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「放送報国」の亡霊たち―すばらしきNHKに向けて

金平茂紀 TBSテレビ執行役員

 組織というものは自律するから生き延びる。どのような人がトップにつこうと、どのような権力者や外部勢力が介入を試みようと、しっかりと現場で仕事をする人々がいて、ひどい目にあっても不屈の精神で立ち直り、人々のためにこつこつとやるべきことをやっている人が後に続いてきたからこそ、組織は維持されてきたということがある。

 NHKのことを書こうと思って、このような無理筋の夢想から書き出してしまった。現実はそうはいかない。けれどもそんなNHKといえども、まだまだ希望をもたないわけにはいかない出来事もたくさんあるのだ。

 大昔、そう、僕らがまだ学生だった頃、とにかくNHKは評判が悪かった。官製報道というか、権力のマウスピースのような言われ方をしていた。もっともその頃のほとんどのマスコミは「ブルマス」(死語だが、ブルジョア・マスコミの略語)などと揶揄されていた時代である。今のネット社会で、「マスゴミ」などと全否定して勝手に溜飲を下げているような輩がいる状況と似ていなくもない。

 その頃の「不逞の輩」たち(僕自身も含む)は、NHKの発音をもじって「犬、あっち、いけえ」などと言ったりしていた。つまり「権力の犬」に成り下がったようなメディアなど近寄らないでほしいというほどの意味である。なぎら健壱というフォーク歌手が、例の誉れ高い放送禁止歌「悲惨な戦い」をライブで歌っている音源がある。〈さすが、天下のイヌ・エッチ・ケー〉と歌っていた。

 けれどもNHKにはその後も、きちんと仕事をしてきた人がいた。だから何だかんだあっても生き延びてきた。誰がトップになっても某国政府のように何十年も居座り続けることはない。それらの人もいずれいなくなる。だがNHKの職員やNHKで働いている人々は、そんなに簡単にはいなくならないからだ。

 NHKの最大の可能性は、国内の事情からしか物事をみないような狭い視野を脱して、国外のこころざしの高いメディアやジャーナリズムの担い手たちと連携、協働していける点である。BSの海外ドキュメンタリーの紹介枠では、地上波でも(!)ぜひとも放送してほしいような秀作が並んだこともある(最近はなぜか自然ものがやたら多くなったが)。

 思い出すだけでも例えば、アレックス・ギブニーの「Taxi to the Dark Side」とか、「アメリカで最も危険な男~ダニエル・エルズバーグの回想」「5台のカメラが壊された~パレスチナ」「オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史」「アルマジロ~アフガニスタン前線基地の7か月」など、NHKでしか見ることができないようなすばらしい作品群があった。

 基本的な確認事項だが、NHKのBSのこうした姿勢には、「政府が右というものをわれわれが左というわけにはいかない」などとする近視眼的な主張とは一線を画す、広い世界へのまなざしがある。

 つい最近、NHKと海外ジャーナリストとのすばらしい連携・協働の成果も目にした。1月15日から3日間、NHKインターナショナルのファシリティ(設備)を使って(もちろん使用料金を支払ってだが)、アメリカの有力なインディペンデント・ニュース「デモクラシー・ナウ!」が、東京から世界に向けて3日間にわたって放送を出した。

「デモクラシー・ナウ!」のエイミー・グッドマン。東京から3日間放送した日本関連のトピックはホームページで見られる。http://welcomeamy.info/
 キャスターのエイミー・グッドマンは、全米でも著名な行動派ジャーナリストであり、その歯に衣着せぬ発言は、クリントンであれ、ブッシュであれ、オバマであれ、ヒラリーであれ容赦ない。

 3回にわたった放送をみたが、内容はきわめて充実していた。福島第一原発の事故をめぐる諸問題、沖縄の米軍基地をめぐるテーマ、日本のいわゆる「右傾化」をめぐるさまざまな問題、TPPへの参加をめぐるテーマと非常に広範なテーマを報じていた。籾井会長のめざす国際放送のありようとは多分異なっていただろうが、日本が抱えている諸問題を海外にあれだけの時間を使って発信できたことだけでも大いに意味があったと思う。

