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「お金にならない取材はただの旅行よ」

妻の叱責を背に台湾取材に飛び込んだ

岸田浩和 ドキュメンタリー映像作家

運動の象徴となったロックバンドの歌を歌う台湾の学生たち=「家に帰ろう」から拡大運動の象徴となったロックバンドの歌を歌う台湾の学生たち=「家に帰ろう」から
 2014年3月29日夜。知人がフェイスブックに投稿していた一枚の写真に、目がとまった。

 台湾の国会にあたる立法院の議場前で、車座になって座る若者たちの姿が写っている。台湾の学生による政治デモだというのに、彼らの表情は明るく、希望に満ちあふれていた。

 キャプションには「台湾中から集まった若者は、みんな宿題をやったり、議論をしたり、絵を書いたり、ゴミを分別したり……とにかく色々」と書かれていた。

 「ひまわり学生運動」とも呼ばれた行動のきっかけは、13年6月に台湾の馬英九政権が中国との間で結んだ「サービス貿易協定」だった。中国と台湾が、双方の市場を開放することを定めた協定で、政府は両国の経済的な関係強化と市場の活性化を促すものと説明した。

 一方で台湾国民からは、巨大な中国資本の進出が加速し、台湾の中小企業が危機に陥るとの懸念の声が上がった。中国メディアの本格的な台湾進出が加速するとの見方もあり、台湾統一に向けた布石になるのではないかと不安を募らせる国民も多数いた。

 しかし、十分な議論がなされぬまま、14年3月17日に与党国民党が協定の審査通過を強行採決しようとしたため、政府に反発した市民らがデモによる抗議行動を起こす。

 翌18日夜、約300人の学生が立法院に突入した。彼らは政府に「密室政治の打破とサービス貿易協定の承認阻止」を求め、3週間にわたって議場を占拠する。

 立てこもる学生たちを応援しようと、全国の市民や学生らが駆けつけていた。国会近くの道路は学生らによって封鎖され、水や果物を配る無料の屋台や、この場に寝泊まりする若者のテントが立ち並ぶ解放区に変わっていた。

 夜になると、道路の中央に設置された仮設ステージの照明がともり、マイクを持った若者が政治演説やバンド演奏を行う。国会周辺は、政治デモというよりは夏祭りの会場のような喧噪(けんそう)に包まれていた。

 フェイスブックに投稿した知人は、たまたま仕事で台北を訪れ、現地の様子を知ったという。

 「街中に〝支持學生〟の垂れ幕や貼り紙がある。こんなこと日本で起こりえるだろうか……自ら自由をつかみ取ろうとする、小さな国の若者と温かく支える大人たち」とコメントを残していた。

五感でうねり感じたい 格安航空券買い台北へ

香港の雨傘革命を取材した動画の一部拡大香港の雨傘革命を取材した動画の一部
 この投稿を見て、私は居ても立ってもいられない気持ちになった。困難に直面した国民が団結し、大きなうねりと熱気に包まれているのではないかと想像した。

 抗議行動がどういう結果を迎えるにせよ、一つの変化点と呼べる現場を、自らの五感で体験したいという猛烈な誘惑が湧き起こった。

 カレンダーを見ると、2日間ほど予定があいている。インターネットでチケットを調べると、東京―台北の往復チケットが3万円弱で見つかった。

 当時の私は、13年間勤めた会社を依願退職して半年。フリーランスの記者、映像制作者として看板を掲げたものの、まだ仕事が軌道に乗ったとは言いがたい状況だった。

 「収入のあてのない取材に行ってよいものか……」とパスポートを手に逡巡していると、異変を察知した妻が厳しい表情で「お金にならない取材は、ただの旅行だからね。台湾の〝た〟の字も知らないあなたに一体、何ができるのよ」と、釘を刺してきた。

 真っ当すぎる指摘を聞きながら、「それでも、しかし!」という思いが湧き起こる。転職のデッドラインと言われた35歳を過ぎてから、飛びこんだフリーランス記者の道。あらゆるリスクに目をつぶって、「伝える側に立ちたい」という思いを優先した結果が、自分がいま居る場所なのだ。
「こういう瞬間に、取材者として現場に立てるようにと会社を辞めたんじゃなかったのか」と振り返る。「いま、台湾に行かなければ一生後悔するんじゃないか」という迷いが確信に変わる。

