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テレビよ、お前も自発的隷従へと進むのか

政治の宣伝装置に成り果てる危惧

金平茂紀 TBSテレビ執行役員、「報道特集」キャスター、早稲田大学大学院客員教授

「引退表明」の記者会見で、「新聞記者は外へ出て下さい」と、机をたたく佐藤栄作首相=1972年6月拡大「引退表明」の記者会見で、「新聞記者は外へ出て下さい」と、机をたたく佐藤栄作首相=1972年6月
 戦後70年の節目の年。日本のジャーナリズムの位置を再確認し、その役割を問い直す作業が各所で行われているようにみえる。本誌の特集もそのうちのひとつだろう。ポール・ゴーギャンの代表作のタイトルではないが、〈われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか〉を自問する営みが、今現在ほど切迫した意義を帯びてきていることはない。

 あえて言ってしまえば、「戦後ジャーナリズム」はいま瀕死の状況にあるのではないか。それは、現下のこの国で進行している、「戦後」的フレームを葬ってしまえとばかりの、憲法破壊、安保関連法制の制定等に向けた強引な政治の動きと決して無関係ではない。

 僕は日本でテレビ放送が開始された年に生まれた。だから日本のテレビの歴史と自分の人生が全く重なっている。自分の人生の価値観形成ということでも、大いにテレビの影響を受けてきた世代だ。子どもの頃、近所の裕福な家にみんなでテレビを見せてもらいに行った記憶もあるし、自宅に初めてテレビが届いた日のことも覚えている。

 テレビはかつて、戦後民主主義の申し子のような存在だった。僕自身は「シャボン玉ホリデー」を毎週楽しみに見て、「ひょっこりひょうたん島」を平日欠かさずに見ていたような人間だ。縁あって、僕はその後、テレビ報道を自分の職業とすることになり、40年近くこの仕事を続けてきている。

昭和天皇の崩御で、ネオンが消えた銀座=1989年1月拡大昭和天皇の崩御で、ネオンが消えた銀座=1989年1月
 前述の通り、テレビは文字通り「戦後的な」メディアだった。実際、戦前・戦中にはテレビは存在していなかった。だから、新聞やラジオ、雑誌のように、大本営発表も報じていないし、戦争協力に手を染めたこともなかった。戦意高揚に進んで協力し、戦場に若者たちを駆り立てる作業にも直接は関わらなかった。テレビはそういうメディアだった。

 だが、歳月を経て、どうもそれが怪しくなってきたのではないか。テレビは変質してしまったのではないか。テレビの

 役割や位置づけが「戦後的な」ものから変容を遂げたのだとしたら、どのようなエポックメイキングな出来事を経てからなのか。テレビ・ジャーナリズムという観点から、僕なりに思い浮かぶ、独断に基づく「12の出来事リスト」なるものを作成してみた。

 といっても僕は、ここで戦後テレビ報道史を通覧するような大それたことを行う気はないし、その余裕もない。在京民間放送局で長年テレビ報道の仕事を続けてきた立場から、おおまかにピックアップしてみただけのリストだ。それも出来事を中心に考えたものではなく、テレビというメディアを中心に、こういう事柄や偶然によってテレビは大きな変容を被ったかも知れない、と思われる事象を考えてみた。これらは、テレビを中心に考えた世の中の空気の転換時についてのリストのようなものだ。

地震で横倒しになった阪神高速道路=1995年1月拡大地震で横倒しになった阪神高速道路=1995年1月
 ①1962年 日本初のキャスターニュースがスタート……TBS系列の「ニュースコープ」で、初代キャスターに田英夫氏らが起用された。これによって、「人間の顔をした」定時テレビニュース番組の影響力が社会に広く浸透することになった。その後、田氏は、ベトナム戦争時の北ベトナム・ハノイ取材の報道が理由でキャスターを解任された。この解任は、実に露骨な政治権力からの介入がもたらしたメディア史上特筆されるべき事件だった。

