不利益を甘受しても守る矜持、楽しくやりがいのある仕事
2015年05月20日
とはいえ、乏しい頭をいくらひねっても、ここで偉そうに語るべきものを持ち合わせているとは思われない。私の中に辛うじて残されているのは、いずれも尊敬する先輩の記者やジャーナリスト、編集者たちからたたき込まれた教えばかり。つまり、オリジナルではない。身もふたもない言い方をすれば、単なる「受け売り」。
しかし、そう明記した上で、先輩たちからの教えのうち重要だと思うものをひとつ、ここで記しておこうという気持ちになった。どの仕事にも一定程度は共通する話だろうが、一見派手にも感じられるメディアやジャーナリズムにかかわる仕事とは、結局のところ地味な職人仕事の側面が強く、先輩から学んだ技術や教えを次世代に申し送りするのも大切なことだと思うからである。
私が学校を卒業し、大手通信社に記者としての職を得た直後のこと、数々の修羅場をくぐってきたことで知られる編集幹部に誘われて安酒場に行き、ずいぶんと熱っぽく諭された。おおよそ次のような内容だったと記憶している。
〈記者とかジャーナリストとかいっても、数あまた多ある職業のひとつにすぎない。会社だって、基本的には営利企業だ。名刺を持っていけば誰にでも会えるが、オレたちは単なる会社員だし、偉ぶるなんてもってのほか、常に謙虚じゃなくちゃいけない。
ただ、この仕事にはほかの仕事と違うところがある。会社は、単なる営利企業じゃない。たとえ損をしても、たとえ不利益を甘受しても、意地を張って守らなくてはならない矜持がある。最悪の場合、そのために会社がツブれるかもしれない。その覚悟を常にしておかなくちゃいけないという点で、この仕事はほかの仕事と決定的に違う。お前も、それをいつも頭にたたき込んでおけ〉—。
いまから考えれば若かったのだろう、安酒場のカウンターで薄い水割りを傾けながら編集幹部の話を聞きつつ、わずかに武者震いした。現実にそんな話はキレイゴトであり、多くのメディア企業が自己保身と利益確保に躍起となっていることを間もなく知るのだが、あの武者震いは、組織を離れてフリーランスとなったいまでも決して忘れてはいけない初心だとたびたびかみしめる。
そう、はっきりいえば、真面目にやればやるほど損をしかねない仕事なのである。だが、この仕事に携わる以上、意地を張ってでも損を甘受せねばならない時が確かにある。どういうことか。
普通の企業や仕事なら、取引先やスポンサーとの関係はどこまでも円満に保ち、常に利益を極大化しようと考え、行動する。新聞社を例にとれば、取材先や広告主などがこれにあたるだろう。
しかし、新聞記者は取材先や広告主との関係を円満にしておくだけではいけない。取材先だろうと広告主だろうと、そこに何らかの問題点や不祥事があれば真正面から批判する。独自の取材や内部告発などによって取材先や広告主の不正をつかんだら、敢然とそれを記事化して問題提起しなくてはならない。
当然ながら、取材先や広告主は怒る。まったく無縁の他人であればまだしも、ふだんは親密にやり取りしている関係なのだから、怒りはさらに増幅しかねない。
しかも、ここが大切なところなのだが、メディアとジャーナリズムの大きな役割は「権力や権威の監視」にある。そんなものは理想論にすぎないと冷笑する輩やからが大手を振っているのが現実とはいえ、理想は理想として常に掲げ続けねばならず、それを貫くならばメディアとジャーナリズムにかかわる者は常に弱者の側に寄り添い、強者=力の強い者にこそ徹底した監視の目を注ぎ込まねばならない。
これも当たり前の話だが、力の強い者は文字どおり力が強く、反撃力も強い。不正を暴き、あるいは批判を加えれば、こちらも打撃を受けるおそれが高い。
ここで「力の強い者」と簡単に記したが、それにはさまざまなものがある。政権や官僚機構、それを構成する政治家や官僚は筆頭格だろうし、巨大資本を擁する大企業などもそれにあたる。私が長年取材した対象組織でいえば、警察や法務・検察などは絶大な権限と権力を保持している。
