2014年06月14日
空港内にズラリと並ぶスロットマシン、長蛇の列でタクシーを待つ乗客たち。それだけで、ここは米国のカジノの街ラスベガスであることを直感する。今年4月、私はその街にいた。
テレビ番組や映画、広告などあらゆるメディア表現を対象にした国際的なコンクール「ニューヨーク・フェスティバル」の授賞式に出席するためだ。1957年から毎年開かれ、世界50カ国以上から多数のエントリーがある。
このフェスでは、私が担当する「ザ・ノンフィクション」という番組で昨年1月20日に放送した「特殊清掃人の結婚~〝孤独死〟が教えてくれたこと~」が、ドキュメンタリーHuman Concerns部門で金賞をいただいたのだ。
この作品は、誰にも看取られない「孤独死」の現場で、故人の遺品を整理し、部屋にこびり付いた悪臭を取り除く「特殊清掃人」の姿を追ったものだ。これまで2000件以上の現場を経験してきた男性が、死者たちの人生を垣間見るうちに、人生観を変えていく様子を報告した。
正直言って、制作段階からある程度の手応えはあった。だからこそ、英語版を作成し、半世紀も続く老舗の「祭典」に応募した。しかし、金賞に輝くとは思ってもみなかったので、少々誇らしげに彼の地に降り立った。「死」は世界中の人々にとって永遠のテーマである、と思って制作したからこそ、その「思い」が届いたのだと痛感していた。
ラスベガスでは、楽しみがもう一つあった。東日本大震災の津波で犠牲になった人々が運ばれた、岩手県釜石市の体育館を舞台にした実話をドラマ化した映画「遺体」も映画部門で銀賞を受賞していた。その監督である君塚良一さんも、授賞式に出席することを知り、ぜひ聞いてみたいことがあった。
ヒルトンホテルのボールルーム。授賞式は厳かなうちに、粛々と進行した。そして司会者から「ザ・ノンフィクション」とコールがあり、受賞作の映像が流れて英語のナレーションが入る。
式が終わり、君塚監督と話す機会があった。大ヒット映画「踊る大捜査線」の脚本家でもある君塚さんに聞きたかったこと―。それはあの名セリフのことだ。
「事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ」。このセリフは、どうして生まれたのか。いつか直接聞いてみたかった。私もかつては、刑事ではないが、事件記者の端くれだった。このセリフには膝を打った。黒澤明監督の名作「七人の侍」の最後のセリフ、「勝ったのはあの百姓たちだ」に匹敵する言葉だと思っていた。
ホテルのバーラウンジ。君塚さんは受賞作「遺体」制作の裏話を聞かせてくれた。この作品がドラマからドキュメンタリーへの大いなるチャレンジ、挑戦であることがよくわかった。常に新しいものを求めてゆく、刺激的なもの、面白いものを創るぞ、というマインドが、飄々とした語り口から垣間見え、触発された。
最後に、気になっていることを問うてみた。あのセリフの着想はどこにあったのか、を。すると君塚さんは、何のためらいもなく、すんなりこう言った。
「僕の同世代の仲間たちがね。みんな言ってたんですよ。サラリーマンやってる奴とかがね。『俺たちが現場でやってるのに……、それはないよな』とかね」
仲間の声を代弁したのが、あのセリフだったのだと知った。みんなが、そして大衆が、感じていることを代弁する。それはドラマであっても見事な「ジャーナリズム精神」だと思った。その思いの強さが、大ヒット作を生み出したのだろう、と勝手に分析してほくそ笑んだ夜だった。
私の経歴は少し変わっている。最初は読売新聞大阪本社で記者をしていた。社会部などで事件記者を中心に、行政や街ダネもひと通り経験して11年。92年にフジテレビに中途入社した。新聞記者からテレビに転職する人は少なからずいる。でも、そのほとんどは即戦力として、報道局に配属されるケースが多い。私はなぜか制作部門に入った。そして、気がつけば22年間にわたってドキュメンタリー畑一筋を歩いてきた。
報道系ではなく、制作系の人間として手がけた作品は、ディレクター時代も含め450本を超えた。不思議な「縁」を感じる。ここまで、続けることになろうとは、自分でも思ってもみなかった。
