公明党はジレンマを解消できるのか?
2015年11月10日
公明党が自民党と連立を組んだのは、20世紀末期の1999年10月。それ以来、民主党が政権を担った3年3カ月をのぞき、自公は手を組み続ける。「共同生活」はなんと13年になる。
にもかかわらず、政治研究を事とする政治学者たちは、連立政権といいながら、公明党の分析を怠ってきた。かくいう私も例外ではない。政治学の世界では、あたかも自民党の一党独裁がずっと続いているかのような論考が続いている。すなわち、自民党の権力者の変遷、権力構造の変化は論じても、連立相手の公明党のそれはほとんどない。
理由はある。それについては後述しよう。ただ、ここで言えるのは、昨年来の集団的自衛権の行使容認、それに基づく安全保障関連法案の審議を通じ、これまでのように公明党を見て見ぬふりすることは、もはやできないということである。「雪駄(せった)の雪」と揶揄(やゆ)されたのは「今は昔」。どうかすると、「前衛党」のように動いたのではないかとさえ、私には見える。
なぜ、そう見えるのか。それ故にこの党はいかなる問題や課題を抱えるようになったのか。以下、考えてみたい。
日本の政治を支えるのは、良しあしは別として、「霞が関」に蟠踞(ばんきょ)する官僚たちである。過日、かねて知っている官僚たちに、「公明党の議員と話が通じるか」とたずねてみた。公明党の浸透度を測るためだ。はたして答えは、「通じる」であった。
議員であれ秘書であれ、公明党の関係者はとにかく熱心だという。昼間に訪ねてきては、いろいろ質問する。納得できるまで何度も来る。そういう人たちは、いまの自民党にはほとんどいないという。
長く在任した太田昭宏・前国土交通相には、とっておきのエピソードが語りつがれていると聞く。国会で野党から質問通告があるとき、ふつう、官僚は野党の質問を入手して回答をまとめた段階で大臣に説明に行く。太田大臣にそれは通用しない。前日に呼び出され、「野党がどういう質問をするか、そこで言え」と言われるという。面食らう官僚たちに対する太田大臣の弁がふるっている。
「野党の質問を待っているようではダメだ。君たちは挫折がないから、それでいいと思うだろうが、自分のように挫折の多い人生だと、待っていたら負けるんだ。創造力を働かせよ。君たちは頭がいいんだから。想定問答は相手がどう出てくるか考えるところから始まるんだ」
党の代表もすでにつとめ、御年70歳の太田にして、そうである。基本的に公明党は、ありとあらゆることに真面目に取り組み、勉強をする。おまけに、最近は東京大学卒や弁護士出身というエリートが増えてきた。官僚との間にある種のリテラシーを共有するようになっても不思議ではない。自民党を説得してもらうため、公明党に話をするのも「アリ」であろう。
かつて「55年体制」では、官僚が付き合うのは基本、自民党であった。唯一の与党としての責任感もあって、特定の政策分野に関しては官僚以上に通暁した「族議員」が、霞が関に睨にらみをきかし、政策を左右したのだから、官僚たちがひんぱんに「ご説明」にうかがうのは当然であった。ところが、その自民党が民主党による政権交代後、変わった。あまり勉強しなくなったという。
万年与党から滑り落ち、失意にくれた野党時代に逼塞(ひっそく)していたのは、まだ同情の余地がある。だが、民主党の半ば自滅で、与党に返り咲き、さて勉強するかと思ったら、「我が世の春」に浮かれてか、何もしないというのは、どうしたものか。派閥の学習機能がなくなり、新人議員の指導がおろそかになっているとはいえ、「政策派の若手がいない」という官僚の指摘は深刻である。
もちろん、圧倒的多数の自民党議員と比べると、公明党の議員は少数である。しかし、衆議院に35議席、参議院に20議席もあれば、自民党のちょっとした派閥ぐらいのボリュームはある。公明党が乗り気な政策ならば、自民党の協議と並行して公明党の反応も探っておくといったことも、確証はないけれど、やっているフシがないではない。
