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なぜ安全保障法制に反対しないのか

創価学会・公明党の行動原理を解く

松岡幹夫 東日本国際大学教授

 「平和主義を掲げる創価学会は、なぜはっきりと戦争への動きに反対しないのか」

 先に成立した安保関連法をめぐって、いまだに国論が二分する中、疑問の声が同会の内外から聞こえてくる。問い自体は新しいようで古い。「歴史は繰り返す」である。

 第二次世界大戦の時、創価学会の前身である創価教育学会は軍国主義に抵抗して弾圧された。ただし、資料を見る限り、直接に戦争反対の声は上げていない。この点が今も論議を呼んでいる。

 戦後、ベトナム戦争が起きると、当時の池田大作会長は青年部の総会で即時停戦を提言した。ただし、この戦争に対する政治的な判断は個々の会員に委ねられた。すでにアメリカにも多くの創価学会員がいたが、反戦デモや兵役拒否を企てる者、平和を願いつつ出征する者など様々だったという。こうした状況は、先のアフガン戦争やイラク戦争の時も基本的に変わっていない。そして本年、学会は日本国内で安保法制の問題に直面した。

 創価学会の平和主義は、どちらかと言えば政治的な闘争運動に踏み込もうとしない。また、創価学会と公明党では政治的態度に違いも見られる。

 創価学会・公明党の行動原理はいったい何なのか。この点を読み解いてみよう。

創価学会―「立正」の行動原理

 創価学会の行動原理は「立正」にある。「立正」とは正しい仏法を世に立てることだ。創価学会が信奉する鎌倉時代の仏教僧・日蓮は、立正による国家の安穏、いわゆる「立正安国」を唱えた。創価学会もまた、立正による平和社会の実現を目指す。

 正しい仏法を世にひろめる以外に戦争を根絶する方法はない―これは創価学会に一貫して見られる固い信念である。

 戦時中、軍部政府の「滅私奉公」論や宗教政策を批判し、逮捕され死に追いやられた初代会長の牧口常三郎は、獄中の供述でこう述べている。

 「一天四海帰妙法の国家社会が具現すれば、戦争飢餓疫病等の天災地変より免れ得るのみならず、日常に於ける各人の生活も極めて安穏な幸福が到来するのでありまして之れが究極の希望であります」(「訊問調書抜粋」、『牧口常三郎全集』第十巻)。

 特高刑事による訊問の中、衰弱した老体をおして、牧口は「妙法」の社会的実現=立正による戦争の根絶が「究極の希望」であると訴えた。

 立正による恒久平和の実現という牧口の悲願は、今日の創価学会にそのまま受け継がれている。池田大作氏の主著である『新・人間革命』には「遠い道のりのように思えても、広宣流布の推進こそが、最も確かで、本質的な平和への道ということになる」(第十一巻)と記される。「広宣流布」とは仏法を広く伝えることで、要するに立正の実践である。立正は、かくして創価学会の平和主義における最も重要な行動原理となっている。

 ならば、社会的、政治的な反戦平和運動はどうなのか。創価学会では、これも肯定的に評価している。だから、広島や長崎で平和集会を開催したり、戦争体験者の証言を集めた八十巻の反戦出版を企画したり、核廃絶に向けた国際的な展示や署名運動を行ったりと、学会は様々に反戦平和運動を展開してきた。

 しかしながら、今回の安保法制に対する一連の反対運動については、教団として肯定も否定もしていない。これには相応の理由がある。立正の行動原理から言って必然的にそうなるのだ。二つの観点から説明する。

存在論的な理念の平和主義

 まず、創価学会の平和主義が存在論的である点が重要になる。創価学会の仏教信仰は、硬直した善悪の対立図式を嫌う。善人の心にも悪があり、悪人の心にも善がある。そう見るから、学会員による平和の実践は立場を選ばない。善も悪もひっくるめて善化しようとする。学会員としては、与党の議員であっても、野党の関係者であっても、自衛隊員であっても、民間の平和運動家であっても、別に構わない。ただ自分たちの存在を通じて正しい仏法を顕現していけば、崩れぬ平和を実現できる。そういう信念なのだ。

 筆者は今、作家の佐藤優氏と対談を行っているが、創価学会の平和主義を「存在論的平和主義」と呼ぶことで意見が一致した。これは、仏法者である学会員の存在自体が「見えない反戦」になるという思想だ。平たく言えば、存在論的平和主義は「感化の平和主義」である。われわれは、想像以上にまわりの人から影響を受けて自分の考えを作る。特に、好きな人、尊敬する人からは大きな影響を受ける。感化の力は想像以上に大きい。人の人生を根本から変える力がある。だから、自民党にも、防衛大学にも、軍需産業にも、周囲を平和に導く感化力を持った学会員がいたほうがいい。存在論的平和主義とは、そんな考え方だ。

