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「軍隊らしくなさ」と死を意識する組織

知ってほしい相反する自衛隊のリアル

瀧野隆浩 毎日新聞社会部編集委員

 昨年7月1日、自衛隊が創設60年で「還暦」を迎えたその日、政府は集団的自衛権行使を容認する閣議決定をした。そして、今年になって、安倍晋三首相が「戦後初めての大改革」という新しい安保法案が国会に提出され、大混乱の中で可決・成立した。その一連の過程を追いながら、私は隔靴掻痒(かっかそうよう)の思いを禁じ得なかった。自衛隊を取り巻く現実とはかけ離れたところで、空疎な議論が飛び交うように感じたから。「違憲か合憲か」という議論ですら、どこか別の世界の話のようだった。もちろん、自衛官にとってそれは、切実な問題であるのだけれど。

 自衛隊のリアルを知ってほしい、と思う。巨大な実力部隊の来歴を知り、彼らが何に苦悩し、いま世界をどう見ているのか。それを知ることなしに議論はしてほしくなかった。いや、今からでも遅くない。彼らの現実を直視すれば、議論に血が通ってくる。本当にあるべき姿が見えてくると考えている。

 結論をまず言っておけば、私はいま、自衛隊に二つの大きな潮流があるとみている。

 (1)いわゆる「普通の軍隊」になろうとする新しい流れ
 (2)60年かけて培ってきた「軍隊らしくない」「利他性組織」としての本流

 ―である。相反する二つの流れをよく理解してなんとか生かしていけば、安倍首相がいうのとは別の「積極的平和主義」の道が、もちろん国民合意の下に、築いていけると私は信じている。

 まずは(1)について。これは、ここ十数年の自衛隊の変容という流れでとらえることができる。今世紀に入って、自衛隊は組織として「死」を意識し始めたのだった。

「敵」を制圧するための基本動作ができていない

 「なんじゃ、こりゃあ―。これじゃあ全滅だぞ」

 在米のガン・インストラクター、イチロー・ナガタさん(72)は10年以上前、陸上自衛隊の訓練の模様を伝えるテレビニュースを見たとき思わず口にした言葉を、いまだに覚えている。

 駐屯地の近くに市街地訓練場ができて、そこで実施された訓練の映像だった。4~5人の隊員が建物の部屋に突入して「敵」を制圧する、その際の基本動作がまったくできていないと感じた。何より銃口管理(ガン・コントロール)がまるでできていなかった。「銃口を絶対に人に向けない」というのは「基本のキ」である。アメリカなら、警察でも軍隊でも、これができていなかったら訓練にすら参加させてもらえない。

 鹿児島県出身。若いころはボクシングや空手、日本拳法に明け暮れたイチローさんは、31歳で渡米してからは、銃の魅力に取りつかれた。そして全米クラスの射撃大会でベスト10入りする腕前になって、いまでは雑誌などに銃関係の写真を提供するフリーのプロカメラマンでもある。

 テレビを見て、「いてもたってもいられなくなって」、九州のある駐屯地で自分の持つスキルを教え始めた。銃口管理の必要性から始まって、実戦的な射撃の理論、訓練方法、呼吸法、軍用ライトの使用方法、跳弾の飛び方まで。伝授しながら、その都度、隊員たちのあらゆる疑問・質問に即答した。「すごいヒゲのオヤジがいる」といううわさはまたたく間に広がった。やがてその駐屯地には、自衛官だけでなく、県警、海保といった他組織の隊員たちがそれぞれの色の戦闘服や出動服のまま集まるようになった。

 陸自は長く、海を渡って国土に着上陸侵攻してくる敵に対処する方法を身につけてきた。冷戦時代はそれでよかった。ところが、1989年にベルリンの壁が崩壊してからは、宗教・民族紛争、そしてテロリズムの時代となる。陸軍種の活動場所は主に「市街地」になった。ところが、部内にはそれに見合った教範が存在していなかった。ある陸曹は「何も手本がなかったので、ハリウッド映画や雑誌を見ながら自分たちで研究するしかなかった」と話した。

 イチローさんが陸自部隊で初めて講習をしたのは2003年。陸自は初の「戦地」派遣であるイラク復興支援活動に向けた準備を密かに進めていた時期と重なる。イチローさんはそれから数年かけて、全国の部隊に呼ばれ、トレーニングを実施することになった。

