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高校生の「コドモ」扱いをやめよう

メディアはまなざし変える努力を

広田照幸 日本大学文理学部教授(教育社会学)

はじめに

 2015年6月に公職選挙法等の一部を改正する法律が成立し、選挙権をもつ年齢が満18歳に引き下げられた。これに伴い、学校教育、特に高校教育がこれまでの考え方をあらためて、生徒たちを主権者に育てていく教育へ転換していこうとする動きが進んでいる。

新日米安全保障条約の批准に反対し、国会前に座り込んだ学生たち=1960年4月23日拡大新日米安全保障条約の批准に反対し、国会前に座り込んだ学生たち=1960年4月23日

 1970年代以後の日本の高校は、生徒を「コドモ」扱いするようになった。その後40年以上もの間、高校教育は、リアルな現実の政治や社会について、生徒たちに知らせない/考えさせない場として作用してきた。その結果、若者は身の回りの日常世界に閉じこもってしまい、若い世代の投票率は低下していった。安保法制をめぐるSEALDsなど新しい動きはあるものの、若者全体を見ると依然として、政治に無関心な若者か、あるいはおそろしいほど単純な思考経路で政治を判断する若者が多い状況である。

 もともとの高校教育はちがっていた。第2次大戦後に発足した新制高校は、日本社会に民主主義を作り出し定着させるための重要な場として期待されていた。学校での生徒会など民主的な活動や、実際に社会の現実問題に触れることなどを通して、生徒たちを民主主義の担い手として育てていくことが期待されていたのである。当時の文部省が出した手引書などを見ると、驚くほど寛容で積極的である。しかしながら、①60年安保や60年代末の学園紛争を契機に、高校生を政治から遠ざけ、高校での政治教育を抑制しようとする通知・通達が出された。②中学卒業後にすぐ就職する者が減るとともに、消費文化などが浸透して、高校生は同世代の子どもっぽい文化の中に囲い込まれていった。そうした結果、日本の高校生は現実の政治や社会に対して関心も知識もないまま卒業していくような、そうした高校になったのである(注1)。

 高校生を「コドモ」扱いし、結果として政治や社会に無知・無関心なまま卒業させてきた高校教育を見直す動きが、ようやく近年登場してきた。たとえば中教審(中央教育審議会)の高等学校教育部会では、2014年6月に出した「審議まとめ」の中で、高校教育においてすべての生徒が身につけるべき「コア」の一つとして「市民性」を掲げた。同年暮れの中教審答申では、「国家及び社会の責任ある形成者として、自立して生きる力」の「確実な育成」に向けて、「教育内容、学習・指導方法、評価方法、教育環境を抜本的に充実させなければならない」という改革の方向が提示された。

 今回の選挙権年齢の引き下げは、若者の政治離れを作り出してきたこの数十年間の教育を見直そうとする動きにとって、決定的に重要な契機になった。高校生を政治から遠ざけるべきことを示した1969年の通達を見直すことが、2015年4月に文部科学省の担当者から表明され、10月初めには見直しの案が提示されるに至っている。また、高校での主権者育成の教育のための副教材も文科省と総務省の手で作られ、9月に公表された。流れは「高校で主権者教育を」という方向に向かっている。

 しかしながら、こうした流れを妨げるような材料も少なくない。下手をすると、大半の学校は何も変わらず、それどころか、一部の事例が「偏向」とされることで、かえって一気に可能性が閉ざされてしまうことにもなりかねないのである。ここでは、「高校で主権者教育を」という方向を進めようとしたときの、教育関係者の課題とメディアの役割とについて、それぞれ論じてみたい。

1.教育現場や教育界の対応の問題

(1)主権者教育の難しさ

 そもそも、現実の政治や社会問題は「正しい答え」がないのが普通である。いろんな考え方や見方、いろんな主張が飛び交っていて、しかも何が適切なのか、人によって判断が異なっていたりする。そういう教育をやったことがない教師に、果たしてちゃんとした教育がやれるのか。まずそこに、大きな難しい問題がある。