 どんな所にも学会員が存在すること、それがすなわち立正の現実化に他ならない。あらゆる分野に学会員が存在することが恒久平和の道とされるから、創価学会が安保法制の議論で特定の立場を表明しないのは当然である。学会が公明党を支持するのは、一つには与党内でも存在論的な平和運動を期待するからだ。安保法案に直ちに賛成ということではない。自衛隊をどう捉えるか、という問題についても同じだ。かりに創価学会が公式に自衛隊を批判したら、国防組織の中で平和の心を広げている学会員の自衛隊員はどうなるのか。存在論的平和主義は、誰に対しても「今ここ」での平和の実践を求める。それ自体は「立場なき立場」なのである。

宗教で社会を救う仏法優先の原理

 次に、創価学会の平和主義には「仏法優先原理」があることを知る必要がある。創価学会員にとって、仏法とは反戦の究極である。社会的、政治的な反戦も大事だが、仏法の前では相対化される。反戦平和の運動自体は尊くても、もし仏法の実践を妨げるようなら、かえって根源的な平和主義に背くと考える。これが仏法優先原理である。学会が他党よりも公明党を支持し続ける最大の理由は、まさに仏法優先原理にある。

 仏法優先原理などと聞くと、一般人の目には独善に映るかもしれない。筆者もあえてそれを否定しない。しかし、創価学会が仏法を反戦の究極とするゆえんは、仏法で「戦争への運命」さえ変えられると信じているからだ。つまり、立正の行動原理は人智を超えた運命の次元に立つ。この点は押さえておく必要があろう。

 集団的自衛権を認めない場合でも、他国の軍隊が一方的に日本を攻撃してくれば、個別的自衛権による戦争が起きる。憲法九条で戦争放棄を謳っていても、戦争に巻き込まれることはある。すべての戦争に反対する者は、どうしても戦争への運命と対峙せざるを得ない。

 先の大戦中、多くの善良な市民が徴兵され、戦地に送られて尊い命を落とした。なぜそうなったのか。前代未聞の世界大戦が起きたからだ。では、なぜ世界大戦の時期に生まれ合わせたのか。これは運命としか言いようがない。彼らは「戦争への運命」を背負ってこの世に生まれ、戦地に赴いたとも言える。仏教の業論では、われわれの運命を自業自得すなわち自己責任として捉える。自分の体を傷つけると痛い。同じように、他人の体を傷つけると、いつか自分自身に痛みの報いがくる。自分と他人を存在論的に一体と捉え、前世の行為の報いを現世で受けるとするのが仏教の因果論だ。前世の悪業の報いを受け、現世で暴力を受ける運命の人もいる。そして、日蓮によれば、宇宙根源の真理である仏法への背反(謗法)こそ根本的な悪業であり、兵士となって戦争に駆り出されるのは前世の仏法背反が根本原因だという。

創価学会総本部の施設=東京都新宿区信濃町拡大創価学会総本部の施設=東京都新宿区信濃町
 戦時下にあって、創価教育学会の牧口会長は、道理を無視した軍部政府の暴走を深く憂いていた。だが、より根源的には、戦争に巻き込まれる個々人の運命の問題があると考えた。牧口は出征する学会員に対し、兵士となるのは前世の仏法背反の報いであると教え、仏法信受による運命の転換を指導している。創価教育学会は戦争に反対しなかったのではない。最も根源的な反戦を行うには国家の指導階層を宗教的に説得するしかない。そのため、あえて政治的反戦を控えたのだ。創価学会の平和主義に独特な仏法優先原理の実例がここにある。

 少し角度を変えてみよう。戦争へ向かう運命は、われわれ日本人の心性にも巣くっている。日本の軍事的独立を望む勢力は、一定の広がりを持って社会に根を張っている。それは、七十年前の敗戦によって国家解体を余儀なくされた屈辱の歴史に端を発する。戦後の日本は、急速に経済的独立を果たした。その次に求められてくるのが政治的独立、軍事的独立だ。二十世紀末からの右傾化の流れには歴史的な根っこがある。今回の集団的自衛権の問題も安倍首相個人の心情だけでは片付けられない。

 仏典に、釈迦の一族が滅ぼされた因縁を説くものがある。それによれば、釈迦族が隣国に滅ぼされたのは、かつて隣国が釈迦族から王妃を迎えようとした際、偽って下女を与えたことに起因するという。憎しみの連鎖によって、戦争は運命的に起きる。あのイスラム国の蛮行にも、イスラム教とキリスト教の間の血なまぐさい闘争の歴史が色濃く映し出されていよう。