要は、官僚の側に公明党へのアレルギーが薄れつつある。昔なら、いくら勉強熱心でも、背後に創価学会があるという警戒感がぬぐえなかったが、その意識が希薄になった。それが目立つのは、第2次安倍晋三政権になってからだ。
3年余の野党暮らしを経て再度、安倍・自民党と組む決断をするにあたり、公明党は明らかに安全保障や自衛隊といった国家の基本問題に向き合う覚悟を決めた。平和の党、福祉の党、環境の党といった従前からの立ち位置にとどまらず、自民党と国家を担う腹を固めた。宗教政党でもあるという事実は変わらないが、同時に現実政治に取り組む政党として一定の成長をみせたことが、アレルギーを弱める背景にあるのであろう。
では、公明党はなぜ、そんな決断をしたのか。ここまでの自民党との関係をたどりつつ、政党としての成長の過程を振り返ってみる。
公明党はずっと自民党に一途だったわけではない。じつは民主党政権の時代、民主党と連立を組むという話もあったと、党の関係者から聞いたことがある。
菅直人あたりがいろいろ手を伸ばしたというが、自民党のような「手練」に乏しく、うまくいかなかったらしい。なにより本気度が足りなかった。300議席にあぐらをかいて、誘いはするけど、どこか上から目線だった。それでは、公明党は動かない。
その点、自民党はしたたかだ。1998年、橋本龍太郎政権で参院選に大敗。後継の小渕恵三政権が衆参の「ねじれ」に悩まされて政権運営に行き詰まるや、それまでのすさまじい公明党攻撃を一気に緩め、礼を尽くして協力を求めた。
99年10月の自民、自由、公明の「自自公」連立からはじまり、「自公保」をはさんで、アッという間に「自公」連立にいたった手腕は鮮やかだ。
なかでも「凄ワザ」を感じるのは、大臣ポストの割り振りである。
連立が軌道に乗りはじめた2000年12月。第2次森喜朗改造内閣で公明党は厚生兼労働相のポストを得る。起用されたのは医師出身の坂口力である。翌01年の省庁再編で厚生省と労働省は合体して厚労省となるが、内閣改造があってもこの大臣ポストは公明党の「指定席」であり続ける。結局、第2次小泉純一郎内閣が終わる04年9月まで坂口が再任を繰り返した。
大衆福祉の党としてスタートした公明党のウリの一つは、言うまでもなく福祉である。厚労省という、公明党が最も得意とする政策分野を仕切る官庁を、自民党は渡したわけだ。
そこで公明党は、自党の大臣のもとでつくられた政策が予算化され、地域の人たちに恩恵をもたらす実感を十分に味わったのだろう。党の支持者や、その背後にいる創価学会に対し、弱者救済の公明党として評価もされただろう。連立の初期に、生活と福祉の党にもっともふさわしいポストを与え続けたところに、自民党の半永久的に公明党を連立に囲い込もうとする意識が垣間見える。
その後、第2次小泉改造内閣から第2次安倍政権にいたるまで、今度は国土交通相がほぼ公明党の指定席となる。こちらも公明党にとっては、望ましいポストといっていい。
そもそも党の地方の支持者には、公共事業などに従事する人が少なくない。ちょっとした生活インフラを直してもらえるという〝現世利益〟もある。くわえて、建設省と運輸省、北海道開発庁、国土庁が一緒になってできた国土交通省は、さまざまな権限をもつ巨大官庁。そこで政策実現のノウハウ、うまみを知れば、もう権力から離れられるはずがない。そこにも自民党の巧智が見え隠れする。
自民党が公明党との連立を求めたのは、国会対策からではあったが、真の狙いは選挙対策である。票が読める創価学会を自陣に組み込むために、自民党が知恵を絞ったであろうことは想像に難くない。学会の人たちに自民党に投票し続けてもらうには、公明党が自民党とともに与党であり続ける状態は悪くないということを、自然に学んでもらうのが一番いい。そのために、御利益の見えやすいポストを与えるという計算が、彼らは決して言わないけれど、ないはずがない。
その結果、民主党による政権交代までの10年間、自公は連立を組み続けた。その効果は想像以上に大きい。選挙協力もそれだけやれば、お互いに相手なしでは考えられなくなる。3年余の野党暮らしの間、公明党が民主党に心変わりしなかったのは、民主党のつたなさもあるが、それ以上に自公が抜き差しならない関係になっていたことがきいている。もはや「ひとつの政策で意見が合わないといって、連立を外れるということはあり得ない」という状態になっているのである。