これ以外にも大手の広告会社や宗教団体、あるいは大手の芸能事務所なども関係業界やメディアに強い影響力を有している。メディアそれ自身が権力装置と化していることだってある。
そうした組織や団体、個人におもねらず、批判すべきは批判し、不正があれば敢然と告発し続けられるか。
言うは易いが、行うは難しい。
たとえば警察や法務・検察組織は、強大な権力機関であると同時に、新聞社の社会部記者にとっては重要な取材先であり情報源でもある。批判を加えたり不正を暴いたりすれば反撃を受けかねないし、取材などの面で不利益を受けるのは必至の状況に陥る。
ひとつだけ具体例を挙げる。
いまから約10年ほど前のこと、北海道の名門紙・北海道新聞(道新)がキャンペーン報道を繰り広げ、大きな関心を集めた。北海道警察本部(道警)が組織的に手を染めていた「裏金づくり」という不正を地道な調査報道で次々と明るみに出したのである。
本題からはずれるのでここで手口などは詳述しないが、警察組織には捜査協力者などに支払う「報償費」というシステムがある。ところが道警は、領収書を偽造するなどして実際には存在しない協力者に「報償費」を支払ったことにして裏金化し、幹部の遊興費や交際費にまわしていた。
理由はどうあれ、これは捜査機関である警察の明白な犯罪行為—たとえば文書偽造、横領など—であり、道新は1年半にもおよぶ地道な取材とキャンペーン的な調査報道でこれを公にした。最終的に道警はしぶしぶながら7億円以上の不正支出を認めて謝罪するところに追い込まれ、道新取材班は新聞協会賞などの栄誉にも輝いた。メディアとジャーナリズムの役割である「権力の監視」役を見事に務めたといっていい。
しかし、ことはこれで終わらなかった。おそらく道警は怒り狂ったのだろう、強大な権力を背景とし、間もなく道新に対して陰湿かつ執拗な反撃に出た。
当時の道新取材班メンバーらによれば、事件や事故取材の情報提供で道警は道新を締め上げ、現場記者からは悲鳴があがった。
また、裏金問題をめぐるキャンペーン報道とは直接関係のない記事が事実と異なると抗議を繰り返し、取材班メンバーによる書籍の一部記述が名誉毀損にあたるとして道警OBは訴訟まで起こした。さらには道新内部の不祥事案を口実とし、場合によっては強制捜査もありうると道新を脅しあげたこともあったらしい。
こうした反撃を受け、間もなく道新は膝を屈してしまう。抗議を受けた記事については「おわび社告」を1面にでかでかと掲載し、道警側と裏で内々に手打ちしたというのが定説になっている。事実、裏金問題の取材班メンバーは編集の中枢から次々に外され、幾人もの記者が社を去った。栄光から屈辱への転落、まさに死屍累々だった。
実をいえば、警察の裏金問題はなにも道警に限った話ではなく、各地の警察本部で営々と続けられてきた全国的な悪弊であった。しかし、全国紙をはじめとする他のメディアはこれをうすうす知りながら追及せず、悪弊は長年にわたって放置されたままとなっていた。
これに道新の取材班は果敢に斬り込んだのだが、道新のキャンペーン報道を他のメディアは傍観し、ほとんど追随しなかった。果ては道警にすりより、道新をけなしつつ事件・事故に関する捜査情報を得るのに躍起となる者まで現れる始末だったらしい。
お分かりだろうと思う。メディアとジャーナリズム本来の任務である「権力の監視」役を担おうと真摯に貫けば、時にとてつもない痛手を受ける。もっと直ちょく截せつにいえば、損をする。真面目にやればやるほどしんどい目に遭う。逆に「力の強い者」と適度に折り合い、ねんごろにつきあい、うまく世渡りしていった方が圧倒的に得をする。
だが、そのような者はメディアとジャーナリズムの仕事にかかわるべきではない。少なくとも私は、絶対にかかわってほしくないと痛切に思う。それが前述した先輩の教え—たとえ損をしても、たとえ不利益を甘受しても、
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