そこで本稿では、新聞記者として活字の世界でジャーナリズムを体感した後、映像の世界で生きてきた経験をもとに、テレビに何ができるのかを考えたい。
おそらく、私が新聞記者のままだったら、君塚さんの言葉にあれほど心が動くことはなかっただろう。極めて私的な体験的ジャーナリズム論ではあるが、「特異」な経歴でしか、見えないものもあるかも知れない。
受賞作の「特殊清掃人の結婚」について、まず制作過程を紹介したい。
民放テレビの制作現場は、8割以上を制作会社が担っている。この作品も制作母体は、「HAXEN」というプロダクションだ。もう10年以上、仕事でつきあっている同社の森元直枝プロデューサーから、企画の提案があったのは、放送の1年以上も前のことだった。
なお、作品の多くを外部のプロダクションに発注していることには、様々な議論がある。ただ、私は、局とプロダクションは補完関係にあると思っている。現在の限られた陣容では不可欠だ。また、外部のいわばプロ集団と切磋琢磨することは、新たなものを生み出す効果もある。だから、局からの「丸投げ」ではなく、できるだけ、同じ方向を向いて一緒に作る感覚を大切にしている。
森元プロデューサーの企画は「事件、自殺、孤独死などで遺体が発見された部屋を掃除する人々に密着する」という内容だった。当初、私は乗り気ではなかった。画像は決して美しいものではないし、観る人によっては嫌悪感をもつかもしれない、と思ったからだ。しかもテーマはずばり「死」だ。深夜ならまだしも、日曜昼間(番組は午後2時から55分間)の時間帯だ。昼間から深刻になるのを嫌う人は多いだろう。
だが、話し合いの結果やることにした。なぜか? それは世相にあった。当時、「孤独死」や「無縁死」という言葉がニュースでよく使われ、死んでいるのに年金を貰い続けている事件も相次いでいた。「いかに死ぬか」が大きな社会問題になっていたからだ。
プロデュースは常に、その時代の世相や空気を敏感に察知しないと、結局、視聴者から見向きもされなくなる、という宿命を背負っていると思う。何故、テレビが観られなくなっているのか。それはネットの普及や生活スタイルの変化だけでなく、制作者の問題でもあると自問自答する昨今だ。
さて、番組は富岡洋一ディレクターという丹念に取材する彼の力もあり1年をかけてロケを済ませた。その後、業界で「あら編」と呼ばれる大雑把に編集されたものをもとに、どういう番組にするかを検討した。実はここからがプロデューサーの本当の仕事だ。構成はどうするのか、音楽はどんなタッチにするのか、そしてナレーションは……。ディレクターをはじめとするスタッフたちと意思統一を重ねていった。
最後は、特殊清掃人が両親に婚約を報告するシーンになっていた。私はここに着目した。スタッフたちに聞けば、主人公は当初、「独身主義者」だったという。そこで、単なるルポルタージュではなく、独身主義者だった主人公がどうして家族を持つ気になったのか、を解き明かす番組にしようと決めた。すると自ずと構成は決まっていった。ナレーションは、女優の竹内結子さんにお願いした。彼女のハードな感じの声が、この作品にふさわしいと判断したからだ。
観ていない人たちのために、簡潔にこの作品を振り返ってみたい。
沖縄県出身の主人公は、家庭など持つ気などないビジネスライクな人物だった。事業に失敗しては商売を替え、最後に行き着いたのが「特殊清掃人」だった。
この仕事で彼は、死者たちの生前の「人生」に触れ、孤独死にも様々な形があることがわかってくる。故郷を遠く離れ、世間から孤立して自殺してしまう30歳代の女性。アルコール依存症から家族が崩壊し、一人で死んでゆく元警察官。また、家族には看取られなかったものの、幸せな最期だったことを想像させる部屋もあり、それぞれの「死に様」にドラマがあることがわかってくる。経験を重ねるごとに、主人公は考え始める。いかに死ぬかは、いかに生きるか、だと。
また、彼に弟子入りする今風の若者も登場する。ライブハウスのステージでトロンボーンを吹き、「嫌になれば、すぐ辞めます」とカメラの前で語る。ところが、現場を重ねるごとに顔つきが変わってゆく。「死」から何かを感じとっていくのだ。
「お前は、耐えながら、へこみながら、涙を流したことがあるか? すべては、現場が教えてくれるよ」
