を尋ねた。被災者の取材で最も気を使った点として、次のような回答が紹介された。

 「相手の話をじっくり聞くことに徹し、途中でことばに詰まっても、相手が何かを話そうとしている場合には、相手のことばを待って話し終わってから、質問するようにした」「どんなに時間がない時でも、まずじっくり話を聞いてからにした」「話を聞くこと。ふだんの取材以上に、相手の話に耳を傾けるようにした。こちらの質問の意図とは異なる答えが返ってきても話を聞き続けた」

 当事者とコミュニケーションが取れたカギとしては、「『頑張ってください』などの励ましのことばよりも、『それはおつらいですね』などの共感のことば」「相手の言っていることを復唱しつつ共感するようなことば(『そうですよね』『そんなにひどかったんですか』など)を言っていると(中略)、実際にいろいろと話してくれたと思います」などの回答が挙げられた。

 これを井上さんは「取材者はじっくり話を聞いて、『共感』し、それを相手に伝えることが重要」と分析した。

 他の回答者も「相手の話にじっくりと耳を傾け、共感していることを態度で示すことができたときには、相手も心を開きやすいと思う」「相手のことばにうなずくこと」「軽々しく相手の立場を分かったようなことばを使わないようにした」「中途半端に分かったふりをしないように気をつけた」との態度を挙げた。

日常とは別の世界に「投げ込まれた」感覚

 人は互いに「分からない」存在として出会う。取材者もまた当事者の心情を知りえぬ「他者」として現れる。

 情報や訴えの発信の主体とは常に、さまざまな現場の状況に生きる「個」の当事者の側であるが、それまでの事件事故の現場でしばしば問題になったのは、狭い地域の(多くの場合)一人の当事者に多数の取材者が殺到して起こるメディアスクラムなどの報道被害だった。

 しかし、大震災の被災地はあまりに広大で、ひとつの町、集落の住民のほとんどが当事者となり、取材する側が少数者となった点が異なった。

 「地域に入り込む」のではなく、とりわけ震災直後は、日常とは別の世界に「投げ込まれた」感覚があった。

 経験したこともない膨大な人の死と悲嘆が取り巻く、その状況で取材者は、「取材する」自らの任務を果たさねばならなかった。上記のような被災者の「話を聴く」行為も、単に頭の中の「共感」で済むものではなかった。そのことも、井上さんが得た回答は明かした。

 「息子を亡くし納骨を行った被災者にインタビューしている際に取材相手と一緒に泣いてしまった。取材者としては失格だと思うが、それ以降は取材相手とより一層打ち解けたつきあいができるようになった」

 「被災者と一緒に泣いた。涙の止まらない私を見て、被災者も泣きながら話してくれた」「肉親を失った被災者の話を聞きながら、こちらも泣けてきて、2人で泣いた後、(中略)本音に近いことが聞けた」。

 取材者の側も感情をあらわにし、それを「逸脱」とする意識もありながら、結果的に当事者と「つながれた」という事例だ。

 井上さんが注目したのは、「一人の人間として」という回答の多さだった。

 「取材者としてではなく、一人の人間として向き合う」「情報を聞き出すのではなく、一人の人間として、その方のお話を受けとめることです」

 「放送で伝えることが自分の仕事ですけど、一人の人間として力になりたいので、何か手伝うことはありませんか」「何度も会いに行き、自分という人間を信用してもらえない限り、難しいと実感した」。

 また、以上のような回答と表裏の関係として、「自分の知りたい情報を具体的に聞くだけだと、相手の気持ちがくみ取れず、コミュニケーションがうまく取れないことがありました」といった苦い体験もあった。

 例えば、犯罪被害者の遺族が癒されるために必要なのは「三つのT」である、という。

 横浜市で1995年、ストーカー事件によって大学生の娘さんの命を奪われた、弘前市の山内久子さん(現・秋田看護福祉大教授)が05年、全国被害者支援ネットワークの仙台市での講演会で語った言葉だ。

 それは「時間(Time)、涙(Tear)、語ること(Talk)」。遺族らの当事者の心が必要とする時間に対し、マスメディアの取材者は日々の「締め切り」という職業的時間に生きる。二つの時間が深い溝を生み、マスメディアが取材を競うほど、当事者の側が必要とする時間が奪われてきた―という訴えも、筆者は別の取材で聴いた。

 それゆえ「知りたい情報だけ」の取材は、震災では困難で、被災者を傷つけもした。

 取材は、避難所や仮設住宅を訪ねて話を聴くことが多かった。

 筆者の経験だが、その時の心境を聴こうとすると、被災当時の体験を聴くことになり、家族の前史、地元の往時までさかのぼり、被災後の辛苦の歩みを聴き、行く末の不安や希望にも思いは及び、そして現在の暮らしぶりに話は戻る。

 とても時間が足りず、それを縁に訪問を重ねて「自分という人間を信用して」もらえることになり、ようやく、心の奥にしまわれていた言葉や事実がこぼれ出る。一度の取材が2、3時間、メモがノート二十数ページ分になることもあった。

 「もっとつらい人がいるから、わたしだけ、しゃべれなかった」と語った人、穏やかな表情が変わり「子どもを死なせ、悔しさと自責と恨みで気が狂いそう」と吐き出した人、「一人きりになると、いつも泣いてる」と漏らした仮設の世話人もいる。

 取材者も、ふだんの取材や傾聴では済まないものを負う。どこまで書いていいのか、どれを書けば誰が傷つき迷惑が掛かるのか、何がニュースなのか―も、人の関係と感情、土地の前史、それを巻き込んだ全体状況などをだんだんと知っていくことから、初めて分かる。