 占拠された国会の中にさえ潜りこむことができれば、映像を作品にまとめるイメージはできあがっている。短くてもいいから、映像の断片ではなく作品の形にできれば、他の記事や映像の仕事に発展させることもできる。満足のいくアウトプットができなかったら、そもそも自分はこの仕事に向いていなかったのだと思い知ればいい。

 こうして翌朝、私はカメラと三脚を手に、少しの緊張感と晴れやかな気持ちを胸に成田空港へと向かった。

 台北に着くと、空港から市内に向かうバスの中でスマートフォンを取り出し、検索サイトで宿を探した。占拠された国会に一番近い安宿を探す。一泊1500円のドミトリーを見つけてベッドを確保し、不要な荷物を預けてすぐに現場に向かった。

機材一式を抱えた筆者拡大機材一式を抱えた筆者
 装備には気を使った。機動力を優先するため装備を簡素化したい衝動に駆られたが、あらゆる状況に対応できるよう、必要と思われるものはすべて身につけた。

 カメラは、写真と動画を撮影できるキヤノンの一眼レフカメラ1台に絞った。夜間の暗所撮影を想定し、F値の明るい単焦点レンズを持参。広角、標準、望遠のズームレンズ3本と小型のLEDライト、三脚、インタビュー用のガンマイクや、動きのある映像表現に効果的なスライダー、予備バッテリー5本と充電器、記録メディアも持っていった。

 装備の大半は、newsware(ニューズウェア)という海外の報道カメラマンが好んで使う、収納力が非常に高いカメラ用ベストに収納した。

中東の取材陣に交じり議場の規制線を越える

 事前の情報はなかったが、立てこもっている学生への物資補給や人の行き来のために、必ず議場の内部にアクセスできる場所があると考えていた。周辺の状況を映像に収めながら、国会の回りをゆっくりと歩いた。

 予想通り議場の裏門付近に、人だかりができている場所があり、学生らがバリケードを築いていた。手前には警察の規制線が張られていたが、メディア関係者は自由に行き来している。記者証がないと入れないことが分かったが、そんなものは持っていない。どうしたら突破できるのか、少し離れたところから観察を続けた。

 しばらくすると、中東系のテレビクルーが大人数でやって来たのを見つける。最後尾を歩くクルーにひと声かけ、彼らの隊列に紛れ込んで規制線を越えさせてもらった。

 議場の入り口では個別のチェックがあり、追い返されそうになるが、だめもとで「日本語の話せるスタッフと話したい」とお願いすると、流りゅう暢ちょうな日本語を話す学生を連れてきてくれた。

 彼に、日本で活動するドキュメンタリー監督だと説明し、取材の意図を聞いてくれと懇願した。「日本の大手メディアでは、中国政府への配慮もあり、君たちの活動や主張が十分に報道されていないので、フリーランスの私が取材に来たのだ」と説得する。

 ようやく無線でどこかに確認を取り始めた。「日本の記者証をみせろ」というが手持ちはない。仕方なく写真雑誌の年間購読者カードや、だれでも入会できる写真関係の協会の会員証を見せる。
いぶかしげな表情を浮かべる彼に、最後に言いたいことを言ってやろうと思い、「自分は東北の震災現場も取材していた記者だ。君たち台湾人がいち早く日本に支援金を送ってくれたことに、たくさんの人が感謝している。だから、日本人として君たち台湾人に借りを返したい」と伝えた。

 これでだめなら引き下がろう。立ち去るつもりで、

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筆者

岸田浩和

岸田浩和(きしだ・ひろかず) ドキュメンタリー映像作家

1975年生まれ。立命館大学を卒業後、レンズメーカー勤務を経て、ライター活動を開始。東日本大震災を機にドキュメンタリー制作を始め、宮城県石巻市の被災した缶詰会社の再建を追いかけた短編ドキュメンタリー「缶闘記」を発表。同作で5カ国9カ所の映画祭に入選・入賞。現在はドキュメンタリー作品とプロモーション映像の制作に取り組む。綿密な取材で対象の持つ魅力を引き出し、力強い物語を伝えることがモットー。 E-Mail:ekkyocenter@gmail.com Web:http://www.kishidahirokazu.com/