隊員の「死」を具体的に受け入れる

がれきを脇へ寄せて道を作る自衛隊員=2011年3月21日、宮城県南三陸町で拡大がれきを脇へ寄せて道を作る自衛隊員=2011年3月21日、宮城県南三陸町で
 私は防衛大学校という自衛隊の幹部養成学校を卒業後、任官するのを辞退して、翌年、毎日新聞に入社した記者である。同期の幹部自衛官(若年定年制で、一部の将官を除きほとんど今春までに退職した)らとは折に触れて会い、酒を飲み、議論もしてきた。防衛庁・省の担当も3度ほどやった。

 その経験からあえて極言すれば、自衛隊、特に陸自は1980年代までは「バーチャル」な訓練を重ねてきた。ソ連という「仮想」の敵はいるにはいたが、本当に戦争になって「出動」の機会が来るという実感は持ち合わせていなかった。

 ところが、90年代になって状況は一変する。世界は米ソ冷戦から多極化の時代となり、民族・宗教紛争が各地で頻発し始める。「平和」とは「秩序」のことだ。国際社会が一定の秩序を保つために、各国に国情に合わせた支援を求められる。日本もその潮流に合わせて、90年代以降、自衛隊を海外派遣してきた。自分の国で「仮想」の敵に対応するため日々訓練を積み重ねてきた実力組織は、海外という宗教も歴史も文化も言語も違う現場で、初めて隊員の「死」をも想定した任務に当たることになった。

 これは実は劇的な変化だった。そして忘れてならないのは、この変化はまだ緒についたばかりだということである。

 私は、自衛隊が〈殺し/殺される〉という軍の本質に目を向け、組織全体として隊員の「死」というものに向き合い始めたのは、イラク復興支援活動に派遣させる前後から、と考えている。つまり、まだ十数年の経験値しか持たない。派遣前の時期に陸自隊員の訓練映像を見た在米ガン・インストラクターのイチローさんは、銃口管理さえできていないその実戦感覚のなさに愕然としたのだった。

 イチローさんを受け入れた部隊の連隊長は私にこう言った。

 「戦場を想定したリアルな訓練をしないかぎり、隊員たちを全員無事、帰国させてやれないじゃないか」

 さらに具体的な話をしてみたい。イラク南部のサマワに置かれた陸自宿営地には、ふだん誰も近づかない「開かずのコンテナ」があったという。中には複数の棺おけが入っていた。そのことはわずか数人の幹部以外には知らされていなかった。派遣部隊は「最悪の事態」を想定していた。隊員が死亡する事案が起きたらまず初動対処チームを出し、他国軍と連携をし、遺体を後送する。その要領を確認し合った。

 傷ついた遺体をそのまま日本に帰すことはできない。遺族感情が許さない。そこで、衛生隊員たちは出国前、「エンバーミング」と呼ばれる修復法の研修を受けた。さらに、帰国した隊員の遺体の受け入れ手順、誰が空港まで迎えに出るか、政府のどんなレベルか、「国葬」に準じる葬儀ができるのか、場所は東京・九段の武道館しかない。「じゃあ、イベントのない日程を確認して押さえておけ」という指示が出ていた。

 自衛官は全員、入隊の際に「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえる」という宣誓を行う。だが、それは個人レベルの話で、組織が最悪の事態を想定してきたかというと、80年代まではそうではなかった。しかし、90年代以降、海外派遣が常態化すると、組織として細かな手続きを決めざるをえなくなる。棺おけ準備、エンバーミング、葬儀様式の確認などの手続きの整理は、「戦地」イラク派遣の際に完了した。私はそれを「死の制度化」と呼んでいる。つまり、自衛隊は創設半世紀してようやく、隊員の「死」を具体的に受け入れたのだった。

自衛隊は創設以来一発の弾も撃っていない

 新安保法案を審議する国会の特別委員会に提出された、陸幕作成の「イラク復興支援活動行動史」の中で、第1次群の番匠幸一郎群長はこう言い切っている。

 〈「イラク人道復興支援活動は、純然たる軍事作戦であった。」(中略)本当の軍事作戦であり、我々が平素から訓練を重ね本業としている軍事組織としての真価を問われた任務だったと思う〉

 組織としての「死」の受容は、「殺される」事態への対応であるが、一方、同時に、「殺す」スキルの習熟も図られた。もちろん、自衛隊は軍隊であるから創設当初から本質は変わらないはずである。ただ、隊員個人の意識が違う。「バーチャル」な想定の下で訓練されていた80年代までの自衛隊とは異なり、90年代以降、海外での「リアル」な現場が想定された。自衛官は意識の変容を迫られたのだった。