ナレーション原稿も担当した私は、この番組の最後、主人公が結婚したばかりの妻と満開の桜の下を歩くシーンをこう締めくくった。
「人は一人で生まれ、そして一人で死んでゆきます。だから……」
ここに番組のエッセンスを注ぎ込んだつもりだ。なにかに気付いてほしい。観た人が、これを観る前と後で少しでも何かが変わってくれたら……。そんな淡い祈りを込めた。
この番組を制作してから、今の教育に対し、私なりに一つの提案を抱くようになった。
それを説明する前に、以下では、これまでの経験をもとに、私の精神の彷徨について語ってみたい。
なぜ新聞記者からテレビに移ったのか、とよく聞かれる。理由は一つではない。さまざまな要因が重なっている。でも一つだけはっきり言えることがある。それは、ある体験をしたことだ。
大阪府警捜査一課を担当した時、運よく海外逃亡した強盗殺人容疑の指名手配犯に、単独取材をしたことがある。歪んだヒロイズムから、大学に出入りする悪徳印刷業者の家に押し入って殺害、数百万円を奪って海外に逃亡した大学生だった。アメリカ大陸に逃げて約半年後、ハワイにいるという情報を得て、「ホノルルへ飛べ」と私に命令が下った。そして、偶然の邂逅。警察が捕まえる前に、業界用語で言うところの「身柄を抱いた」のだ。そこから計10時間にわたって大学生に取材した。
そこで最も感じたことは、「テレビカメラがあれば」ということだった。取材内容もさることながら、犯人の一挙手一投足、その表情のすべてを映像に収めることができたら、と思った。
活字は、論理を追うのに向いていると思う。ロジックで記事を組み立ててゆく。いわば「理」の世界に適したメディアだ。その点は映像より優れていると感じる。だから「社説」があり、主義主張を展開しやすい。
一方、映像はロジックよりも「情」だと思う。映像一つで、その人の人となりがこれほどわかるメディアもないだろう。ちょっとした表情や雰囲気で、本当のことを言っているのか、胡散臭いのかまで推察できる。社会や制度の矛盾を突くことに長じている活字メディアに対し、映像は人間を表現するのに適している。例外はあるだろうが、活字は「論」、映像は「情」のメディアといえるだろう。
私は「人間」の「情」を描きたかったのだと、今になって思う。だから転職したのだ。ちょっと格好つけていうと、人間から社会を照射したかったのだ。
それゆえ、転職後すぐに選んだ被写体は、大阪・西成の「あいりん地区」だった。社会の底辺でうごめく人々を映像で記録したかった。記者時代に1年間、持ち場だったこともあり、土地勘があった。
だが、ペン取材と違い、さすがにテレビカメラを担いで(当時はまだ肩に担ぐENGと呼ばれるものしかない)日雇い労働者の街を歩くのは辛かった。景色を撮影しているだけで、人が集まってきた。「何してるの、兄ちゃん……」と突っ掛かってくる人もいた。
ペン取材とは全然違う、映像に収めるという作業。毎日が憂鬱な作業だった。だが、撮れたものをプレビューしてみて映像の凄みがわかった。臨場感があるのだ。それはペン取材では得られない喜びだった。
番組は「何でやねん! 西成暴動」とのタイトルで、私のディレクターデビュー作品として深夜の「NONFIX」という番組で放送された。たまたま観ていた「週刊新潮」の記者が「元読売記者が作った釜ケ崎の迫力」との見出しで記事にしてくれた。テレビの影響力の大きさを改めて知った。番組でインタビューしたドヤ(安宿のこと)の主人の言葉が今も耳に残る。「社会を家にたとえると、このあたりはいわばトイレですわ。でも、必要なんや」
ドキュメンタリーは視聴率が獲れない、とよく言われる。視聴率というのは「大衆が何を好むのか」を測る物差し、と言い替えることができる。22年間やってきて、一般論としては一理あるだろう。だが、それはドキュメンタリーの本質に関わる問題でもあると、私は考えている。
私のように「人間」を中心にしたドキュメンタリーを制作していて常に行き着くのが「死」というテーマだ。極論を言えば、それを無視しては成立しないとさえ言える。事実を追及したり、本質を見極めたりしようとすればするほど、根底に横たわるのは「死」という命題だ。
