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テレビ政治、世論調査、ネットで発信…

それでも変わらぬ政治取材の基本とは

田﨑史郎 政治ジャーナリスト

ロッキード事件裁判で東京地裁に出頭する田中角栄被告。右後ろは早坂茂三秘書=1982年9月8日、東京都千代田区霞が関拡大ロッキード事件裁判で東京地裁に出頭する田中角栄被告。右後ろは早坂茂三秘書=1982年9月8日、東京都千代田区霞が関
 約36年前、国会に入った時、天井の高さに圧倒されそうになった。政治部記者が国会議員と親しく話すのを見て、引け目も感じた。しかし、いつの間にか永田町の水に慣れ、目の前で起こる現象を追っているうちに、65歳になってしまった。

 この年になると、いつ、現実への関心が薄れ、自分の足が止まってしまうか、不安に襲われる。今のうちに、自分の歩みを振り返り、私の失敗を含め、政治取材の変化をまとめておきたいと思った。

 この稿を起こすに当たり、ジャーナリズム「論」を展開しようとも、ジャーナリストたる者はこうあるべきだという「典型」を示そうとも思わない。もとより、そんな能力は、私にはない。

 ただ、一介の記者として、民主党政権時代も含め、権力の中枢を懸命に取材してきたという、ささやかな自負心は持っている。その体験に基づいて、政治と政治取材の移り変わりをたどってみたい。

「40日抗争」を取材して政治は権力闘争と確信

 私の政治取材は1979(昭和54)年4月に始まる。大平正芳の首相番記者を早々に卒業し、自民党の三木派と、新党ブームの先駆けとなった新自由クラブを担当した。

 駆け出しの時期に党内の最小派閥を担当したことで、小さな派閥が大派閥に対抗する知恵を学んだ。同時に、新自クの分裂を取材し、新党が移ろいゆく歳月に耐える難しさや、政党は小さいほど党内の意見対立が激しくなるという現実を目の当たりにした。振り返ると、その後、最大派閥の田中派を担当し、さらに派閥や政党の分裂を取材するようになった時、そうした経験が非常に役に立った。

 最初に直面した「政変」が同年秋の「40日抗争」だった。政変という言葉は最近、あまり使われなくなったが、首相の交代につながるような政治変動を意味する。政変を経験するたびに、政局を見る目が養われたと思う。政治記者が一人前になるには、何度も政変を取材する必要があり、10年はかかるだろう。

 40日抗争はその後、何度も経験する政変の中でもとりわけ激烈だった。

 発端は、首相の大平が断行した衆院解散・総選挙だった。この選挙で自民党は大敗を喫し、福田赳夫、中曽根康弘、三木武夫が、大平に責任を取って退陣するよう迫った。大平に田中角栄が味方し、総選挙投票日の10月7日から、衆院本会議での首相指名選挙に自民党から大平、福田の2人が立って争うという異常事態を経て、自民党三役(幹事長、総務会長、政調会長)が決まって対立が収束するまで、40日かかったことから、この名称が付いた。

 来る日も来る日も「夜討ち朝駆け」の連続で、心底から疲れ果てた。もうこれ以上体が持たないと思っていた時、三木が矛を収める旨を表明した。息せき切って平河(自民党)クラブキャップに報告したことを覚えている。

 今と違ってその頃、携帯電話はなく、取材先からの連絡は主に公衆電話を使った。だから、10円玉は必携であり、取材先に行く道すがら、公衆電話がある場所を探した。携帯電話が普及するのは、90年代半ば以降のことである。

 40日抗争は政策をめぐって争われたわけではない。たんに「辞めろ」「辞めない」という、赤裸々な権力闘争だった。私が「政治はしょせん権力闘争」と確信するようになったのは、この取材経験が原点になっているのかもしれない。

政治への影響の大きさ新聞と肩並べたテレビ

 この36年間に最も大きく変わったのは、民放テレビが政治に与える影響だ。

 かつて政治取材を主導していたのは、新聞・通信社、NHKの記者たちであった。民放の記者は数が少なく、取材の経験も浅かった。新聞側は民放記者を新参者として扱っていた。政治家も、民放テレビに出演する政治家を「テレビでペラペラしゃべるなんて」と見下していた。

