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日本国憲法、9条、そして国際協調主義

―戦後の平和運動の一翼担った池田思想―

前田幸男 創価大学法学部准教授

はじめに

 すでに2015年9月17日、参議院安保特別委員会での審議は打ち切られ、同月19日に安保法案は成立した。採決したのかどうかも判別できないと指摘されたが、いずれにせよ参議院での審議は終了した。今後、自民党は悲願でもある改憲案の実現に向けて確実に手を打ってくるだろう。しかし、この一連の流れをたどると、日本はどうしても1957(昭和32)年に首相になった岸信介の行動の軌跡をなぞっているようにしか見えない。ただ今回は連立政権によるものであり、1960年の新安保成立の時とは状況はある意味で様変わりしているはずだが、繰り返しのように見えるのだ。

 このことを理解する手掛かりとして本稿では、(1)敗戦と冷戦という出来事を日本政治と創価学会の双方がどのように切り結びながら経験してきたのかを歴史的な文脈の中で理解し、(2)そこで日本国憲法前文・9条・国連憲章がどのような整合性を持ちうるのかについて論じ、(3)その整合性に関して、創価学会インタナショナル(SGI)の池田大作名誉会長の平和を希求する思想と行動を確認し、それらが戦後日本の平和運動の一翼を確実に担ってきたことを跡づけることで、今後の布石にしたい。

岸信介、石橋湛山、戸田城聖

 今ではあまりに有名な話となっているが、岸は敗戦後、A級戦犯容疑者として逮捕され、東京の巣鴨拘置所に収監された。しかし、中華人民共和国の成立と朝鮮戦争の勃発が契機となって、日本は日本国憲法の下で民主化を徹底する場所ではなく、「反共の砦」として位置づけなおされる、いわゆる「逆コース」をたどることとなる。つまりかつての戦犯が敗戦後はむしろ反共の要人として再注目され、その文脈で岸信介も釈放され、1953(昭和28)年の総選挙で政界復帰した。アメリカは敗戦後の日本が反米化することを極度に恐れ、CIAを経由して反共工作を岸に任せていたことが明らかとなっている。

 そして首相になってからの岸は軍備拡張を図る中で訪米する。そこでアイゼンハワー大統領やダレス国務長官と会談し、議会でも演説するが、そこでの話の内容は以下の点にあった。

 一、自由世界を守るためには日米の緊密な協力が必要である。
 二、日本は国力の許すかぎり自衛力を増強しようと努力している。
 三、日米安保条約を早急に改定したい。(半藤一利『昭和史 戦後篇 1945―1989』平凡社ライブラリー、2009年、p423)

 これは2014年の集団的自衛権の解釈改憲の閣議決定、翌15年の米連邦議会での安保法制の成立を事前に約束した安倍晋三首相の演説、そしてその制定を通して日米安保条約の正式な改定なき実質的変更を行った安倍内閣の政治と見事に一致する。日本の国民は、祖父が果たせなかった遺志を孫が成し遂げたという私的な物語を披露された形となる。

 この岸信介-安倍晋三ラインの物語を、創価学会との関係でもう一段深く理解するためには戸田城聖(第2代会長)と岸信介の友好関係という伏線について触れなければならないだろう。岸は、偶然にも戸田と巣鴨拘置所で知り合う。歴史の皮肉か。戸田は、1956(昭和31)年に決選投票で首相となった石橋湛山が翌57年に日蓮宗の権大僧正になったことを国に災いがあると語っており、その対抗馬だった岸信介が首相になることを祈ったという(戸田城聖『戸田城聖全集(第4巻講演編)』聖教新聞社、1984年、p532)。

 この戦いは、アメリカ追従を主張していた岸信介と、社会主義圏とも国交正常化することを主張した石橋湛山との戦いだった。日本にとっての対米従属か独自路線かの路線選択をめぐる戦いだったといえる。総裁選に石橋は勝つも直後に病に倒れ、結局、岸が総理大臣に就き、安保改定へと突き進んでいく。

 確かに、戸田は「日本民族は、東洋に誇る民族なのである」(同上、p513)との発言を残しているし、また1957(昭和32)年当時、少年少女たちに「あなた方が大きくなった時、世の中はすっかり変わっている。資本主義でもなく、共産主義でもない、民族主義の勝利となっているだろう」とも発言している(同上、p526~527)。この思想が岸の思想と共鳴していたのかもしれない。また今日の日本の政局を見ると、戸田のかつての発言が現実味を帯びて響いてくる。

