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ファシズムは形を変えて生き続ける

歴史を見つめ直し監視の目を育め

池田浩士 京都大学名誉教授

 1933年の年頭、ドイツで一つの新しい「国語辞典」が刊行された。

 自分たちの母語を「国語」と呼ぶのは日本独自の習わしに過ぎないので、正確には、新しいドイツ語辞典と言うべきだろう。『ドイツ語』(Das Deutsche Wort ダス ドイッチェ ヴォルト)という簡明な書名を持つこの辞典(注1)は、1882年生まれの言語学者、リヒャルト・ペクルン(Richard Pekrun)によって編纂された。その後、改訂を重ねながら、簡便な辞典として広く愛用され、半世紀以上にわたって刊行され続けることになる。

 ある言葉の意味を確認するとき、日本では『広辞苑』の解釈がしばしばモデルとされるように、この辞典の語義説明が引用されることも少なくなかったが、新刊当時は、20世紀の日常ドイツ語を集成した最初の辞書として注目されたのである。新しい編集方針について、抱負をこめて語ったペクルンの序言は、1933年1月1日の日付で結ばれている。

時代の急変で変わった辞典の単語の語義説明

 この日付が端的に示しているように、ペクルンの辞典は刊行と同時に歴史の激浪の中に投げ出されることになった。完成したのは、第1次世界大戦に敗北したドイツで1919年に成立したヴァイマル共和国時代の最終局面であり、出版されたのはこの共和国を崩壊させるヒトラー内閣が誕生した33年1月30日と、ほぼ同時だったからである。

 現代語に重点を置く辞典であるがゆえに、時代の急変は中身に深刻な影響を及ぼした。同年末までに21万部を発行したのち、翌34年の増刷分からは、早くも変貌を余儀なくされる。特定の単語の語義説明を変更しなければならなくなったのだ。

 例えば「国民社会主義」(National-sozialismus ナツィオナール ゾツィアリスムス)という見出し語には、刊行当初は「極度に右翼的な立場をとるドイツの一戦後政党の世界観」という説明が記されていた。それが、34年の増刷分(累計部数21万1千~25万部)の途中から、「ドイツ民族民衆の解放をもたらすことになった世界観。血と土、忠誠と戦友精神、という根本概念に基づいている」と変えられたのである。

 「国民社会主義」とは、ヒトラーを「指導者(フューラー)」とする政治運動の指導理念であり、一般に「ナチズム」(Nazismus ナツィスムス)と略称されているものに他ならない。この理念を掲げる政党の名称が、「国民社会主義ドイツ労働者党」(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei ナツィオナールゾツィアリスティッシェ ドイッチェ アルバイターパルタイ)、つまりナチ党である。この党に結集する国民社会主義者たち(蔑称=ナチス)にとって、「国民社会主義」という見出し語とその語義説明は、一冊のドイツ語辞典の中でもとりわけ重要なものだったに違いない。

 この変更をほどこしたペクルンの辞典の34年版の扉には、書名の下に「当局の基準に従って改訂済み」と印刷されている。ヒトラーの首相就任によってついに国家権力を掌握したナチスは、それからわずか1年ほどのうちに、ドイツ語の単語の意味までも自分たちの思い通りに変えたのである。私たちがヒトラーを独裁者として思い描くとすれば、その独裁は、狭い意味での政治の領域だけのことではなかったのだ。彼を首相の座に就かせた「国民」の言語とその意味にまで、彼の独裁は及んだのだった。

権力者が民衆を支配だけではないファシズム

 だが、まずここでは、ヒトラーを「独裁者」と呼ぶことに対する疑問から、出発しなければならない。ナチズムを含めたファシズムの社会体制は、独裁的な権力者と、彼による強圧的な政治によって支配される民衆―という一方的な関係では捉えきれないからである。

 もともと「ファシズム」という概念は、「束たば」を意味するイタリア語の「ファッショ」(fascio)という語に由来している。「束」には、「束ねる」という他動的な意味と同時に、「結束を固める」という自発的な意味も含まれるのである。「束」は、いわば上からの強制的な束縛であるだけでなく、下からの自発性による団結でもありうるのだ。

 そればかりではない。「ファッショ」という語は、古代ラテン語の「魅惑、魅了」を意味する語とも語源上の関連を持っている。「魅惑」とは、感性や思考を束縛することであると考えれば、容易に納得できるだろう。すなわち、ある権力者によって民衆が魅了されるとき、それは民衆自身の主体的な団結となって、上からの束縛に呼応するのである(注2)。