金字塔となるすぐれた番組の数々

 過去、NHKは多くのすぐれた報道番組を僕らに提供してきた。いくつかの作品は、NHKオンデマンドの仕組みを利用して視聴者もみることができる。それらのNHK作品で、僕が今の仕事を続けていくなかで大きな影響を受けた番組について、ここで若干触れておこう。

 例えば、かつてNHKは水俣病について数多くのドキュメンタリー番組を制作してきた。

 1973年3月に放送された「わが内なる〝水俣〟~告白的医師論~」は、熊本大学医学部助手時代から生涯にわたって水俣病患者たちと接し続け、救済にあたった医師の故・原田正純氏へのインタビューを中心にした番組だ。圧倒的に弱い患者の側に立って、自らが唱えた有機水銀説を否定しようとする「御用権力」に静かに対峙していた原田医師の生き方を知らされ、深く心を動かされたものだ。

 76年12月に放送された「埋もれた報告~熊本県公文書の語る水俣病」では、それまで公表されてこなかった熊本県の公文書の入手をきっかけに、当時の国や県の担当者を徹底的に取材することによってその責任を問うものだった。

 大治浩之輔記者(当時)の取材に対して、カメラから逃げ回る担当者をすさまじいまでの気力で追いかけた姿は忘れられない。当時、国や県は水俣病発生・患者放置の責任を全く認めておらず、「政府が右というものをわれわれが左というわけにはいかない」などと言っていたら、こんな番組などそもそも成立していなかった。

 例えば、薬害エイズ事件をめぐってもNHKは優れた報道番組を放送していた。94年2月に放送された「埋もれたエイズ報告」はその中のひとつだ。国が責任を一切否定する構図は水俣病と酷似するが、NHKが独自に入手した資料と厚生省(当時)が公開していた資料を徹底比較検証して、国の不作為責任を追及した。厚生省の生物製剤課長へのインタビューもしっかりと行っていた。

 「政府が右というものをわれわれが左というわけにはいかない」などという姿勢とは対極にある番組だったが、これらはNHKの良心派のいわば金字塔のような作品群である。

ゴステレの激変とBBCの自律性

 91年のことを記そう。当時、僕はモスクワ特派員だった。まだソビエト連邦という国家が地球上に存在していた時代である。

 そのソ連でちょうどNHKに相当するのが、「ゴステレ」と呼ばれる巨大な国営テレビ局で、毎晩8時から放送されていた「ブレーミア」という定時ニュースが、まさに「政府が右というものをわれわれが左というわけにはいかない」方針に忠実なごとく官製報道を続けていた。

 ロシアの人々はそんな事情はとっくに承知していて、ああ、また今夜も「ブレーミア」は「プラウダ」(ロシア語で「真実」という意味のソ連時代の御用新聞)みたいな放送を流しているわい、くらいに思っていたものだった。

 ところが8月19日に、ソビエト共産党の保守派と軍がゴルバチョフ大統領を突如軟禁してクーデターを企てた。ソ連政府は非常事態を宣言して、ヤナーエフ副大統領が「病気療養に入った」とされるゴルバチョフに代わって大統領権限を執ることになったと発表した。

 その夜、ゴステレの「ブレーミア」は、政府の非常事態宣言がいかに正当なものであるかを延々と伝えていた。これに怒った市民たちはロシア共和国の最高会議ビル前に続々と集結し、あっという間にバリケードを築き、ロシア共和国大統領のエリツィンは市民に徹底抗戦を呼びかけた。結局、保守派のクーデターは市民らの抵抗により敗北に終わったのだが、その過程で僕は、国営放送ゴステレでの激変を目撃することになった。

 当時のゴステレの会長はクラフチェンコという独裁的な人物で、ゴステレを強権で支配していた。職員たちは「政府が右というものをわれわれが左というわけにはいかない」との方針の下、日々の放送業務に従事していたのだが、先に記したクーデターが失敗に終わるや劇的な出来事が起きた。

 エリツィンがロシア最高会議ビル前で行われた勝利集会に姿を現して、クラフチェンコ会長を直ちに解任すると発表した。「プラウダ」も発刊停止となり、タス通信、ノーボスチ通信といった通信社の社長の解任が発表された。だが、聴衆が最も大きな拍手を送ったのは、ゴステレのクラフチェンコ会長の解任発表だったことを僕はとてもよく覚えている。