 その後のNHK磯村尚徳氏の「ニュースセンター9時」(74~88年)なども、「人間の顔をした」定時ニュースの一つだったことは間違いない。大きくみれば、以上のような動きは、テレビニュースの書き言葉から話し言葉への転換とも言える。

 ②1972年 佐藤栄作首相の退陣記者会見……テレビを重視し、政権に批判を向ける新聞を蛇だ蝎かつのごとく嫌った佐藤氏が、「最後の花道」となるはずだった退陣記者会見で「新聞記者は出て行け!」と喧けん嘩かを売り、それに抗議した記者たちが全員、敢然と退席するというメディア史に残るスキャンダラスな出来事。この当時の緊張関係がなぜ今はなくなってしまったのか。後述する。

 ③1972年 浅間山荘事件のテレビ中継報道……連合赤軍のメンバーらが立て籠こもった長野県軽井沢町の山荘を包囲するように報道陣が陣取り、テレビ放送史に残る長時間生中継が行われた。国民のほとんどが「観客」としてテレビの生中継に見入り、機動隊が突入した時刻の視聴率(89・7%)は個別の事件報道としては最高記録となっている。社会がもっていたいわゆる左翼運動全般への評価にも決定的なダメージを刻印した出来事でもある。またこの報道によって、テレビメディアは自己の影響力の圧倒的な大きさを認識することになった。

オウム真理教による地下鉄サリン事件では多くの死傷者が出た=1995年3月拡大オウム真理教による地下鉄サリン事件では多くの死傷者が出た=1995年3月
 ④1989年 昭和天皇の「崩御」報道……その人物が背負ってきた歴史の重みがこれほどまでに大きく、そして憲法上も国民統合の象徴である人間の死去にあたって、テレビは、空前の長時間に及ぶ追悼報道を行った。娯楽や笑いの自粛という現象に加え、民間放送においてはCM抜きの放送が長時間実施されたことで、公共放送が国家との関係でどのような機能を背負わされているのかを、テレビが自己認識することになった。

 ⑤1995年 阪神・淡路大震災報道と地下鉄サリン事件報道における事件報道への傾斜……戦後50年というこの節目の年の1月に、阪神・淡路大震災が起き、6千数百人という死者を出す甚大な被害を地域に及ぼした。戦後、これほどの規模の災害報道は、それまでに例がなく、テレビの情報伝播力の大きさをあらためて認識させられた一方で、情報が切実に必要な人々にテレビが情報を届けることができたのか(ラジオの再評価)、被災者に対するメディアの接し方はどうだったのか(報道倫理の観点から)、メディア報道を通じて全国から善意の募金や救援物資が送付されたこと、同じくメディア報道を通じてたくさんのボランティアたちが支援活動に駆けつける現象がみられたことなど、テレビの大規模震災報道のある意味での原型を形作った出来事だった。

 ところが、その震災発生からわずか2カ月あまり後に、東京・霞が関などで運行していた複数の地下鉄車両内で、化学兵器サリンガスが撒まかれるという「地下鉄サリン事件」が発生すると、テレビメディアはすさまじい勢いで、この事件の報道に重心を移していった。オウム真理教事件は、戦後史のなかでも特筆すべき事件であったことは間違いないが、事件報道へのすさまじい傾斜という点では、テレビというメディアの抑制の利かない「暴走」ぶりが露呈した出来事だった。その後のいわゆるTBSオウムビデオ事件では、同局のとった検証のずさんさが明るみに出て、社会の批判を浴び、メディアへの信頼性が大きく損なわれた出来事でもあった。

朝鮮民主主義人民共和国の金正日総書記と握手する小泉純一郎首相=2002年9月拡大朝鮮民主主義人民共和国の金正日総書記と握手する小泉純一郎首相=2002年9月
 ⑥2001年 小泉純一郎政権の成立……わかりやすくキャッチーなサウンドバイト(短く単純なフレーズ)を繰り出す、それまでの日本にはいなかったタイプの政治のトップ=内閣総理大臣が、主にテレビを舞台とした派手な総裁選挙の末に誕生した。以降、日本の首相に求められる資質では、国民(視聴者・読者)とのあいだのコミュニケーション能力、パフォーマンス能力の巧拙が決定的に重要なファクターとなったように思われる。今に至るまでのテレポリティクスのひとつの転換点だったのではないか。

