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戦後69年の夏に響くもの、重なるもの 二・二六事件の青年将校遺族を取材して

寺島英弥

 戦後が69年を数えた今年の8月は、戦闘参加に道を開く安倍政権の集団的自衛権の閣議決定によって記憶されるかもしれない。日本人だけで310万人余りが犠牲になった戦争を忘れていいのか―を問い直される夏でもあった。

 筆者は同じ8月、弘前市を訪ねて99歳の女性の語りに耳を傾け、河北新報くらし面で「聞き書き 戦争の時代」を連載した(同14~16日)。

 1936年、二・二六事件を起こし処刑された青年将校の一人、対馬勝雄中尉(青森県出身)の妹、波多江たまさん。

 兄の死を公に悼むことも軍部から禁じられ、沈黙を強いられた。その体験は、昨年末に強行可決された特定秘密保護法への懸念と重なり、事件から約80年後のいま、軍靴の時代再来への警句にも予言にも聞こえた。

終わらぬ戦争

 8月には、同紙社会面でも連載「伝える 戦後69年の夏」が東北各地の8人の戦争体験をつづった。ジャーナリストむのたけじさんは99歳。報知新聞、朝日新聞で従軍記者をした後、戦後、郷里に近い横手市で週刊新聞「たいまつ」を30年間発行して、反戦を掲げ続けた。

 『「講演回数は通算で5500ぐらい。マイクはほとんど使わない」。150センチの小さな体が窓ガラスを震わすほどの大きな声を出す。主催者から求められると、戦場の実態を生々しく語る。
 「相手を殺さなければ殺される。極限状態の中、兵士が理性を保てるのはせいぜい3日。道徳観念が失われ、暴行、略奪、放火が横行する」
 現地の女性への暴行をやめさせるため、軍事作戦の一環として慰安所が設置されたと、見た事実を告発する。』

 記者にこう語ったむのさんをはじめ、連載に登場した旧満州移民、シベリア抑留経験者、元神風特攻隊員、仙台空襲被災者らの言葉に躊躇はない。ありのままの体験だからだ。69年間、彼らの戦争は解決されぬまま、今なお聞き手を求めている。

 『医師が人命を救おうと必死になる中、軍は市民を守ろうとしなかった。こんな日本は負けた方がいいと悟った』

 『過ちを繰り返さないためには、かつてアジアを侵略した支配民族だったことの意味をきちんと考えなければならない』

 『私が舞鶴(京都府)の土を踏んだのは1949年8月のことです。4年もの間、国に見捨てられていたことになります。無責任を通り越して、非道だと思います』

78年前の体験

 筆者が取材した波多江さんも、むのさんと同じ99歳だ。二・二六事件後、「国賊」とされた「兄の真実を明かしたい」と1991年、対馬中尉の日記、遺稿や手紙類、肉親の回想を集めた分厚い『邦刀遺文』(上下巻)を家族と編んで自費出版した。しかし、それでも戦前に味わった無念は終わらないといい、訪ねてくる人たちに兄の時代を語り続けてきた。

 波多江さんはいまも毎日、新聞を読み、テレビのニュースを見ることを欠かさない。「政治と政治家の動きを知って、考えることが、自分たちを守る武器」であり、二・二六事件の体験から身についた習慣だという。

 その内なる警報を鳴らした出来事が昨年12月、政府与党による国会での特定秘密保護法の強行可決だった。

 「国家が秘密を持ち、隠そうとする時、必ず、もの言えぬ犠牲者が出ます」。自宅での長い取材で聞いた最も強烈な言葉だ。

 二・二六事件は36年2月26日、「昭和維新・国家改造」などを訴えた青年将校、兵士ら約1500人が決起して首相官邸などを襲撃し、高橋是清蔵相、齋藤実内大臣らを殺害した事件だ。3日後に鎮圧され、非公開、弁護人なしの裁判後、対馬中尉を含む20人が処刑された。

 遺族の異様な体験が、陸軍刑務所での処刑を突然知らされた朝に始まった。

 「額に銃弾を受けた兄の遺体が温かいうちに火葬を強制され、郷里の青森市に向かう列車内、実家での葬式に憲兵が張り付き、特高(特別高等警察)が弔問客を追い返したり取り調べたりした。埋葬する寺への道筋も見張られ、墓石を建てることも許されなかった」と波多江さん。

 対馬中尉は貧しい新開地の魚屋で育ち、満州事変(31年)の出征先で率いた部下たちも、昭和東北大凶作(30~34年)で疲弊した岩手県の農村出身者だ。

 『ある兵隊は妹が死んでもそのしらせが家から来ずに新聞で葬式も出せないでゐるのが分かって泣いてゐたそうです。家では知らせるにも参(三)銭切手をかう金がないのださうで』(対馬中尉の戦地からの手紙から)。「農民ハ夙つとニ辛苦忍従久シキニ亘わたル。共に起ッテ昭和維新ヲ絶叫セヨ」(同じ戦地での日記から)。