だから、ドキュメンタリーを観せるということは、視聴者に「死を思え」と言っているに等しいのだ。ラテン語の「メメント・モリ」。もちろん、好んで観る人も一定数いるが、大衆という観点から見ると、相対的には少ないと推察する。
逆に、束の間でも「死を忘れさせてくれる」ものが、エンタテイメントと言われるものであろう。テレビ番組欄を見れば、いわゆるゴールデン、プライム帯にドラマやバラエティーなどのエンタテイメントがズラリと並ぶのも、むべなるかなだ。逆にドキュメンタリーが並んでいたら、少々健全でない気もする。
ドキュメンタリーとエンタテイメントは、合わせ鏡のように成立している。時に重なりあう場合もあるが、根底のところで、「死を思え」と「死を忘れさせる」は折り合いがつく訳がない。
しかし、である。そんな中にも例外はある。条件さえ重なれば、時としてドキュメンタリーも大衆の支持を得ることがある。
私は、ディレクター3作目に「霞が関」を取り上げた。新聞記者時代から興味を持ち続けたテーマだったからだ。
記者時代に年末の予算取材で霞が関に出張したことがあった。私はその時、大阪市役所の担当だった。初めて官僚の街に立って驚いたのは、全国の自治体の関係者が大挙して押しかけ、陳情を重ねる姿だった。いまだに「参勤交代」があると思った。日本は霞が関を中心にした中央集権の国であり、地方自治などはほとんどないと痛感した出張だった。
その霞が関を映像でどう描くのか。難問だった。従来の行政ドキュメントでは、単なるインタビュー集で終わってしまう。それでは、本当の生々しさは伝わらないと思った。そんな時、一人の官僚の存在を知った。当時の厚生省のキャリア官僚、荻島國男さんだ。だが、その3年前に既にガンで亡くなっていた。48歳という若さで。死亡記事が新聞に出ていた。課長クラスの官僚の記事が載ることは、異例だ。何かあるからこそ、記事になったのだと睨んだ。
すでに亡くなっている人をドキュメントすることは、一部の偉人を除いて極めて稀なことだ。本人にインタビューができないし、生きた映像がないことはドキュメンタリーの否定につながるからだ。だが、ひとまず取材してみた。すると、どうしても作品にしたくなった。
彼は厚生省でエースと見込まれた逸材でありながら、リベラルな発想を持つ異色の人物だった。キャリア官僚なら普通は行かない現場にも足を運ぶ「現場主義」の人。そして後輩やマスコミの多くの人に慕われていた。だから、死亡記事が載ったのだ。私は彼の存在が「官僚」の肯定であり、否定でもあると感じた。
荻島さんの最後の仕事は廃棄物処理法の改正だった。時代を先取りした「企業責任」の考え方を盛り込もうと、奔走した。結局、法案自体は省益がぶつかる省庁折衝で、骨抜きにされ、彼自身もガンを患って亡くなることになる。取材をすればするほど、いわゆる政官財の「鉄のトライアングル」の、文字通り鉄壁とも言える口の固さが立ちはだかった。この国自体が大きな談合社会であるように感じたものだ。
行き詰まった私は、最後は「隠しマイク」を持ち、記者時代にやっていた「夜討ち」を連日決行した。飲み会帰りの現職官僚たちや、すでに退官した人々などを直撃すると、おぼろげながら法案の折衝過程が見えてきた。
取材に没頭していると、荻島さんが乗り移ったようになっていった。苦しいが充実した日々だった。
まだまだ未熟ではあったが、全省庁が合意しないと法案が提出できないという、「和」を重んじるこの国の意思決定の過程を、一人の官僚の姿を通してあぶり出せた、と自負している。
まともに「死」を扱いながらも、被写体に魅力があり、取材者に「熱い思い」と「クールな計算」があれば、人の心が動き、観てもらえる作品が作れる。
本気になれば、テレビ・ジャーナリズムは、あらゆるチャレンジができることを教えてくれた。
その後、私はプロデューサーになった。いかに多くの人に、人間や社会を考えてもらうためのドキュメンタリー番組を出すか、を考え続けてきた。
視聴率を獲るためだけに制作してきたわけではない。だが、視聴率は視聴者の声だと思うと、謙虚に耳を傾けたくなる。しかも、毎分ごとの変化がわかる。観ている人の心が透けて見えるような時もある。視聴者と「対話」しながら制作を続けるなかで、私は五つの「S」を掲げるようになった。それは、観てもらえるドキュメンタリーを作るための指針である。