それだけに、自民党がいよいよ政権に戻ってくるとなったとき、公明党は正念場を迎えた。次の首相はその右派的な「国家観」において、公明党・創価学会の平和主義とは相いれない安倍だから、連立を組むにあたり相当の覚悟を迫られたに違いない。
第1次政権の経緯から、第2次政権で安倍首相が憲法改正や安全保障などに踏み込むことは明らかだ。さりとて、そうした事態になった場合、公明党が憲法の平和主義を守る立場から異議を唱え、さっさと連立を解消するほど単純ではない関係になっているのは、ここまで述べてきたとおりである。ならば腹を据えて、安倍首相と向き合うしかない。そう思い定めたフシがある。
人事の妙とも言えようか、公明党の代表は野党転落の折に選ばれた山口那津男であった。弁護士から1990年衆院選で初当選した山口は、国連平和維持活動(PKO)協力法、イラク復興支援特別措置法とこの20年余、自衛隊の海外派遣問題において党の理論的支柱であった。安全保障やPKOのことを理解しつつ、憲法との関係など専門的な法律論も分かる。
山口代表はおそらく、安倍首相とは相当距離がある。ショートメールで連絡を取り合う仲だった以前とは違い、いまは直接会う回数が増えたとはいえ、両者の肌合いはあまりにも異なる。山口は「立正安国」の創価学会を支持母体とする平和主義の公明党の代表だ。歴史修正主義的な「国家観」を持つ安倍首相と、どだい合うわけがない。
ただ、それぞれ「一党」を率いる公党の代表同士が、けっこう離れた関係であることは、集団的自衛権行使容認や安保法制の策定にあたり、マイナスではなかったと思う。だからこそ生じたある種の緊張関係が、両党の実質的な協議につながったと感じるからだ。
一連の協議について、たいていの人は、次のように思っている。複数の幹部の間で始まった両与党の協議は、次第に自民党は高村正彦副総裁、公明党は北側一雄副代表へと収斂する。安倍首相は高村副総裁を使い、公明党がギリギリ受け入れられる提案を示し、最後はそれを押しつけた。公明党はなにがなんでも与党にいたいから、「理屈がついていればいい」と、それを受け入れた。集団的自衛権も安保法制も基本的に同じ筋書きである、と。
そういう面がないとはいわない。でも私はそれだけではないと考える。
公明党は知ってしまったのだ。国の安全保障とか、自衛隊の問題とか、これまで触らせてもらえなかった国家の基本的な事項に、相当な機密に至るまで触れ、今まで見てなかった世界を見てしまったのだ。見てしまったからには、自分たちももう、後には引けないと腹を決めたのではないか。
「表」の与党協議とは別に、水面下で調整を図る「裏」の協議の場がつくられている。高村副総裁、北側副代表に外務省出身の兼原信克、防衛省出身の高見沢将林の両官房副長官補、横畠裕介・内閣法制局長官が入った、いわゆる「5人組」による会合だ。
ここを舞台に、公明党は北側を通じ、自民党や政府のキーマンと、突っ込んだ協議を繰り返した。公明党の納得を得ようと、言い分に耳が傾けられ、譲歩も示され、それが「形」になっていく。集団的自衛権行使の「新3要件」のように。やっていくうちに、自然と、国家の根本をあずかるところまで自分たちはきた。情緒的な平和主義ではなく、現実の平和をつくる役割を果たすようになった。そんな権力の醍醐味を感じたのではないか。
公明党は「玉手箱」をのぞいたのだ。秘密にして他人には容易に見せない大切なものを。ここまできたら、もう抜けられない。逆から言うと、もう自民党にはいいようにはさせない。エリート官僚、あまつさえ法制局長官とも膝詰め談判して国家戦略にかかわるだけの力をつけた。それだけの自信を、自民党との連立の十数年、わけても第2次安倍政権下での修羅場をくぐって、身につけたのである。
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