 ⑦2002年 小泉訪朝と拉致事件のフレーム化……小泉首相の北朝鮮訪問自体が、今から考えてみれば、実にテレビ的な進行劇だったと言えるのではないか。日本の政治のトップが「敵地」に直接乗り込んで相手側のトップと渡り合い、拉致されていた被害者の一部を取り戻したうえで、残りの被害者を調べ上げて返せと迫る。その後、先方はそれを政治的に利用しようとしたり、駆け引きの道具に使ったりしているのだ、と。

イラクのサマワに派遣された陸上自衛隊=2004年2月拡大イラクのサマワに派遣された陸上自衛隊=2004年2月
 何の罪もない日本の市民がまさに「人さらい」にあったように誘拐されて、先方の企図によって人生を無理やり変えられたのだから、これほどわかりやすい悪業はない。勧善懲悪的な、善悪の単純二項対立的な思考様式が、これほどまでに抗いがたく刻印された出来事もなかなか例がない。
拉致の実行犯=独裁国家の指導者=冷戦時代の遺物のごとく存続し続ける北朝鮮は、あれ以降、日本の「仮想敵国」として、かの国にまつわるあらゆる報道を縛って「思考停止」に追いやるほどの絶対的なフレームと化した。テレビはその主舞台となった。

 ⑧2003~04年 イラク戦争と日本人人質事件の発生時のメディア対応……イラク戦争に関するいわゆる西側諸国の報道は、ベトナム戦争時の報道と比べて、圧倒的に国家・軍のコントロール下のもとに行われた。それはとりも直さず、米軍当局がベトナム戦争時の報道によって「情報戦」での敗北を喫した(茶の間に戦場映像が持ち込まれ反戦運動が高まったという分析を彼らは行った)反省から、徹底的にコントロールされた報道方式を先制的に導入することによって、「情報戦」での勝利をはかる戦略に基づくものだった。情報の分配や、従軍報道はきわめてシステマティックに行われ、それに抗うメディアは容赦なく排除され、あるいは攻撃の対象にさえなった(アルジャジーラがその例である)。

集団的自衛権の行使容認について記者会見する安倍晋三首相=2014年5月拡大集団的自衛権の行使容認について記者会見する安倍晋三首相=2014年5月
 日本の主要メディアは、この時、概説すれば、米軍当局の傘の下に入った報道しかなし得なかった。恥ずべきことに、イラク戦争で首都バグダッド陥落時に現場にとどまって、その歴史的瞬間を報じていた日本の主要メディアのジャーナリストはいなかったのが現実であり、わずかに綿井健陽氏ら数人のフリーランス・ジャーナリストらが現地取材を行っていたのである。このメディア内の「正規・非正規構造」は、とりわけテレビにおいて常態化することになった。

 またイラク戦争にともなって発生した日本人人質事件にまつわる「自己責任論」の台頭と、それに乗っかって人質らを非難したメディアの潮流は、その後のイスラム国による日本人人質事件の際の極度に腰の引けた報道、検証報道の決定的な不足にも大きな影響を及ぼしている。

 ⑨2004~08年 「ニュースステーション」「筑紫哲也NEWS23」の終了……良くも悪くも、テレビ朝日系列の「ニュースステーション」とTBS系列の「筑紫哲也NEWS23」が並立して、夜の時間帯に前記①のように「人間の顔をした」定時ニュース番組を出し続けていた、そして時の政治権力とのあいだに緊張関係を保ち続けていた約20年近くの歳月というのは、日本のテレビ・ジャーナリズムの到達期と言っては過言だろうか。逆に言えば、それが終了したことによって、日本のテレビ・ジャーナリズムのなかの何か非常に重要な核心部分が失われてしまったのかもしれない。