 たとえば、「正しい答え」がないことについての教育を、どのようにやればよいのか、日本の学校には十分なノウハウの蓄積がまだない。「正答にいかにしてたどり着かせるか」ということばかりに取り組んできた日本の教師は、大きな試練に直面せざるをえない。生徒に自由に考えたことを言わせたら、にわか仕込みの教師の知識を超えるような領域に話が展開してしまうかもしれない。生徒同士の議論で出てきた対立する論点を、どうとりまとめたらよいのかわからなくなってしまうかもしれない。それにうまく対応しないといけないのである。

 あるいは、正答のない問いを生徒に考えさせるということの難しさもある。「Xを覚えさせる」ということは、教育技術的にはやりやすい。覚えさせるという目標に適した手段の選択ができるからである。しかし、「Xについて考えさせる」というのは難しい。考えさせるために何をしたらよいのかは、はっきりしないからである。生徒が自ら考えるためには、ある程度の知識がないといけないかもしれない。論理的な力も必要だ。目の前に提示されていない何かと結びつけてみる想像力も必要だ。でも、必要なことのすべてを教師が準備して、進めることはできない。だから、仮になにがしかの知識を事前に生徒に学習させておいたとしても、その断片的な知識を相互に結びつけながら、論理的に生徒が考えてくれる保証はないのである。

 現実の何かの問題に向き合ってそれを考える学習経験が、生徒の側でより一般化されないままになってしまう可能性もある。目の前のある政治問題については勉強したけれど、日本の政治や世界の政治についての認識の広がりをもたず、些末な具体的事項についての断片的な知識だけが頭に残った、というような事態である。これは専門用語で「学習の非転移」と呼ばれる。そういう場合には、「細かいことを調べさせられて議論させられたけれど、時間のムダだった。こんなのなら英語の単語の一つでも覚えたほうがましだった」と生徒に言われてしまうことになる。

 「正しい答え」がないことを教育で扱っていくためには、日本の教師には新しい課題に取り組むための十分な準備と試行錯誤の積み上げが必要である。新しい試みを工夫する十分な時間や知的で自由な思索の余裕を現場に与える必要がある。また、当分の間は、少々の失敗ややりすぎなどには目をつむる必要がある。そうしないと、教師はリスクを恐れて、いつまでも新しいチャレンジに踏みださない。しかしながら、今の改革はそういう余裕や自由を教師に与えないまま動いている。そこに大きな問題の一つがある(注2)。

(2)過剰な統制と萎縮

 もう一つの大きな問題は、「政治的中立」を口実にした政治的介入の動きである。すなわち、自分とは対立する勢力の主張が教育現場に及ばないように、ささいな逸脱も許さないという政治的な圧力が、教育行政や学校に対してかけられている。それぞれの事案の適切さ・不適切さの問題とは別に、そうした一連の動きが、主権者育成のための教育の可能性を封殺してしまう結果を生みつつある。「何も問題が起きないように」と教育行政が現場に対して細かく目を光らせ、現場でも「独自に工夫する新しいことは危なくてできない」という空気を生み、結果として、教育現場の萎縮やマニュアル追従主義を生んできてしまっているのである。

 弁護士を招いて憲法について学ぶ授業が問題視され(2014年7月、北海道)、無料配布されていた補助教材に対して批判がなされ(同年10月、大阪)、安保法制を題材にした授業で資料にした新聞記事の種類が問題にされた(2015年6月、山口)。地域の中の保守的な勢力が、時事問題を扱う学校の教育のあり方に注目し、特定の事案を拾い出して批判・攻撃する。保守政治家や一部の保護者の圧力を受けて、教育委員会が「再発防止」のために、厳格な手続きやラインを定めてそれ以上のことをやらせない、という仕組みができあがってしまう構造である。

 この動きは、中央でも進んでいる。2015年7月8日に自民党の政務調査会がまとめた「選挙権年齢の引き下げに伴う学校教育の混乱を防ぐための提言」は、徹底して現場教員への不信感に満ちている。そこでは、「教員の日々の指導や政治的活動については、政府としてその政治的中立性の確保を徹底すべき」と打ち出されている。職務の内容に関わる「日々の指導」と、公務員の基本的自由の制約の問題である「政治的活動」とが、無造作に並列されていること自体が大きな問題点であるが、何よりもその両者を「政府」が徹底して取り締まる、ということを明示した点に大きな問題点がある。教室空間も、教員の私生活も、国家によって徹底して監視していくぞ、ということである。