 ただ、他方で戸田は教条的な人物ではなかった。それは例えば以下の発言を見れば明らかである。

 労働運動というのは、労働者の階級が助けあっていくものです。だから、この中に、労働者の組合に入っている人がいたならば、労働運動を一生懸命やったらいいと思う。「先生もいっしょに旗かつげ」といったら、私も行ってやります。労働運動プラス信心ということなのです。反対ではないのです。マイナスではないのです。「では、先生は、労働運動や共産党に賛成して、資本主義には賛成しないか」といえば、資本主義だって、われわれ民衆の幸福のために働くのならいいではないか。(中略)ちょうど自民党とか、社会党とか、共産党とか、労働運動というものは、生活改革の幸福への、ひとつの手段だと、私は見ているのです。だから、それがいい手段であれば、それらに賛成してやろうではないか(同上、p551~552)。

中道政治、日中国交正常化提言 そして国連中心主義

 この戸田の精神を公明党の中道政治は受け継いでいるといえる。この柔軟な対応力ともいえる中道路線を踏まえつつ、池田大作SGI名誉会長は結果的には石橋湛山が進めようとした中国との友好関係構築を一民間人でありながら継承したことも付言しておかなくてはならない。池田は1968年に日中国交正常化提言を発表し、1974年9月にはソ連のコスイギン首相と、12月には周恩来総理と会談していく。その1968年9月8日に日中国交正常化提言を発表した創価学会第11回学生部総会でのスピーチの内容を知れば、池田がどのように中国を捉えていたかがわかる。

 例えば池田は「中国問題の解決なくして、真の戦後は終わったとは言えない」と明言した上で、中国とどう向き合うかについて以下のように論じている。

 外国に対する勢力拡大も、(中略)直接に武力をもって侵略戦争を始めるというのは考えられない。これまでのやり方を見ても、まず相手国内部の革命分子を援助し、そして育てて、その国の内部から崩すというのが定石であります。したがって、中国との交際を深めたからといっても、国情が安定し、大衆が豊かであれば、革命が起こるということはありえない。わたくしは、いたずらに侵略の幻影に脅かされて、武装を強化したり、反共の殻を固めたり、あるいは安全保障体制を固めることよりも、大衆の福祉向上こそ、最高の安全保障であり、暴力革命に対する最も強靭な防波堤であるといいたいのであります。

 つまり、池田にとって対中国での安全保障において取るべき政策とは「抑止力」政策ではなく大衆の福祉向上政策だった。イデオロギーとしての共産主義が終焉した以上、こうした主張を継承することは時代遅れだとの批判があるかもしれない。しかし、国家の安定した統治にとって必要な政策が大衆の福祉向上であることは、今も変わりはない。また相互に繁栄できるように密に連携をとり、信頼関係を両国首脳が深めていくことができれば、「侵略の幻影に脅かされて、武装を強化」する必要もなくなる。大事なのは、対話なのであって万が一の備えではない。

 このことは実は、国際政治学の泰斗だった坂本義和がかつて1966年に主張していたことと通底する。すなわち、「ほかにさまざまの対立点があるにしても、とにかく利益の共通点と価値体系の共通点とに着目して、その共通点を増大するという可能性に賭けてみるという主体的なイニシアチブをとること、そのことが国際関係をアナーキー的な権力政治から平和共存の関係へと転換させるために不可欠の条件」だと論じていたのである(坂本義和『権力政治を超える道』岩波書店、2015年、p145)。

 つまり、それは平和を共に創り上げていこうとの「決断」であり、「賭け」なのだ。キューバ危機の回避はそれによって可能となったと坂本は指摘しているし、またその論理からすれば米ソの冷戦が終焉したのもゴルバチョフの「賭け」だったと言えるのだろう。歴史を動かし、平和を構築する力というのは、相手に対する「不信」の二字ではなく、「信」の一字に由来する。池田の日中国交正常化提言の背後にある思想も、まさしくこの相手に対する「信」にあったといえる。

 そして日中国交正常化提言を出した理由についても、以下のように明言している。

 地球全人口の4分の1を占める中国が実質的に国連から排斥されているこの現状は、誰人が考えても国連の重要な欠陥だと言わねばならない。これを解決することこそ、真実の国連中心主義であり、世界平和への偉大な寄与であると思います。

 この後、1971年の国連総会にて中華人民共和国を中国の唯一の正統な政府とした決議2758号が採択され、安保理の常任理事国の地位を含む代表権も獲得されるに至る。日本は国連憲章の中では明確に敵国条項に当てはまる国である。その国から、中華人民共和国の国連入りを提唱する人物が出たのである。当時の非難中傷は想像を絶するものがあっただろう。しかし、池田は多国間主義としての国連の重要性についての主張は絶対に譲らなかった。

 こうした池田の中国との友好関係構築に向けた意志を国連中心主義に接合していく構えを、日本の行動原理に逆照射したとき、池田の姿勢は日本国憲法と国連との関係性についての考え方にも貫かれていることがわかる。