 現在の日本は、歴史的な力に押されて右傾化の道をたどろうとしている。安倍政権が倒れても、別の政権が軍事的強化をはかる可能性は高い。かたや国際社会の側も、紛争や戦争の火種を常にかかえている。戦争は、いつも平和への願いをあざ笑うかのごとく起きる。戦争を運命の次元で根絶するには仏法しかない。創価学会では、その信念から宗教的反戦を第一義とする。社会的、政治的な反戦運動は、宗教的反戦との関係において取捨選択される。反戦平和の運動は尊いが、創価学会の組織的団結を乱すようなら、最も大事な宗教的反戦の妨げとなりかねない。学会本部筋の懸念は、恐らくそのあたりにある。

 要するに、創価学会は立正の行動原理を持ち、何よりも宗教で国を平和にしようとする仏教教団と言えよう。よく「創価学会は社会正義よりも教団を護ることを優先している」などと非難する人がいる。宗教の論理を社会の論理で裁断するようでは、議論がかみ合わない。一般人は宗教を社会の一部と見なすが、宗教者はむしろ社会を宗教の一部と見る。後者は、宗教を護ってこそ社会が本当に善くなると考える。創価学会が教団の維持発展を最優先するのは、宗教の論理から言えば普通の行動だ。

 「宗教で社会を救う」という宗教者の心意気は、一般には理解されにくい。難民支援や環境保護など社会倫理的な実践に熱心な宗教は評価されても、信仰そのものの力で社会を変えようとする宗教は黙殺されがちである。現代の世俗化社会の価値観に合わないからだが、宗教と社会の関係を考えるうえで、宗教の論理に鈍感な「宗教音痴」は克服されるべきだろう。私見を述べると、福祉活動などは別に宗教者でなくてもできる。宗教者の本分は、宗教によって人を救うことだ。宗教本来の実践よりも副次的な社会活動のほうが評価される風潮には疑問がある。信仰によって人間性や生活態度がどのように変わるのか―例えば、そのような視点から宗教の社会的意義を論じる動きが、もっとあってもよいと思う。ともかく、宗教の根本論理は「宗教で社会を救う」である。

 ある面で、宗教の論理は、政治の論理と似たところもある。どちらも理念によって社会を変えようとするからだ。政治家が党利党略のために動くと非難される。だが、党利党略自体が悪いとは言えない。その政党の理念が素晴らしければ、党利党略こそ正義の行動となる。真の問題は、政治家が理念達成のために動いているのか、それとも私利私欲で動いているのか、この点にあろう。宗教者が教団の利益を基準に行動することについても、同じ問いを発するべきだ。特定の教団の利益をはかる行動に見えても、それが宗教の社会的使命を果たす意志に貫かれている限り、宗教の論理として尊重されてよい。

 創価学会の場合、あらゆる理念を生み出す人間の生命を大理念としている。あらゆる理念が生命から生まれたとすれば、創価学会の生命理念にとって排斥すべきものは何もない。自由主義であれ、社会主義であれ、共産主義であれ、生命理念の立場から生かすべきイデオロギーとなる。創価学会は自己保身のために種々の勢力と合従連衡を繰り返している、と批判する人たちがいる。しかし、学会の内部論理によれば、そうではない。学会は、一切の生みの親である人間の生命を信奉するから、左右両勢力と協調できる。そのうえで、自らの生命理念の社会的実現のために、創価学会という教団の利益を基準に動くわけだ。

 博識の言論人にして敬虔なクリスチャンでもある前出の佐藤優氏は、創価学会の動向を決する宗教の論理を正当に評価し得た一人である。氏は語る。「SGI(創価学会インタナショナルの略称=筆者注)という組織を防衛し存続・発展させることが、自分たちのレゾンデートル(存在意義)であり、そうすることが、平和主義につながるという、存在論的な理念―これが創価学会の『平和主義』の強さであり、私が、その『平和主義』を本物だと考える根拠である」(『創価学会と平和主義』)。真実の護教は本物の平和主義に通じる。佐藤氏は、宗教ならではの平和の論理を誤りなく捉えている。

 立正の行動原理に基づき、第一に教団の発展によって仏法を世にひろめ、社会的、政治的な平和活動も視野に入れつつ、この世から戦争を根絶しようとする。創価学会の等身大の平和主義とはそのようなものだ。

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筆者

松岡幹夫(東日本国際大学教授)

松岡幹夫(東日本国際大学教授)(まつおか・みきお) 東日本国際大学教授

1962年生まれ。創価大学卒、東京大学大学院修了。群馬大学講師等を経て現職。2010年から東日本国際大学・東洋思想研究所所長。著書に『日蓮仏教の社会思想的展開』(東京大学出版会)、『日蓮仏法と池田大作の思想』(第三文明社)、『宮沢賢治と法華経』(昌平黌出版会)など。