 こうした呼応関係は、戦間期におけるイタリアのファシズム、ドイツのナチズム、日本の天皇制など、ファッショ的な体制において顕著に実現された。だが、それらの体制が実現したこの関係は、20世紀の歴史の一挿話に終わるものではない。形を変えつつ、現在なおそれが生き続ける土壌を、私たちの社会は孕はらんでいるのではあるまいか。

 例えば、災害や不慮の事故のさいに力を発揮する「ボランティア活動」は、自発性と積極的な社会参加の意思を、多くの人々の中に根づかせている。だが、それによって前述のような呼応関係が新たな形で生まれる条件が、醸成されているかもしれない。ナチズムは、ボランティア精神とボランティア労働を、国民動員に最大限に活用したのである。

 また、ネットメディアまでも含むメディアの多様化と、情報の単なる受け手ではなく発信者となった民衆をも巻き込むジャーナリズムのありかたは、政治権力と民衆との間のファッショ的な関係にとって、それを促進し強化するうえで、あるいは逆にそれを防止し抵抗するうえでも、重要な意味を持っている。ナチズムがマスメディアを駆使してこの呼応関係を実現したことは、周知の事実だろう。

 過去の歴史のひとこまを、現在の現実の一つの前史として、あらためて見つめなおす必要があるのだ。

民意を正確に映したヒトラーの政権獲得

 第2次世界大戦後の戦後民主主義時代には、ドイツでも日本でも、ヒトラーを独裁者としてとらえる歴史観が一般的だった。この一人の独裁者と彼の配下のナチスが国民を誤った道に連れ込んだのであり、国民は犠牲者だったのだ―という歴史認識が、敗戦後の東西両ドイツで必要とされたからである。

 だが、今では歴史の現実はそれとは別の姿を持っていること、国民の側が果たした主体的な役割が重要な意味を持つことが、多くの具体的な研究によって明らかにされている。

 ごく基本的な、すでによく知られている事実に即してみても、ナチ党は、人類史上もっとも民主主義的といわれるヴァイマル憲法のもとで、選挙を通じて合法的に、ヴァイマル共和国国会の第1党となり、その結果として、ヒトラーが首相に任命されたのだった。しかも、ヴァイマル時代の国会議員選挙は、全国が単一の比例代表制であり、各政党は得票数6万票ごとに1議席を獲得する仕組みになっていた。ナチ党が国会で占めた議席数は、その都度の選挙におけるナチ党の得票率にそのまま対応していた。現在の日本の衆議院議員選挙が、とりわけ小選挙区で、投票者の意思を反映した結果となっていないのとは対照的である。ヒトラーの政権獲得は、民意を正確に反映した結果だったのだ。

 それゆえ、当時の「民意」のありかたとその責任を問いなおすことは、ナチズムの犯罪を二度と繰り返さないために、換言すれば、形を変えて生き続けるファシズムを現実化させないために、とりわけ日本の私たちを巡る政治状況のなかで、必要な作業のひとつであるに違いない。

世界経済恐慌を背景にナチ党が大躍進はたす

 1918年11月のドイツ革命と敗戦の中から生まれたドイツ共和国、いわゆるヴァイマル共和国は、ヒトラー政権によって終止符を打たれるまでの14年間に、合計9回の国会議員選挙を実施した。ナチ党が国会選挙に初めて党名を掲げて参加したのは、その第4回(ヴァイマル憲法制定後では第3回)、24年12月のことである。このときナチ党は3・00%の得票率で、議席総数493のうち14議席を得たに過ぎなかった。しかも、次回の28年5月の選挙では、得票率は2・63%にとどまり、議席数も491議席中の12議席に減じた。

 ところが、その2年後、30年9月の選挙では、得票率18・33%で、議席総数577のうち107議席を獲得し、一挙に議会の第2党に躍進したのである。第1党は得票率24・53%で143議席の社会民主党だった(注3)。ナチ党にこの大躍進をもたらした原因は、その前年の29年10月24日に、ニューヨーク株式市場で株価の大暴落が起こり、それがたちまち世界経済恐慌となってドイツに波及したことにあった。

 欧州大戦(第1次世界大戦)に敗北したのち、ヴェルサイユ条約によって戦勝諸国に対する苛酷な賠償義務を課せられ、その重荷に喘あえぎながら、ようやく復興への道を歩み始めていたドイツを、大不況が直撃した。失業者が巷にあふれ、その状況は日を追って深刻の度を加えた。多数の政党が分立する国会も、民主派の諸党による連立政権も、事態に迅速に対処する力を欠いていた。