日本国憲法前文、9条 そして国際協調主義

 1967年に池田がかつて汎ヨーロッパ連合を提唱したグーテンホーフ=カレルギー伯爵と対談した内容を回想して書かれた内容を収めているのが小説『新・人間革命』第12巻である。そこで伯爵からの問いかけに以下のように答えている。少し長いが重要な箇所なので引用する(なお文中の伸一とは山本伸一のことであり、これは池田の小説の中での名前である)。

 「私が一番大事だと思っているのは、日本が先頭に立って、平和への理想を実現していくべきだということです。核時代の幕が開いたのは約20年前ですが、現在、世界の多くの国が、次の戦争に向かって準備をしております。その中にあって、日本は、世界有数の経済力をもち、そして、世界に類例のない平和憲法をもっています。」
 (中略)
 「大事なご意見です。全くその通りであると思います」

 伸一は、伯爵の意見に、全面的に賛同することができた。彼も、「平和憲法」をもつ日本の使命の重さを、痛感していたからである。
 日本国憲法の前文と第9条には、平和主義と国際協調主義の理念が明確に謳われている。このうち、第9条の1項では、国権の発動たる戦争の放棄を宣言し、国家主権を、いわば自ら制限しているのである。
 伸一は、その条項に、国連などの国際機関に主権の一部を委ねようとする、憲法自身の“意志”ともいうべきものを感じていた。
 そこには、世界は一つという理想が内包されているといってよい。
 彼は、この憲法こそ、日本国民の最高の宝であると考えていた。
 また、第9条に込められた、戦争の根絶という人類の悲願の実現に、彼は生涯を捧げゆくことを決意していた。それが、とりもなおさず、仏法者の使命であるからだ。
 そして、日本国憲法に掲げられた平和の理念と精神を、全世界に広げゆくことこそ、21世紀に向かって日本が歩むべき方向性であると、伸一もまた、結論していたのである。」(池田大作『新・人間革命(第12巻)』聖教新聞社、2006年、p276~278)

 この第12巻には、2001年4月20日~12月29日に聖教新聞で連載されたものが収録されている。2001年の9・11同時多発テロの発生を考えると、この年に、1972年に行われたアーノルド・トインビーとの対談よりもさらに古い1967年のカレルギー伯爵との対談の内容を改めて書いたことの意義は深い。2003年のイラク戦争を経験し、翌年の2004年4月2日(戸田の命日)に文庫として発刊され、改めて2006年9月8日に聖教ワイド文庫としても出版された。実に40年もの時間が経過したとはいえ、池田のこのメッセージは繰り返し世に送り出されてきたのである。

国際安全保障体制から見て9条は異質なものか?

 対照的にこの日本国憲法前文・9条・国連憲章の三つの関係性について、まったく立場を異にする論者が近年登場している。例えば軍事アナリストの小川和久は以下のように論じている。

 憲法前文の精神と憲法本文(条文)の整合性を図る必要がある、というのが私の考えです。
 憲法前文は世界平和の実現を誓っています。そうであれば、第9条も前文の精神に合わせた条文に改正し、具体的な各論については安全保障基本法その他の法律を制定して、世界から誤解されないように丁寧に説明するのが、筋というものでしょう(小川和久『日本人が知らない集団的自衛権』文春新書、2014年、p79~80)。

 つまり日本国憲法前文の精神に照らし合わせると9条1項の「戦争の放棄」と2項前段の「戦力の不保持」、および2項後段の「交戦権の否認」は憲法前文に反しているという結論になるのである。まずこの9条異質論的な立場は、条文同士を照らし合わせてどちらが上位かということが憲法には明記されていないために、憲法学の世界ではそもそも成立しない議論ではある。

 しかしここでは軍事アナリストとしての立論をあえて内在的に理解してみたい。小川は、日本国憲法が国連憲章も日米安保条約も明文上否定していないことから、国連憲章第51条に記されている「個別的自衛権はもとより、同盟国であるアメリカとの間の集団的自衛権も否定しておらず、とりわけ『極東における国際の平和及び安全の維持』という集団安全保障についても否定していない、と考えることができる」(傍点筆者)(同上、p98)としている。

 まず国連憲章と日米安保条約を並置して理解しようとする立場の問題性について指摘しておきたい。この「極東における国際の平和及び安全の維持」というのは日米安保条約の中に登場する文言であるが、これは国連の予定している集団安全保障ではない。「集団安全保障」における「集団」とは「国連加盟国全体」を指すのに対し、「集団的自衛権」における「集団」とは「同盟国」のみを指す。また集団安全保障のために派遣される組織は、国連が承認し、国連が指揮の責任を持つPKF(国連平和維持軍)であることが基本となるのに対して、集団的自衛権の枠内で派遣される組織は同盟国の軍隊である。つまり、それは国連協力とは別物の同盟国への軍事的協力ということになる。

