この挑戦をどう受け止めるかが問われる―『Journalism』1月号より―
2015年01月16日
「安倍政権の特質と展望―戦後70年を迎えて―」。このテーマで依頼を受けて後、突然の解散総選挙となった。あれよあれよという間に、前回を上回る自民党の大勝とまで言われたが、結果は前回とほぼ同じであった。すなわち安倍首相が自らの存在を自己確認するだけのこととなった。一寸先は闇というが、分かる範囲で安倍政権の現状と将来像について述べてみたい。
2015年にこの国は遂に「戦後70年」を迎える。
もちろん「戦後」の歴史は歴代の自民党政権が常にこの「戦後」を終わらせようとして、次から次へと政治課題を設定してきたことを示している。そもそも自民党は、「もはや戦後ではない」とする1956年の経済白書の高らかな宣言に示されるように、その前年、1955年の保守合同によって誕生したのではなかったか。しかも吉田茂政権の終焉と、戦前の経済水準への回帰とは、まさにこの政権が担った「戦後復興」の課題達成を意味するものであった。
しかし「戦後」はだからといって終わらない。「戦後」を終わらせるために、新しくスタートした55年体制下の自民党政権は、ポスト「戦後」を模索しながらも、統治の思考様式や閣僚人事において、一挙に「戦前」を引き寄せる結果を招いてしまった。
特に岸信介政権は、「安保改定」と「憲法改正」によって「脱占領」というカタチでの「戦後」からの自立を求めた。結局のところ、主観的には「戦後」を超えるはずが、客観的には「逆コース」という言葉に象徴されるように、ノーモア「戦後」が、ここで確定してしまう。そこで文字通り戦後派初の首相が導いた池田勇人政権は、復興から高度成長へという舵とりを行うことにより、「戦後」の肯定の上に更なる飛躍を目指す方向に転換した。そこでは「憲法改正」の棚上げが進む。1964年の東京オリンピックは、まさに「戦後」の達成と着地点を国内外に示す国際的イベントに他ならなかった。
この20年、すなわち今われわれの経験しているこの20年にはるかに先立ち、「戦後」の一つの着地点までをトレースした1945年からの20年は、こうして「戦後」を手放しでたたえる明確なエポックを迎えたのであった。だからこそ、続く佐藤栄作政権は新たなる政治課題を、「沖縄返還」と定め、佐藤首相自ら「沖縄の返還なくして戦後は終わらない」と明言したのであった。
しかも佐藤政権の時代、終わらぬ「戦後」に「明治百年」が重なる。「戦前」初頭の明治の国生みの栄光が、まさに「戦後」的価値の繁栄にダブって見えるならば、「戦後」の肯定に異をはさむ者はいないことになろう。そのうえ佐藤は日本が大陸を向いていた時代は不幸であったとして、「戦前」と明確に区分された「戦後」の固定化を強調してみせた。
かくてポスト佐藤の「三角大福鈴」政権は、「戦後」的価値をますます享受するようになってゆく。象徴的なのは、新全総(新全国総合開発計画、1969年)と日本列島改造論(72年)が示した国土開発の思想である。この二つのプランに共通する特徴は、地政学的に言えば、「日本列島の中で考える」という発想にあった。
そこには、日本の周辺たる中国も朝鮮半島も東南アジアも、一切出てこない。日本海はもちろん太平洋すらない。まさに抽象化され、北海道と九州とを形状的に接近させる「日本列島を丸くする」イメージ図が描かれた。みごとなまでに「戦後」はここに政治価値を脱色されたまま固定化されてしまったのである。
しかし、「安保改定」と並んで「戦後」を終わらせる課題たる「憲法改正」を首相在任中にできなかった岸信介は、政権へのカムバックを秘かに念じていた。岸はポスト佐藤の時代に、脱イデオロギーの権化である田中角栄を最大の敵に見すえながら、「戦後」を終わらせることを考える。そして岸はそのために「憲法改正」を常日頃語っていた中曽根康弘政権への支持にまわるのだ。
確かに中曽根は自らの政権のあり方を「戦後政治の総決算」と位置づけ、「戦後」を終わらせることを高らかに宣言した。そして国家的な価値を重視し、「憲法改正」を視野に置き、靖国問題など「戦後」の中に封じ込められてきたイデオロギーの一斉解放を目指したものの、結局固定化した「戦後」は微動だにしなかったのも事実である。