 文科省が総務省とともに作成し、同年9月に公表した高校生向け副教材『私たちが拓く日本の未来―有権者として求められる力を身に付けるために―』でも、教師向けの指導資料では「政治的中立」がくどいほどくり返され、また10月に明らかになった、文科省の通知案「高等学校等における政治的教養の教育と高等学校等の生徒による政治的活動等について」でも、「教員は個人的な主義主張を述べることは避け」るべきことなど、「行きすぎ」への警戒感に満ちたものになっている。

 何をしてはいけないかを細かく定め、ささいな逸脱も見逃さないようにしようとするような仕組みを形成する動きによって、今まで以上に不自由な現場が生まれることになる。平凡な普通の教員が、主権者教育に向けて新しいチャレンジをしていこうとする意欲を削ぎ、「余計なことをしない/考えない」「与えられた教材や手引きに沿って、決められた手順でやる」というマニュアル主義の横行を生み出してしまうことになる。

 過剰な統制は、主権者教育をどうやっていけばよいかを自分で考えることもなく、自分は政治について知識も関心も持とうとしないノンポリ教員ばかりを生む。その教員たちが、「さあ、皆さん、現実の政治は多様で複雑だから自分の頭で考えてみてね」と生徒たちに向かって教育をするということになるから、そんな教育はまるで戯画的なものになる。

(3)学校や教育行政に必要なこと

文部省との歴史的な「和解」をした日教組の定期大会で、自民党の国会議員として初めて出席し、日教組の横山英一委員長(右)と握手する同党の石橋一弥・元文相=1995年9月1日拡大文部省との歴史的な「和解」をした日教組の定期大会で、自民党の国会議員として初めて出席し、日教組の横山英一委員長(右)と握手する同党の石橋一弥・元文相=1995年9月1日
 心配される事態は、保守派の人たちが警戒しているような、教職員組合の組織的な「教え込み」の蔓延などではない。最大組織の日教組はすでに「法令遵守」の線で動いている(1995年の文部省と日教組との和解)。中央や単組の運動路線に従わない跳ね上がりの末端組合員は、もはや世代交代でごく一部になっているし、しかも現場で浮き上がっている。しかも、そうした少数の跳ね上がり教員が仮に極端な立場で教育をやったとしても、生徒に影響を与えることなんかできない。昔に比べて生徒たちの目にする情報は多元化してきているし、教室の出来事は生徒や保護者を通して外部に情報が知られるようになってきているから抑制も働く。保守派が心配するほどの影響力を持てるわけがないのである。そもそも、中学や高校は教科担任制なので、孤立した反社会的な信念を持つ一人の教師がクラスの生徒に圧倒的な影響力を持つことなんかは考えられない。また、子どもたちは初中等教育12年の間にたくさんの教師に出会うから、たまたま偏った教師の発言に出合ったからといって、それほど影響を受けるわけではない。「洗脳」なんかができる状況にはないのである。

 むしろ私たちが心配しないといけないのは、学校教育が無味無臭になってしまうことの害毒である。個人の思想信条としては少々偏った教師がいるかもしれない(というか、おそらくいる)。そういう教師が、ある授業のある場面で、偏った立場からの自分の意見を漏らしてしまうかもしれない。でも、それを「政治的中立」という名で事細かく非難するならば、学校は形式主義が支配する、窮屈で息苦しい場所になってしまう。大半の教員が萎縮して、あるいはものを考えることを放棄して、主権者教育を形式主義の形でしかやらないか、あるいは何もしないで今まで通りの「何も考えさせない」授業を続けていくような事態である。徹底して消毒すれば「悪玉菌」は駆逐できるかもしれないが、「善玉菌」もまた死んでしまうのである。

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筆者

広田照幸(日本大学文理学部教授(教育社会学))

広田照幸(日本大学文理学部教授(教育社会学))(ひろた・てるゆき) 日本大学文理学部教授(教育社会学)

1959年、広島県東城町(現庄原市)生まれ。南山大学助教授、東京大学教授などを経て、現職。幅広く近現代の教育を研究しながら、現代の教育改革についても考察を進めている。著書に『陸軍将校の教育社会史』(世織書房、サントリー学芸賞)、『思考のフロンティア 教育』(岩波書店)、『格差・秩序不安と教育』(世織書房)、『教育は何をなすべきか―能力・職業・市民―』(岩波書店)など多数。