 一人では耐え切れないほどの苦しさを抱え、「聴いてもらってよかった」と言う人も多い。だからこそ、信頼を裏切ってはいけない。

「客観」とは何かを考える

 「一人の人間として」被災者と向き合った取材者たちの行為が「失格」「逸脱」なのか。

 それは、われわれの耳になじみ深い「客観」という観点からの省察であるに違いない。

 取材の肝要とは、「何が伝えるべき事実か」を正確に知ることであろう。その場合、離れて現場を見ることが「客観」になる訳ではない。自らの足と目と耳で、現場で確かめる態度こそが「客観」と筆者は考える。

 「ストーリーを隠し持ってきて、欲しい話だけを切り取られ、報じられた」という苦情を、当事者から何度か聞かされた。

 「たまたま訪れた取材陣に囲まれ、了解もしていない新聞に載った」「撮らないと約束したのに、素顔も亡くした子の写真も映像に撮られ、翌朝放送されたと知人から聞いた」との話。家族の団らんに交じって聞いた話をそのままネット上で「ルポ」にされた話もあった。「失格」「逸脱」とはそれらを言う。

 「一人の人間として」悩んだ取材者はメディアの別を超えて多かったことだろうし、その感覚こそが正しいと思う。

 自らの仕事からも逃れられず、「何か手伝うこと」が可能なのは、向き合った相手の声を伝えることだけだ。

 その仕事のさらなる難しさは、ノートに記した内容と重さが、読者や視聴者が受け取るニュースにおいても変わってはならないこと。当事者の声の発信を手助けし、つなぐことが、メディアの本義、役割と考えるからだ。

 筆者の場合はむしろ、「伝えられるニュースは、大きな事実のほんの一部に過ぎない」というメディアリテラシーの基本を被災地で痛感し、立ち会った現場のすべてを新聞に書けないことが悔しかった。

 そうした被災地での体験から、NHKの取材者たちに起きた変化の一つが、「放送で使わないようにしたことば」が自然に生まれていったことだった、と井上さんは発表で指摘した。回答から得られた代表的な例が「被災者」「がれき」「壊滅(的)」。

「がれき」になぜ抵抗が生じたか

 「被災者」については、「突き放した印象を受ける」「被災地以外から見た目線になる」「被災というらく印を押して、ひとくくりにまとめてしまうことに抵抗」「被災者である前に、町民であり村民であり、主婦であり、会社員」などの回答が紹介された。

 「壊滅」を使わなかった、との理由には「第三者的で、その地域に寄り添っている感じがしない」「被災者が失ったものの大きさを考えるとき、『カイメツテキ』のひと言で形容していいのか」「何度も使うと『全く復興の見込みがなく絶望的』という印象」などがあった。筆者が共鳴したのは「がれき」への感性。「かわらと小石、破壊された建造物の残骸など、価値のないものの集まり」(井上さん)だ。

 「傍観者的に感じさせる表現」「壊れた家やその他のモノに被災者の生活感が残っているように感じた」「その人たちにとっては家や車など大切なもの」との回答が挙げられ、「流された家財」といった表現に置き換えられたという。

 この言葉を、筆者もできるだけ使わないようにしていた。

 11年5月、南相馬市民のツイッター情報サイトで見た書き込みで、「瓦礫瓦礫って言うけど、ほんの1カ月半前迄、それらは瓦礫じゃなかったんだい。被災者にとっては今でも」とあった。

 それを読んで一気に頭の中をよぎったのは、被災から間もない石巻、陸前高田、郷里の相馬や南相馬の浜の光景だ。

 破壊された町々や集落跡にうずたかく積もった木っ端の山ではなく、足元に無数に転がった、中断された暮らしの断片。三輪車、化粧道具箱、鍋、女の子の晴れ着、古いタンス、片方だけのハイヒールやブーツ、45回転のレコード、教科書や参考書、携帯電話、位牌もあった。

 目が釘づけになったのは、アルバムだった。津波の潮で変色したページをめくると、結婚式の幸福そうな写真があり、笑顔に囲まれて赤ちゃんが登場し、3人の家族が歩みだしていく小さな歴史があった。この人たちはどうなったのか、生きていてくれたら―と、失われた家の跡を巡るごとに人の姿が思われ、胸が苦しくて仕方がなかった。

 「がれき」にしか見えないのは、遠くに離れているからであり、現場を歩いて被災者と出会った取材者たちには、もはや集合名詞や抽象名詞でなく、人と同じく向き合うべき「個」の存在となった。

 やはり南相馬市の浜で家を失った農家が、壊れた家の柱などを積み上げていたのを筆者が見て、理由を問うと、「再建の日まで取っておくんだ」と語った。彼にとっては、亡くした妻の形見であり、再起の希望がある限り、がれきではなかった。

 現場の取材者がこうして被災者の側の感性や視点を身につけた時、遠景しか見えぬ東京のデスクとの間で葛藤や衝突も生じたに違いない、と想像できた。

 悩みながら当事者との壁や溝を越えようと努め、学ぶ時に初めて、「客観」なる言葉にも血が通い始めるに違いない、とも。

     ◇

寺島英弥(てらしま・ひでや)

河北新報社編集委員。1957年生まれ。早稲田大学法学部卒。79年河北新報社入社。論説委員、編集局次長兼生活文化部長などを経て現職。著書に『シビック・ジャーナリズムの挑戦』(日本評論社)、『東日本大震災 希望の種をまく人びと』(明石書店)など。ブログ「余震の中で新聞を作る」。

※本論考は朝日新聞の専門誌『Journalism』1月号から収録しています。同号の特集は「民主主義にとって最大試練の年 2014年を展望する」です