ポスト中曽根政権の嫡子であった竹下登政権の短命崩壊は、リクルート・スキャンダルと消費税導入が契機であった。ここに固定化された「戦後」は、戦後政治体制の礎となっていた自民党政権そのものの構造的劣化をもたらし始めた。さらに東西冷戦の終焉による世界レベルでの「戦後」イデオロギー構造の崩壊が起こると、日本の政治・外交も無傷ではおかない。すなわち内外ともに、これまでとは非連続のかたちで、「戦後」解体への圧力が強まった。
そこに「戦後」をぶち壊す国民の期待を伴って「政治改革」が、この文脈の中に立ち上がる。それは「戦後」の政治価値そのものではなく、「戦後」より10年若い「55年体制」を壊すことによって、いわば「戦後」の政治構造を変えることにシフトしたのだ。こうして20世紀末の10年と21世紀初めの10年、あわせて20年の「政治改革」の時代となる。
2012年12月の総選挙による自民党の政権奪還と、2013年7月の参議院選挙によるやはり自民党の勝利によって、「政治改革」の時代にピリオドが打たれた。この20年をリードしてきた小沢一郎そして小泉純一郎の2人とも、政治生命を終えかけている。小沢と小泉について論ずるのは本稿のなすべきことではない。
繰り返すが、この20年で「政治改革」は一回転し、その役割を終えた。すなわち「小選挙区」「二大政党」の下、2009年の「政権交代」では民主党政権が誕生したものの、続く2012年には再度の「政権交代」で、自民党政権が返り咲いた。「政治改革」の主唱者・小沢一郎が望んだのは、明らかに「政権交代」による長期にわたる自民党の野党化であった。他方「政治改革」とは無関係に小泉純一郎が推進したのは、「抵抗勢力」としての自民党の崩壊の契機を作りだし、「官邸主導」による「劇場型政治」推進への転換をはかることであった。
実はそのどちらもが中途半端なまま、失敗に終わった。小泉政権の後、自民党政権は、1年ごと3代の首相がなすすべもなく潰ついえた。そして野党転落である。しかし続く小沢主導の民主党政権も、これまた1年ごとに3代の首相がなすすべもなく潰えた。またもや野党転落である。その結果「戦後」は終わることなく、これまた残ってしまった。
2012年の衆議院選、翌13年の参議院選の結果により、自民党政権は公明党を誘ってではあるが、確かに「政治改革」以前の統治構造にビルトインされ再生されたかのような印象を与えている。さらに今回の再度の衆議院選における自民党の3連勝で、早くも自民党一党優位体制の復活と見るむきもある。
しかし、かつて「戦後」からの自立に失敗した岸信介は、もう一度首相にカムバックできたならと、次のような注目すべき述懐を残している(原彬久編『岸信介証言録』中公文庫、2014年)。
「私はいまでも思うんだが、戦後の日本では派閥間の抗争、党内の人間関係からいうて、一度総理総裁になるとそれで一丁上がりということで、お次の番ということになるんです。本当は、総理をやってですよ、しばらく野に下って、今度は権力者としてではなく国民の側に立ってものを観察し、いろいろ思いを巡らしてこれを前の経験と結び合わせてもう一度総理をやった政治家は、前より大いに偉くなるんですよ。それを利用しないのは、国にとって非常に僕は非能率だと思うんだ」
それでもカムバックを夢見た岸信介、田中角栄、福田赳夫、橋本龍太郎と、安倍よりははるかに実績をあげた何人もの有力OBが、常に涙をのんできた。その敗者の歴史の中で、任期も1年と短く実績にも乏しい安倍がなぜカムバックに成功したのか。
理由の第一は、小泉純一郎元首相が行った「抵抗勢力」排除による自民党ぶっ壊しの効果にある。派閥が名存実亡となり、派閥の長が総理総裁をめざし金と人事の支配を貫く構造がなくなったことだ。今の「仲良しクラブ」に、決定打を打つことはできない。だから安倍は旧来の派閥を横断する形で多数派を形成できた。そのうえ、安倍は「短命で非力」のイメージであったが、総裁選に挑む他の新人候補も「短命で非力」に見えたせいもあり、再チャレンジの資格が容易に与えられる状況にあった。
理由の第二は、いわゆるアベノミクスを訴え、政権の第一課題に経済と金融を措定したことだ。同時に小泉ばりの敵対劇の演出に成功する。すなわち政権発足100日間での勝負に賭け、明確な「敵」として残り任期が3カ月の白川方明・日銀総裁を据え、デフレの元凶としてたたき、アベノミクスを象徴する黒田東彦新総裁の電撃的着任と金融政策の変更を断行した。景気をよくする話に反対する人はいない。このムードづくりに安倍は勝った。
そして再チャレンジの日本と自らを重ね合わせ、
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