テレビ報道の「基準」の欠如と「空気」
2015年03月27日
発端は日本時間1月20日、「イスラム国」がネット上に投稿した映像だった。橙色の服を着て跪く後藤健二さんと湯川遥菜さんの後ろでナイフを持つ黒服の男が「72時間以内に身代金2億ドルを支払わないと2人を殺す」と安倍首相を名指しした。以来、新聞もテレビもネット投稿された動画や静止画、音声等を分析し、その意味を解釈し、政府の対応などを伝える、という報道パターンが続いた。
テレビは「放送」という即時性を持ち、「映像」というリアリティーある再現性を持つ特長を十分に発揮できたのだろうか。
NHKをはじめ、各局は1月20日の最初の投稿映像や24日の湯川さん殺害を示す映像、2月1日の後藤さん殺害の映像など、投稿映像に合わせて生放送などで迅速に報道した。
1月23日に後藤さんの母親が外国人特派員協会で会見した際には、NHKが「あさイチ」を中断させ、英語の「国際放送」でも同時に伝える、生の緊急特番に切り替えた。
湯川さんが殺害された後で「イスラム国」が投稿したのは、殺害前後の湯川さんの写真を手に持つ後藤健二さんの静止画像だった。その写真では、湯川さんは首が切断されていた。
テレビ各社はその部分にボカシをかけて、「首の切断」の事実を伏せて報道した。原稿でも触れないままだった。後藤さんの殺害報道も同様で、テレビも新聞三大紙も共通して首の切断については伏せたままで報道した。
欧米メディアでは斬首を意味するbehead,decapitationなどの言葉が見出しになった。
この事件の前、日本の報道機関は欧米人の人質が殺害された場合の報道で、首の切断という事実をあえて伏せてはいなかった。残酷さを嫌うテレビは強調もしなかったが、スタジオではこの事実を前提にコメントしていた。通常、国内の殺人事件の報道においても、殺害方法はテレビも新聞も当たり前のように伝えている要素でもある。
2014年に長崎県佐世保市で起きた女子高校生による同級生殺害事件でも、「首と手首を切断」という事実を、テレビも新聞も大きく伝えている。
その報道の基準は今回、変わったのだろうか。伏せられていたのはなぜなのか。明確な説明は表明されていない。想像するに、後藤さんや湯川さんの生前映像を大量に放映したため、「首の切断」の情報は「あまりに生々しい」し、「遺族の感情を配慮した」などの理由があるだろう。ではなぜ欧米人の人質では伝え、日本人の人質では伏せるのか。外国人とのダブルスタンダードは適切なのだろうか。
実はテレビ局にはケースごとの明確な基準は存在せず、あるのは「空気」だけなのではないか。
人質事件のさなか、テレビ各局は放送の「自粛」を様々な形で実行した。音楽番組の歌詞、アニメ番組のストーリー、お笑い番組のコント、CMなど、人質事件を連想させるものは差し替え、放送延期にした。人気グループが歌う「生きるか死ぬか」という歌詞の歌まで、違う曲に変更させた。
人質事件を連想させる番組を流すことで、視聴者や関係者が嫌悪感を抱いて寄越す苦情を避けたいという配慮なのだろう。だが、視聴者に嫌悪感を抱かせるから放送しないという判断がされる番組ならば、いつの時期にあっても放送されるべきものではないはずだ。それが、ほとぼりが冷めれば放送する、というのであれば、どの程度の期間なのかなど、基準を示し、運用の実態を明らかにしてほしい。
結局、「首の切断」という事実を伏せた理由と同じで、「空気」を察して自粛した、というのに過ぎないのではないか。
原則や基準はなく、その時々の「空気」で恣意的に放送が左右されていく。冷静にみれば、報道機関としてこれほど危険な状態はない。山本七平はかつて『「空気」の研究』で、戦争に暴走した日本人の「空気まかせ」の体質を
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