1・STORY(物語性)
単なる記録では誰も観ない。事実を通して、いかに興味深い物語を紡ぐか。真相究明も一つのストーリーであり、人間関係でいうと、和解、転落、成長と色々な物語がある。
2・SUSPENSE(ハラハラ感)
ドキドキする構成になっているか。何を言って何を言わないのか、細かい取捨選択が計算されているかが問われる。
3・STRATEGY(戦略)
主に編集戦略、音楽戦略、ナレーション戦略がある。素材を生かすためには、どういう仕掛けをするのか。戦略を立てたうえで計画的に実行する。戦略がないと、なぜ駄目だったのか、なぜよかったのかがわからない。
4・STANCE(距離感)
素材ごとに被写体との距離感は違う。一つのシーンでも、心理的に引くのか、寄り添うのかをしっかり決める。
5・SPLASH(飛沫)
感情の飛沫が上がるかどうか。ドキュメンタリーを取材していると、必ず人間の「喜怒哀楽」に出くわす。その極みがしっかりととらえられているか。被写体だけでなく、視聴者の感情も揺さぶれるのかどうかも大切だ。
これらが、現段階で私がドキュメンタリーを制作する場合に心がけている五つの「S」だ。
「ザ・ノンフィクション」も、今年6月に放送700回、10月から20年目に入る。基本的には、市井に生きる人々のドキュメントではあるが、時に社会的な事件、事故も取り上げてきた。
オウム真理教事件では、ジャーナリストの青沼陽一郎氏と組み、法廷とその証言をアニメ化した(写真5)。このシリーズはすでに5本を数えている。一昨年には小沢一郎氏の裁判もアニメにして話題を呼んだ。初期のころは、シリアスな法廷をアニメ化するなんて、と心配する声もあった。だが、しっかりしたコンセプトと、作り手の「覚悟」があれば、視聴者は理解してくれると実感している。
東日本大震災では「わ・す・れ・な・い」プロジェクトを立ち上げ、このタイトルで5本の作品を放送した(写真6)。今後も続ける予定だ。
さて、件(くだん)の提案である。私は4月のラスベガスで初めてルーレットをした。当然負けたのだが、カジノが放つ怪しい光は私には眩しすぎた。この光と同じように、今の日本の社会は空虚な光ばかりが多くないか。「陰翳礼讃」ではないが、「光」ばかり教えて「陰」を見ないと虚しさだけが残るように思う。
特に教育において、きれいごとだけがまかり通っている気がしてならない。「生」が光るためには「死」をしっかり教える必要があるのではないか、と切に思う。現実を、事実をしっかりと受け止める能力をつけるためには、「死」についての教育が必要だと提言したい。
新聞記者のころは、「権力の監視」や「社会の矛盾を摘出する」ことだけがジャーナリズムだと思っていた。
しかし、テレビでドキュメンタリーを作るうち、少しずつジャーナリズムの定義が広がってきた。ジャーナリズムにもバリエーションがある、と。少なくとも私は、大上段から語るのではなく、ミクロからマクロへ、一人の生身の人間から社会や世相を描きたい。それが「私のジャーナリズム」だと思っている。このように考えが変容してきたから、冒頭の君塚監督の言葉に心が動いたのだ。
新聞とテレビ双方に、長所と短所はあるだろう。しかし、詰まるところ取材者の人格、人生観、そして哲学などすべてが出てしまうのが、現場である。「偽物」が横行する世の中。本物を見極める目を持ちたい、と自戒する日々が続いている。
◇
味谷和哉(みたに・かずや)
フジテレビジョン情報制作局チーフプロデューサー。
1957年、大阪府生まれ。横浜国立大学経営学部経営学科卒。81年、読売新聞大阪本社入社。松山支局を経て、社会部で大阪府警捜査一課や大阪市役所などを担当。92年、フジテレビジョン入社。企画制作部でドキュメンタリーディレクターを務め、「今夜は!好奇心」「FNSドキュメンタリー大賞」「感動エクスプレス」などを担当。2003年から「ザ・ノンフィクション」チーフプロデューサー。
※本論考は朝日新聞の専門誌『Journalism』6月号から収録しています。同号の特集は「テレビ・ジャーナリズムが危ない」です
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