 もっともそれが顕著に出るのが、陸自普通科(旧軍の歩兵)の訓練だった。敵との距離が近いのである。着上陸侵攻阻止を大目的にやっていた時代、塹壕(ざんごう)を掘って待ち構えていての射撃だから、訓練は標的まで300メートルあった。ところが、市街地を想定した訓練では10メートルそこそこ。敵の顔が確認でき、息遣いまで聞こえる中での撃ち合いとなる。しかも、敵と認識して引き金を引くまでの時間は短い。数分の1秒で判断し、撃たなければならない。近接戦闘(CQB)というのが、現代陸戦の主流といっていい。

 創設以来、一発の弾も撃っていない、すなわち〈殺していない/殺されていない〉自衛隊が、本当に銃を人に向けて撃てるのか。

 格好の資料が『戦争における「人殺し」の心理学』(ちくま学芸文庫)という本である。著者のデーヴ・グロスマンは、米陸軍の元中佐だが、心理学者、歴史家でもある。彼は「大前提」として、まずこう記述する。

 〈ほとんどの人間の内部には、同類たる人間を殺すことに強烈な抵抗感が存在する〉

 人は人を撃てないのだ。建国以来ずっと戦争をし続けてきたとされる米国でも当然そうだ。その認識のうえに、グロスマンは「アメリカの戦争」を分析していった。米国の兵士たちが、指揮官の「撃て」という命令にどれだけ従ったか。戦争ごとの発砲率の変遷はこうだという。

【米軍における発砲率の変遷】
 ▽第二次世界大戦  = 15~20%
 ▽朝鮮戦争     = 55%
 ▽ベトナム戦争   = 90~95%

 わずか半世紀の間に、飛躍的に発砲率(=殺傷率)を高めることができたのは、新しい訓練法の導入だった。同書ではこのあたりを細かく説明するのだが、私なりに簡単に要約すると、「敵を人間だと思わないように教育して罪悪感を取り除き、なるだけ反射的に射撃をさせる訓練を繰り返す」やり方だといえる。「撃つ」ことは、「身を守る」こと。戦地に派遣された自衛官が無事帰国するためには「人を撃つ」射撃をせざるを得ない。それは「60年遅れ」で米軍の背中を追うことにほかならない。

 一方、敵を倒す射撃に「強烈な抵抗感」があるとすれば、撃った兵士は精神的なダメージを必ず負う。たとえ実際に撃たなくても、海外の戦場という極度に緊張する場に立たされた者たちは、帰国後、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しむ。アメリカという国がいままさに直面している「帰還兵の自殺」という社会問題に、日本も近い将来悩むことになるのだろうか。

災害現場で身を投げ出すように活動

 さて、ここまで「(1)普通の軍隊への変容」という最近の流れをみてきたが、もうひとつ忘れてはならないのが「(2)利他性組織」としての自衛隊の姿である。これは彼らが当たり前のようにふるまうから、多くの国民はあまり意識しないが、本来、国益追求の究極の手段である軍というものが、「利他」、相手のことを慮るというのは論理矛盾である。世界的にはありえない。ところが自衛隊は、たとえ外国に派遣されても、敵対勢力をも含め、周囲と協調しようとする。その組織としての習い性は来歴による。

 1954年7月1日、自衛隊は発足した。当初から「違憲の存在」と厳しい批判にさらされてきた。当然である。太平洋戦争では、旧軍部の独走によって国内外に未曽有の被害を与えた。戦争は嫌だ、と誰もが思った。日本は軍を持ってはならない、と誓った。占領軍も当初はそう考えたが、朝鮮戦争の勃発により、方針を大転換。連合国軍最高司令官マッカーサー元帥は書簡を送って警察予備隊の設立を命じ、それが自衛隊となっていく。「反戦・嫌軍」思想はそのまま「嫌自衛隊」気分になっていった。

 「税金ドロボー」と組織は批判され、制服を着た自衛官は石を投げられた。耐えるしかなかった。そこで自衛隊、陸自は特に、駐屯地周辺の住民に心を配った。北日本の部隊では農繁期の作業を隊員たちが進んで手伝った。それは「援農」と呼ばれた。地元の祭りも支援した。自衛隊のキャッチフレーズは70年代半ばまで、なんと「愛される自衛隊」だった。存在の否定から始まった巨大組織。国民に受け入れられたい、承認されたい、という思いは、隊員たちのDNAに刻まれた、と私はみている。

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筆者

瀧野隆浩(毎日新聞社会部編集委員)

瀧野隆浩(毎日新聞社会部編集委員)(たきの・たかひろ) 毎日新聞社会部編集委員

1960年生まれ。防衛大学校卒。著書に『自衛隊のリアル』(河出書房新社)、『宮崎勤精神鑑定書』(講談社)、『自衛隊指揮官』(講談社)、『出動せず』(ポプラ社)など。