 そのとき、ナチ党は政府と国会の無能と無責任を激しく攻撃しながら、党首ヒトラーの強力な決断力と実行力と指導力をアピールし、「我々こそがこの苦境から脱する道をドイツ国民に指し示すのだ」という宣伝を繰り広げた。30年9月の国会選挙の結果は、これに対する有権者の期待を反映していたのである。

 期待はさらに大きくなる。失業状況が悪化し、32年2月にはついに完全失業率=44・4%という驚くべき数値を示すに至ったからだ。完全就業者は全労働力人口の33・0%に過ぎず、残りの22・6%は時間短縮労働、つまり企業の操業短縮による短時間労働や臨時雇い、パート労働などでその日の糊口をしのがなければならなかった(注4)。

 この大量失業状況を背景に、32年7月の国会議員選挙でナチ党は得票率37・36%、議席総数608のうち230議席を獲得し、ついに第1党となった。同年11月の選挙ではやや後退して、得票率33・09%、総議席584のうちの196議席に終わったが、社会民主党の121議席を大きく引き離して第1党の地位を維持した。二度の選挙の投票率は、いずれも80%台前半だった。もはや事態を打開する道は他にはない、と判断した大統領ヒンデンブルクは、33年1月30日、アードルフ・ヒトラーを首相に指名したのである。

大統領緊急命令を使い安定多数獲得を目指す

 首相に就任したとき、ヒトラーのナチ党は、全有権者の3分の1に足らぬ支持を受けているに過ぎなかった。国会の議席数も、ようやく3分の1に達する状態で、首相を含めて12人の閣僚から成る新内閣には、ヒトラー以外に2人のナチ党員しか入閣できなかった。そこでヒトラーは、首相就任の2日後に党利党略のためでしかない国会解散を断行したのである。選挙は3月5日と決められ、ヒトラーとナチ党は政府与党の権限を駆使して、安定多数獲得のための「方策」を実行に移した。

 それらの「方策」は、しかし、当面の選挙での勝利を目指すためのものにはとどまらなかった。ヴァイマル憲法が規定した基本的人権を否定し、各人の自主性や自由よりも国家と政治権力への服従と忠誠を求める法的な措置によって、ふたたび「戦争する国」となる道を歩むための布石が打たれたのである。

 ヒトラー政権がこうした方策を講じることができたのは、ヴァイマル憲法がその第48条で、「大統領緊急命令」という文字通りの非常大権を認めていたからだった。「公共の安寧と秩序が著しく妨げられ危険にさらされるとき」には、大統領は憲法が保障する基本的人権を無効にし、軍事力をも行使して必要な措置をとることができる―と、その条項は定めていた(注5)。

 国会を解散してから3日後の2月4日、ヒトラーはヒンデンブルクに「ドイツ民族民衆の保全のための大統領緊急命令」(注6)を公布させた。この命令は、▽法律や政府その他の官庁の命令に対する不服従を呼びかけたり、国家の諸機関やその首脳を侮辱したりする集会およびデモは、強制的に解散させられる▽これと同様の内容を持つ印刷文書や、暴力行為を教唆あるいは美化したりゼネストまたは重要産業でのストライキを呼びかけたりするような印刷文書は発行禁止にできる▽公共の安寧と秩序を危険にさらすのに適している内容を持つ印刷文書は、警察によって押収され没収されることができる―と規定していた。

 反対党派の選挙戦が大きな制約を受けたことは言うまでもないが、以後、これを根拠にして、憲法が保障する表現の自由と集会結社の自由は、時の政治権力の意のままに弾圧できることになり、政府やナチ党への国民の批判は、法の名において封殺されることになる。

 さらにその3週間後、国会選挙まで5日を残すのみとなった2月27日夜、有名な国会議事堂放火事件が起き、翌28日には「民族民衆および国家の保全のための大統領緊急命令」(注7)という名の新たな命令が発せられた。「国会炎上命令」と略称されることになるこの命令は、▽大統領や政府の閣僚を殺害せんと企て、▽あるいはその殺害を教唆または提議し、▽もしくはその殺害を他者と謀議した者は「死刑、終身刑または15年以上の懲役刑」に処せられる―と規定していた。

 殺害を「企てた者」、「教唆」や「謀議」を行った者という漠然たる対象を定めることで、恣意的な適用と弾圧に道が開かれていることは、あらためて言うまでもないだろう。この緊急命令も、その後のヒトラー体制の中で威力を発揮し続けるが、当面はまずこれによって共産党が禁止され、同党の立候補者はすべて指名手配されて当選しても一度として国会に登院できぬまま、多くは国外亡命を余儀なくされることになった。