 ⑩2011年 東日本大震災被災と福島第一原発過酷事故報道における住民本位の視点の致命的な欠如……僕は、11年3月11日に起きた東日本大震災と、同時に発生した福島第一原発過酷事故は、日本の戦後史のなかの最大の出来事だと今でも思っている。「戦後」的な価値観や生き方が、あの「3・11とフクシマ」によって問い直しを迫られたのだ、と。

 戦後的な経済成長至上主義、地方よりも中央、幸福感よりも数値による満足感、平等よりも弱肉強食へと舵かじを切る価値観を生き続けてきた日本の戦後が問われたのが、被災者たちが置かれた状況、および原発の過酷事故だったのだという歴史の教訓。これに対して、メディアは、起きたことの文明史的な意味にしっかりと向き合わなければならなかった。

 けれども、そこにやってきたのは、忘却とイナーシア(慣性)の法則。つまり、あのような過酷な現実さえなかったことにして(忘却)、それ以前の生き方、価値観に回帰していくというまさに字義通りの「反動」が起きた。被災の過酷な現実に関する報道は、「絆」や「再生」といった美しいストーリーによって忘れ去られ、さらに今現在も続く原発の過酷事故に関する報道は、一部の例外を除いて急速に消えつつあるという恐ろしい現実が目の前にある。

 「戦後」は、本来は「災後」の新しい局面によって問い直されなければならなかったのが、忘れ去られ、なかったことにされ、前の通りにやっていればいいのだ、という方向に進んでいった。メディアの一部はその水先案内役を進んで買って出た。テレビも含めてのことだ。この罪は非常に重い。それは、メディアにおいて、住民本位の視点が失われていく過程でもあった。

 ⑪2014年 集団的自衛権を容認する閣議決定後の記者会見の無内容さと記者たちのおとなしさ……この日、夕方のテレビニュースの時間に設定された首相の記者会見の質を顧みるとき、そこからいろいろなものが見えてくる。後述する。

 ⑫2014年 朝日新聞「吉田証言」「吉田調書」記事取り消し事件……「他山の石」という言葉など吹き飛んでしまうほど「他人の不幸は蜜の味」と言わんばかりのすさまじい朝日バッシングの本質は一体何であったのだろうか。70年に届く戦後ジャーナリズムの歴史の中で、この出来事は、主要メディアの総体的な衰退と、メディア側の「萎縮」「忖度(そんたく)」「自己規制」といった負の側面を拡大する副作用をもたらしたことは否定できない。

 一連の「朝日事件」については、僕は別の箇所ですでに言及してきているので、ここでは詳述しないが、総じてテレビメディアは、この問題の本質を報じ損なってきた。歴史修正主義の台頭と朝日の「吉田証言」自己検証作業との相関関係などを深く検証するテレビメディアはほとんどなかった。わずかにテレビ朝日系の「報道ステーション」内での慰安婦問題検証報道(14年9月11日)があった程度だった。

 福島第一原発事故に絡む吉田昌郎所長(事故当時)に対する政府事故調査・検証委員会の「調書」内容を初めて報じたスクープ記事(14年5月20日付朝刊)を誤報と認定し記事を取り消したことを、僕は朝日新聞社の判断の誤りではないかとする立場をとっている。問題となった「吉田調書」を入手したテレビ局はNHKのみであった。なお、その入手経路については、多くのナゾが残されていることを付言しておきたい。

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筆者

金平茂紀

金平茂紀(かねひら・しげのり) TBSテレビ執行役員、「報道特集」キャスター、早稲田大学大学院客員教授

1953年生まれ。東京大学文学部社会学科卒。TBS入社後は報道局社会部、「ニュースコープ」副編集長、モスクワ支局長、「筑紫哲也NEWS23」編集長、報道局長などを経て2010年9月から現職。著書に『二十三時的』(スイッチ・パブリッシング)、『テレビニュースは終わらない』(集英社新書)、『報道局長業務外日誌』(青林工藝舎)、『沖縄ワジワジー通信』(七つ森書館)など多数。