 ところが、時代の変化とともに、政治家のほうがテレビでの発信を重視するようになった。変化への対応はたいてい、政治家のほうが記者よりも早い。

 91年8月18日、「YKK」と呼ばれていた小泉純一郎、加藤紘一、山崎拓の3人がそろってテレビ朝日「サンデープロジェクト」(89年4月放送開始)に出演し、91年10月の自民党総裁選を前に、海部俊樹の続投阻止の狼のろし煙を上げた。これを翌日朝刊で、日経、毎日の両紙が大きく報道した。テレビでの政治家の発言がそのまま新聞に掲載された初めてのケースだった。

 今では、新聞社は政治家のテレビでの発言を、当たり前のように報道するようになった。記者はテレビ局の前で番組が終わるのを待ち、追加の取材をしている。政治家の出演する番組が集中する日曜日に、記者が休めなくなったのは、この頃からだ。90年前後に、民放テレビは政治への影響力において新聞と肩を並べたのである。

 ただ、そのため、記者はテレビ出演など「表」の現象を、いっそう取材せざるを得なくなった。最近は、政治家のブログやツイッターを見ることも欠かせない。政治家がテレビやインターネットを通じて情報を発信する機会は飛躍的に拡大するにつれ、記者はその取材に追われることになる。私たちが現場を取材していた時代よりも、ずっと忙しい。

政治家と一緒に過ごしひと言で真相を察する

 気がかりなのは、こうした「表」の取材に時間を取られ、「裏」を取材する時間が少なくなっているのではないかということだ。

 政治家が自ら発信するのは伝えたいことがあるからである。知られたくないことを自ら発信するはずがない。記者がそうした機微を知るには、政治家との時間の共有を通じてである。ふと漏らしたひと言が、政治の真相をたぐり寄せるきっかけになる。

 政治は、政治家という人間同士の葛藤の中で動いていく。政策もその中で決まっていく。だから、なぜそうなったか、その政策がどういうプロセスを経て決まったかを知るには、遊びも含めて、政治家と一緒にいる時間をできるだけ長くしなければならない。

 もちろん、「表」の動きを蔑ろにしていいわけではない。ここで言う「表」とは、たんに政治家の発信を取材するにとどまらず、テレビの報道・情報番組が政治をどう伝えているかを知ることだ。

 国民の考え方に影響を与えているのは、実は新聞ではなくテレビである。テレビは視聴率競争が激しい。毎分ごとの視聴率は放送の翌日の午前には届く。視聴率が稼げる事件や出来事、つまり視聴者が関心を持つことは、長く取り上げられ、その逆もある。視聴率は国民の関心を表す数値であり、政治家はそんな国民の意識の変化に敏感だ。

 93年8月に誕生した非自民連立の細川護熙政権は、テレビ朝日系番組のキャスターの名前を冠し、「久米(宏)・田原(総一朗)連合政権」と呼ばれた。60年に米国で始まった「テレポリティクス」が、ついに日本にも及んだ。

 当時、渡部恒三からこんな話を聞いた。

 「地元の橋や道路を造ったら感謝されたが、だいたい造った。大臣をやってもすぐに忘れられる。今は、テレビに出ているとエライと言われる時代だ」

テレビと政治の関係は「蜜月」から「緊張」へ

 首相として、テレビを最も活用したのは小泉純一郎だ。1日2回のぶら下がりインタビューのうち、夕方はテレビカメラを入れ、積極的に情報を発信した。それを各テレビ局は ・・・ログインして読む
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筆者

田﨑史郎

田﨑史郎(たざき・しろう) 政治ジャーナリスト

1950年、福井県生まれ。中央大学法学部卒。73年、時事通信社に入社。経済部、浦和支局を経て政治部。解説委員長などを経て今年7月から特別解説委員。著書に『竹下派 死闘の七十日』(文春文庫)、『梶山静六 死に顔に笑みをたたえて』(講談社)、『安倍官邸の正体』(講談社現代新書)など。