政府への「全権委任」で憲法や基本的人権蹂躙

 それでも、3月5日の国会議員選挙で、ナチ党は、憲法改定に必要な3分の2以上はおろか、過半数を制することもできなかった。第1党の座は守ったものの、得票率は43・91%で、非合法化された共産党の当選者81人を含めた647の議席総数のうち、288議席を獲得しただけだった。ヒトラーはヴァイマル憲法に基づく国会議員選挙によって合法的に政権の座に就いたが、自らの政権下でのこの選挙を含め、ついに一度も過半数の支持を得たことはなかったのである。ヴァイマル憲法下での国会選挙としては最後となったこの選挙の投票率は88・74%だったから、この時点でヒトラーを支持していたのは、棄権者も加えた全有権者のうちの39%弱に過ぎなかったのだ。

 ちなみにこの選挙でのナチ党の得票率を、2014年12月の日本の衆院選で示された政府与党への支持状況と比べてみよう。この衆院選では、比例代表区と小選挙区を合わせた議席総数475のうち政府与党が326議席を占め、議席率は68・63%にも及んだ。投票者の政党支持率を反映していない小選挙区での議席獲得数が、この数値に大きく貢献している一方、政党に票を投じる比例代表区での与党の得票率は、自民党が33・11%、公明党が13・71%で、両党を合わせて46・82%だった。

 これは33年3月選挙におけるナチ党の得票率43・91%と極めて近い数値である。日本の場合、投票率が52・66%と極めて低かったことを勘案すれば、自公連立与党に対する実質的な支持は、ヒトラー政権に対するものよりも低かったと言えるだろう(注8)。

 ヴァイマル民主制の打破と、国民社会主義の理念に依拠する新国家体制の建設を一貫して唱えてきたヒトラーは、新しい国会が開会すると同時にこの方針を実行に移した。「民族民衆および帝国の苦難を除去するための法律」(注9)を上程し、ナチ党の最高幹部である国会議長ゲーリングの強引な議事運営によって、33年3月23日、これを強行採決したのである。それはヴァイマル共和国の終焉と、ヒトラーが「第三帝国」(Das Dritte Reich ダス ドゥリッテ ライヒ)と呼ぶ新体制の発足を告げる出来事だった。

 「全権委任法」と通称されるこの法律は翌日ただちに公布され、即日施行された。この法律は国会から立法権と予算決定権を奪い、法律を制定する権限と国家予算を決定し運用する権限を政府が一手に持つことを認めるものだった。そればかりか、第2条では「政府によって決定される法律は憲法に違反することができる」とさえ定めていたのである。この法律によって、ヒトラー政府はヴァイマル憲法を廃止しないままで、この憲法に反する法律を制定することができるようになったのだ。

 この歴史的事実は、たとえ有権者の半数以下の支持しか得ていない与党であっても、ひとたび国家権力を握れば、憲法であれ、それが保障する基本的人権や民主主義的諸権利であれ、蹂躙できることを物語っている。民主主義を根底から破壊するこの政治暴力を阻止しなければならなかったはずのドイツ国民は、ヒトラーが強力な実行力によって経済危機を解決してくれるという期待と引き換えに、政治暴力を許容したのだった。

国民の「自発性」を目指し言論・報道と文化を統制

 ヒトラーは、政権獲得後わずか数年のうちに、失業を解消し、社会的平等を実現し、やる気のある者に道を開き、敗戦とヴェルサイユ体制によって失われたドイツ人としての誇りを取り戻し、生き甲斐のある社会を実現した―。

 これは、ナチス・ドイツの崩壊後に多くの体験者たちが語った回想である。ヒトラーは、日常生活を活性化させるとともに、敗戦によって失われたドイツ人の誇りとアイデンティティを取り戻し、過去の歴史が誤りではなかったこと、大戦の責任がもっぱらドイツにあるわけではないことを、ドイツ人に自覚させたのだった。国民のヒトラー支持は、ドイツが39年9月に第2次世界大戦に突入するまで、うなぎ登りに上昇した。

 最終的には戦争に突入して破滅に終わるこの上昇の道は、ヒトラー政府による入念な「国民の合意形成」によって舗装されていた。しばしば民衆啓発・宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの名とともに語られるマスメディアの駆使が、この「合意形成」に大きな力を発揮したことは、言うまでもないだろう。だが、同時代の国民の目にも歴然と映じた効果的な宣伝形態は、いわば舗石の一部でしかなかったのだ。

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