 波多江さんは語った。

 「決起に兄が参加したのは、農村の貧しさを救いたい思いが大半だったでしょう。戦地から父に、身欠きにしん、するめ、お汁粉など食料を『50人分寄こしてほしい。金は送る』との手紙がしょっちゅう届きました。お金に困れば貸してやり、戦死者があれば、遺族の暮らし向きも思いやる額の香典を送る。借金までしていました」

時を超えた警報

 農村を犠牲にし、救えない国への怒りを、対馬中尉は裁判で訴えたいと願ったという。

 だが、事件の真相は政治の最高機密だった。

 「軍部は『国賊』の汚名で声を封じ、秘密にし、徹底的に軍を粛清して戦争の道をひた走りました」

 「知られると都合の悪い秘密を国家が守ろうとすれば、罪をつくって、知った者を検束する。沖縄の返還交渉の密約情報を入手した元新聞記者は裁判で有罪になりましたね(西山事件)。恐ろしいのは、都合の悪い秘密や都合の悪い人を国家が自分で決めて、広げてしまうことです」

 波多江さんはこう話した。

 特定秘密保護法は、外交、防衛、スパイ活動防止、テロ行為の4分野で、行政機関の長が「漏えいすると安全保障に支障ある恐れがある」と判断した情報を秘密指定できる、との内容。だが、その基準の曖昧さに懸念が強い。

 波多江さんの胸の警報はこうして時を超えて鳴った。知ろうとする者を抑える動きは、国に反対する声の封殺にも広がったという。

 「特高は社会主義の本を持っているような人を『国家転覆の恐れあり』と調べたり、逮捕したりして、恐れられました。小林多喜二(プロレタリア作家。33年、特高の取り調べ中死亡)の時代です。やがて、国家総動員の戦争に異を唱える人にも目を光らせました。商人などに姿を変え、どこで耳を立てているか分かりません。怖くて誰も反対できなくなりました」

 二・二六事件から5年後の太平洋戦争開戦も、国民は突然のラジオ放送で知らされた。

歴史はニュース

 連載はニュースサイト「河北新報オンライン」に転載され、ネットの読者から、上「東北は貧しかった/希望を奪う政治今も」に152件、中「国家が秘密隠す時/もの言えぬ社会生む」に112件、下「開戦は突然だった/国を疑わぬ教育浸透」に114件のツイートを得た。「お盆中にこんな記事出てたんだ。知らんかった。新聞読まんと」との感想もあった。

 歴史の伝言を、記念日報道に終わらせることなく常に「新しいニュース」として伝える作業は、新聞のますます重大な役目と感じた。地域に眠ったままの事実を、若い世代の記者が聞き継いでゆくことに意味がある。

 波多江さんの声はさらに響く。

 「今、若者の多くが非正規雇用や職のない境遇に苦しみ、希望をなくしています。大企業ばかり潤わせて、広がる貧しさをほったらかしにする政治は、あのころと似ています。声を上げてほしい」

 「わたしも、学校で暗唱させられた教育勅語の文言を忘れるようになったのは、やっと最近です。(中略)とりわけ純粋だった兄は、その生き方しか選べなかった。だから教育は恐ろしいのです」

 「今の若者たちは新聞を読まない、と聞きます。どうやって、政治を知るのですか? あなた方が次の時代の当事者なのに、人任せでいいのでしょうか。わたしは、純粋さゆえに死んだ兄のような若者を、二度と出したくないのです」

 歴史は今とつながり、私たちも共に生きている。そこから考えよう―。例えば沖縄県の2紙が続けているのもそうした努力だ。最近の河北新報で、沖縄と関わる興味深い記事を読んだ。

 まず、8月19日の宮城県内版に載った村井嘉浩宮城県知事の会見。放射性物質を含む指定廃棄物処分場候補地の国の調査に地元の協力を求めた発言で、沖縄県の米軍普天間飛行場移転先の調査との比較を記者に聞かれ、沖縄県民に向けて「ベースは全体の利益。理解できない部分はあるかもしれないが、協力していただければ」と述べた。

 次に9月4日の「声の交差点」欄。沖縄県の73歳男性が村井知事の発言に応えた投書が載った。米軍基地の負担と苦痛を訴え、辺野古の海を景勝地・松島になぞらえて、「村井知事なら『全体の利益のために』の大義で、松島を埋め立てて軍事基地を造らせますか」と問うた。

 波多江さんが語った歴史からの警報は、ここでも鳴っていた。

     ◇

本論考は朝日新聞の専門誌『Journalism』10月号から収録しています。同号の特集は「「アベノミクス」はどうなるのか?」です


筆者

寺島英弥

寺島英弥(てらしま・ひでや) 

河北新報社編集委員。 1957年生まれ。早稲田大学法学部卒。79年河北新報社入社。論説委員、編集局次長兼生活文化部長などを経て現職。著書に『シビック・ジャーナリズムの挑戦』(日本評論社)、『東日本大震災 希望の種をまく人びと』(明石書店)など。ブログ「余震の中で新聞を作る」。