 その後のゴステレは一時「自由放送」のような状態になり、当局に睨まれて追放されたキャスターが復活するわ、解任されたクラフチェンコのインタビューを流すわ、しかも「あなたはどうして解任されたんだと思いますか?」とかの質問まで浴びせている番組をみて、頭がくらくらしたものだった。

 戦後のNHKがさまざまな点でお手本としているイギリスのBBC(英国放送協会)は、「政府が右というものをわれわれが左というわけにはいかない」との方向とは対照的に、放送の自律性を維持している。

 イラク戦争時の大量破壊兵器疑惑報道に関して、イギリス政府と真っ向から対立し、当時のグレッグ・ダイク会長が辞任したが、多くの市民は独立調査委員会の報告よりもBBCを信じた。BBCは第2次大戦のさなかも「わが軍」とは言わず、「イギリス軍」と報道している。僕らはこうした歴史から何を学ぶべきなのか。

「放送報国」の反省から出発した戦後の報道

就任会見で「(国際放送では)政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない」と発言したNHKの籾井勝人会長
 「政府が右というものをわれわれが左というわけにはいかない」という発言をNHKが忠実に実行していた実例を少しだけあげてみよう。

 NHK出版から出ている『放送の20世紀』という本がある。日本の放送についての戦前・戦中・戦後のいわば通史のような内容だ。NHK放送文化研究所が監修しただけあって、記述内容にはNHKを中心とした見方が色濃く反映されている点は否めないのだが、NHKにとって不都合な事実も比較的率直に記述されていて、読みやすい書物となっている。

 戦前・戦中、NHKは、前身の大日本帝国下の「社団法人日本放送協会」としてラジオ放送を続けていた。そのNHKが、広島に原爆が投下された時、どのような放送をしたか。

 同書によれば、45年8月6日の午後9時のニュースで広島原爆投下について初めて報じられ、「政府が右というものをわれわれが左というわけにはいかない」ので、大本営発表の通り、「けさ七時五十分頃、B29二機が広島市に侵入、焼夷弾と爆弾を投下した後退去。同市付近に若干の損害を被ったもよう」とだけ伝えた。これが歴史的な事実である。原爆投下による甚大・凄惨な被害は「若干の被害を被ったもよう」とされた。

 日本放送協会広島放送局は爆心地から1・3キロの至近距離にあった。原爆投下によって、放送局の建物は壊滅的な被害を受け38人の職員が死亡した。「若干の被害」とは、もうこれは「報道」ではない。こんなことを繰り返していてはダメだ、という真摯な反省から戦後のNHKは再出発したはずだった。であるからこそ、先に記したような優れた作品群がNHKからは生まれ続けた。

 戦前のNHK=社団法人日本放送協会の会長・小森七郎氏(在任期間36年9月~43年5月)は、日本がハワイの真珠湾を攻撃して日米が開戦したその日、総勢5900人の放送協会職員を前にして次のように訓示したそうだ。

 「諸君は今日よりいよいよ滅私奉公の大精神に徹して、相共に渾然一体となり放送報国の大使命に全力を挙げて邁進して載きたいのであります」(同書49~50ページ)

 「放送報国」というこの聞き慣れない言葉を発する人物が、21世紀の僕らの国=日本に再び現れないと言い切れるかどうか。NHKの現場の人たちにエールを送りつつ、あってほしい、すばらしきNHKに向けて、良質な番組がどんどんと出てくることを願うばかりだ。

     ◇

金平茂紀(かねひら・しげのり)
TBSテレビ執行役員(報道局担当)。
1953年北海道生まれ。77年TBS入社。 モスクワ支局長、「筑紫哲也NEWS23」編集長、報道局長、アメリカ総局長などを経て2010年9月から現職。 著書に『テレビニュースは終わらない』『沖縄ワジワジー通信』など。

本論考は朝日新聞の専門誌『Journalism』3月号から収録しています。同号の特集は「ジャーナリストを目指すあなたへ」です