 同様の観点から衆議院の安保特別委員会の地方公聴会における細谷雄一・慶応義塾大学教授の以下の発言にも注目してみたい。

 …国際安全保障というのは基本的に集団安全保障と集団的自衛権、集団防衛を指します、この二つを無視して、どこまでも個別的自衛権、つまり、自国の国民の生命を守る以外のことは何もするなということが、本来あるべき二十世紀の大きな歴史の教訓から考えれば、明らかにこれはおかしなことではないでしょうか。(http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/029818920150708018.htm#r=s&r=s

 上記の発言は集団安全保障と集団的自衛権を国際安全保障として一括りにして、個別的自衛権に拘泥する立場を一国平和主義や独善として把握して、これを国際安全保障に対置させる。その上で、日本国憲法前文の国際協調主義を突き詰めると日本の行使できる自衛権を個別的自衛権に限定することは間違っていると論じているのである。この論理は突き詰めるとやはり憲法第9条の書き換えへと至ることになるだろう。

 しかし、ここでもやはり集団安全保障と集団的自衛権を一括りにすることで両者の相違点を見えなくしてしまっていることを指摘しておかなければならない。国連憲章第51条に個別的自衛権と集団的自衛権の文言が挿入された背景として、以下の理由が挙げられることがある。すなわち、中南米諸国の採択したチャプルテペック決議が想定したような地域的取極による強制行動には、安保理の許可が必要ということが憲章第53条に盛り込まれることがわかり、常任理事国の拒否権が発動されてしまうと相互援助条約の意味がなくなるという懸念より、中南米諸国が異議申し立てをしたという理由である。

 しかし、国連憲章の原案であるダンバートン・オークス提案には個別的自衛権・集団的自衛権は盛り込まれていなかったのであり、またそもそも中南米諸国がその提案の修正協議の中で主張していたのは「紛争の平和的処理協力の地域システムが優先的に作動しうることの制度的保障」の要求だったのだ(祖川武夫「集団的自衛権」、小田滋・石本泰雄編『国際法と戦争違法化:その論理構造と歴史性』信山社出版、2004年、p149)。

 「それをいわば換骨奪胎して安保理の拒否権に妨げられずに武力を使うためにその考え方を発展させて51条の集団的自衛権を生み出したのはアメリカであって、これはアメリカの初期の冷戦政策、対ソ政策に基づくものだった」(松井芳郎・森英樹『国際法・憲法と集団的自衛権』清風堂書店、2015年、p15~16)ということはあまり指摘されていない。

 言い換えると、国連憲章の起草過程から見ても自衛権は「固有の権利」と明記されたが、それは疑義を挟む余地のない国家の「自然権」というよりも、本来は違法な武力行使であるものが国連憲章の枠内において例外的にその行使の違法性を免除してもらえる「違法性阻却事由」なのである(Cf.最上敏樹「国際法は錦の御旗ではない」『世界』2015年9月号、岩波書店、p70)。

 つまり、国際安全保障が同盟のような二国間制度ではなく国連のような多国間制度によってこそ強化すべきものであることが確認できる。これは突き詰めると「もし集団的自衛権の行使を容認し、憲章51条こそが安全保障の要だと言い切るならば、日本は国連の安全保障体制からも決定的に離反することになる」のであり、日本はその危険な分岐点に立っているのである(西崎文子「米国外交からみた集団的自衛権」『集団的自衛権の何が問題か』岩波書店、2014年、p239。また西崎文子『アメリカ冷戦政策と国連 1945~1950』東京大学出版会、1992年も参照)。

 以上のように国連の集団安全保障体制と集団的自衛権がまったく異なる来歴を持つことがわかれば、それらを一括りにして日本国憲法第9条と対置させることは本質を見誤らせることになることがわかる。むしろ日本国憲法は、本来は国連の集団安全保障体制との連続性を意識する中で作成されたのであり、「一国平和主義」を企図して作成されたものではなかったことはここに明記しておかなければならない。

 というのも、1964(昭和39)年の内閣憲法調査会事務局が作成した「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」の中で語られる以下の幣原喜重郎の構想を知れば、それが一国平和主義ではないことが明らかだからである。

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筆者

前田幸男(創価大学法学部准教授)

前田幸男(創価大学法学部准教授)(まえだ・ゆきお) 創価大学法学部准教授

1974年生まれ。創価大学卒。国際基督教大学大学院行政学研究科博士前期課程修了。英国留学を経て、2004年、同大学社会科学研究所助手。博士(学術:国際基督教大学)。大阪経済法科大学法学部准教授を経て2015年から現職。著書に『EUの規制力』(共著、日本経済評論社)、『政治概念の歴史的展開〈第7巻〉』(共著、晃洋書房)、翻訳にジョン・G・ラギー『平和を勝ち取る―アメリカはどのように戦後秩序を築いたか』(岩波書店)などがある。