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新聞を一気に甦らせるために必要なこと

自由な言論でヒラメ型記者を一掃せよ

北村 肇 「週刊金曜日」発行人

 初めて社会部職場に足を踏み入れたときの衝撃はいまも忘れない。

 朝の10時ごろだったか、夕刊帯なので全体にバタバタした雰囲気はなかった。ふと、窓際に設えられたぼろぼろのソファとこわれかけのテーブルを見て.然とした。ベテラン記者とおぼしき数人がだらしなく座り、テーブルの上には乱立するビール瓶とおつまみの皿。しかも、みんな赤い顔をしている。〝宴会〟はまだ続行中だったのだ。まか不思議な朝の光景に心を奪われている私をよそに、他の記者は平然と、電話をかけたり原稿を書いたりしている。

 毎日新聞社に入社したのは1974年。浦和支局で7年を過ごし、社会部配属になったのは81年4月だった。支局時代も、これといった決まり事やタブーはなく、のびのびと仕事をしてきた。毎日労組の支局代表をしていて、二回り以上年長の支局長を団交でどなったこともあった。おとがめはなかった。それでも、さすがに朝から飲んだくれるようなことはない。「ききしにまさるヤクザな職場だな」が、社会部の第一印象だった。

 だが、ある日、飲んだくれ軍団の真の姿をみた。どんな事件だったかは覚えていないが、夕刊社会面のトップになるくらいのネタだった。一報が入った途端、彼らの目つきが一変した。デスクの指示を待つまでもなく、瞬時に打ち合わせをすると、現場に飛ぶ者、電話をかけまくる者、私のような新米に指令を出す者と、実に手際よく動いたのだ。やるときにはやる。後は何をしていても自由。思わず「かっこいい」とつぶやいてしまった。『毎日』に惚れ直した瞬間だった。彼らが、いわゆる手練れの遊軍記者であることは、後に知った。

 いちエピソードにすぎないが、風通しがいい、野武士的記者が多い、とにかく自由だという毎日新聞の評価は一貫している。こうした社風については学生時代、何となく耳にしていた。だから、拘束が何よりも不快な人間としては朝日新聞や読売新聞に比べ『毎日』に魅力を感じ、まよわず同社の入社試験を受けた。しかし「自由」は「いい加減」の背中合わせでもある。新聞社とはいっても企業であることに変わりはない。経営に風通しはあまり関係なく、求められるのは9割の堅実さと1割の度胸だ。『毎日』経営陣はどちらも欠けていた。その結果、私の入社時には、すでに『毎日』の経営はボロボロだった。

 新人研修の際、ある役員がにやにやしながらこんなことをのたまわった。

 「君たちは記者の資格がないね。我が社の経営状況を取材もせずに入ってきたのだから」

 私が取材不足なのは事実だった。就職ガイドなどを見る限り、初任給や賞与は『朝日』『読売』とほとんど差はなかった。それを鵜呑みにして、『毎日』の経営状況を探ることなど考えてもいなかったのだ。

 今回、私に与えられたのは「新聞の内的自由」というテーマだが、この論考における「内的自由」は、宗教用語にみられるような「個人の内面における自由」ではなく「社内民主主義」の同義語として扱っている。そのことをお断りして、まずは当時の『毎日』の経営実態から話を始めたい。社内民主主義を担保し外部からの編集権侵害を防ぐことを目的とした毎日新聞編集綱領。その生みの親は「実質的な倒産」であった。言い古された表現だが、「家貧しくて孝子顕わる」だったのだ。

実体は「倒産」の新会社に「熱いエール」が続々

新聞労連も『毎日』支援に乗り出した。毎日新聞東京本社西口玄関前で開かれた新聞労連東京総行動であいさつする当時の大住広人・毎日新聞労組委員長=1977年11月新聞労連も『毎日』支援に乗り出した。毎日新聞東京本社西口玄関前で開かれた新聞労連東京総行動であいさつする当時の大住広人・毎日新聞労組委員長=1977年11月
 経営危機が表面化したのは、まさしく私が胸躍らせて入社した1974年のことだった。その年の累積欠損は41億円に達した。さらに75年56億円、76年83億円で計180億円と膨れ上がる。借入金は670億円、支払手形の残高が67億円で計737億円。しかも毎月の赤字は5億円という垂れ流し状態で、資金繰りも苦しく、76年11月末で手持ちの資金はわずか30億7400万円。受取手形の71億円と合わせても100億円しかないという危機的状況だった。

 労使交渉で会社側が示した見通しは組合を驚愕させた。12月に賃金を支払うと使用可能な資金は13億円。年末には19億円に増えるが、翌77年1月に賃金(16億円)を支払うと月末には6億6千万円のマイナスになる。つまり資金ショートだ。賃金支払い遅延の可能性があるとも伝えられた。

 このとき、会社は会社更生法適用(倒産)を回避するため、水面下で〝秘策〟を練っていた。いわゆる新旧分離案である。具体的には以下のような案だった。(1)借入残高の凍結、利息の棚上げを金融機関に要請(2)旧会社は自動的に収支均衡を維持できるシステムとする(3)新会社は赤字を出さない―。要は、借金と資産を旧会社に押しつけ、新社はまっさらな状態でスタートさせるというものだ。

 役員会が秘密裏に進めていたこの計画をある筋から入手した毎日労組は直ちに、反対闘争に乗り出す。新旧分離を実現するためには銀行に利息の棚上げを依頼する一方で、新社は赤字を出さないことを確約しなくてはならない。となれば、経営合理化を求める銀行が陰に陽に社内に入り込んでくることは避けられない。労組は、人員削減だけではなく、「報道の自由」が侵害される危険性が飛躍的に高まるとの危機感を抱いたのだ。

 その後、紆余曲折を経て、会社側は77年3月26日、『朝日』『日経』『共同』のインタビューに応じる形で一方的に新会社計画を公表した。これに怒った毎日労組は会社との団交だけではなく広範な運動に乗り出す。取引銀行に直接、「報道の自由を守れ」と申し入れたのはもちろん、文化人、学者などに「1万人アンケート」を実施した。アンケートでは「紙面への注文」などを聞いたが、たちまち千人以上からの回答があった。たとえば、作家の井上ひさしさんからはこんな回答が届いた。

 「素人の素人たるゆえんですが、四百五十万部も売れて、なお『赤字』というのが、どうしてもわからないのです。(略)新聞販売合戦はもうやめてしまったらどうでしょうか。景品で買う客とは、けつ別する時です。新聞は紙面が勝負です。すべてです。決してお世辞ではなく、昨今、あらゆる日刊新聞のなかで、毎日新聞がもっともいきいきとしておもしろく役に立つ新聞であると思います」

 新会社とはいっても実体的には倒産したわけだから、

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