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どこに復興があるというのか?

被災地で苦悩し続ける人々の記録

寺島英弥 河北新報社編集委員、早稲田大学ジャーナリズム研究所招聘研究員

 東日本大震災が起きて5日後の2011年3月16日、初めて足を踏み入れた宮城・石巻で見たのは、津波で破壊された街、道を埋めた海底のヘドロと交差点に乗り上げた漁船、降りしきる雪の中で誰かの安否を尋ねながら行き交う人々。続いて訪ねた陸前高田の風景は、記憶にあった教科書の写真―原爆投下後の広島―と重なり、自分がその場で何をなせるのかが分からずに立ちすくんだ。

 南からは刻々と、福島第一原発事故の未曽有の事態が伝えられ、出身地の相馬と古里に連なるすべてを喪失することを覚悟した。「放射能なんて、この年になれば怖くないから、心配するな」という老親の電話に焦りと憤りを募らせながら。

 それから間もなく丸5年を迎える。被災地となった岩手、宮城、福島3県を取材する地元紙の震災報道に携わり、現場に通ってきた。時間は何も解決せず、さらに新たな問題が積み上がり、何も終わっていない。始まってもいない。どこに「復興」があるのか? 筆者のいまの感慨だ。被災地で出会った人々の5年を振り返り、何を問うべきなのかを確かめたい。

仮設商店街は今年閉所 再出発の有志は減り

 「『カドッコ』という子どものための施設を、商店街で運営している。こども新聞で取り上げてもらえないか」。宮城県気仙沼市・南町柏崎青年会の坂本正人さん(58)から電話をもらい、初めて訪ねたのは2012年8月11日だった(筆者は前年9月に河北新報が創刊した「かほピョンこども新聞」も編集)。坂本さんからは次のようなファクスももらった。

 「当地区は東日本大震災による津波で壊滅的な被害を受けました。残念ながら『自治会』『子ども会』などの、土地があって初めて成り立つコミュニティーは存続が難しい状態にあります。(中略)それでも私たちは南町で暮らすことを決意しました。浸水地域で再び暮らすことに『バカじゃないか』と思われるかもしれません。でも私たちは南町が好きです。この土地を愛してやみません。ここがふるさとだからです」

 南町は、かつて日本有数の漁港として栄えた気仙沼漁港と魚市場の後背地にあり、「南町夢通り」「一番街」「大堀銀座」「南銀座会」の四つの商店街に約100店が連なる、市内随一の繁華街だった。津波で大半の店の1~2階部分が水没。被災者となった商店主らは地元の紫神社境内にある集会所「紫会館」を自力で避難所とし、約130人が踏みとどまった。

 坂本さんら青年会が中心になり、食事の用意やがれきの撤去、夜の見回りなどを担い、壊れた商店を1軒ずつ片付け、貴重品や写真を持ち主に届ける取り組みもした。被災後の11年4月5日には南町青年部青空市を催し、コロッケや、東京から取り寄せた下着を販売した。

 青空市の代表になったのが、青果物店経営者の坂本さん。この自助の活動が、仮設商店街づくりの計画に発展し、同年暮れに「気仙沼復興商店街 南町紫市場」(プレハブ7棟に53店・中小企業基盤整備機構の事業を活用)を始めた。寿司、焼き肉、とんかつ、喫茶、スナック、居酒屋、鮮魚、八百屋、理髪、パーマ、雑貨など、地元で知られた飲食店の名店も参加。坂本さんはこう語った。

 「大半の人は仮設住宅や借り上げ仮設に入っているが、もう一度、(南町の)通りで再起できたら、とみんな願っている。市から復興計画案が示されず、商店街の具体的な再建の計画は立っていない。頑張れる限り、仮設で頑張るつもりでいる。街に人がいない中で商売をしているし、一度話題に取り上げられても忘れられるのは早いので、来てくれた人を大事にして、また戻ってきてもらえる工夫をしたい」

 カドッコは、商店街の角にある空き店舗を利用した子どもの遊び場スペースで、ダンスなどの練習や発表、イベントに使える。「子どもがいない所に商店街の未来はない。子どもたちが戻ってくれて、町になる。避難所にいたころから、子どもの居場所は大人の責任で何とかしなければ、と話し合っていた」。こうした視点をもった街づくりの始まりだった。

 仮設商店街の入居費が無償だったこともあり、南町紫市場は毎月のようにアイデアを凝らしたイベントを催して客を呼び、工事関係者や市民のほか、関西など遠方の自治体からの視察一行、被災地を訪ねるツアーが相次いで、市場は食事や買い物の客でにぎわった。

 南町紫市場の出店者を中心にした「復興まちづくり」。こんな共同事業の話が持ち上がったのは13年9月。南町がある、気仙沼漁港を取り巻く旧中心部は「内湾地区」と呼ばれ、同じ内湾地区でやはり壊滅した魚町の商店主たちと共同で、それぞれの場所で市の災害公営住宅と一体化したビル方式の商店街建設を、同じ事業(中小企業グループ化補助金を利用)で実現しよう、という構想だ。

 住民は仮設住宅などに離散し、にぎわいを支えた多くの商店や飲食店のテナントビルは再建される見込みがなく、その両方を呼び戻す場所に―。南町紫市場では坂本さんが中心になって検討会を重ね、参加希望者を募った。仮設市場は、開設から5年を期限(16年10月末)に閉所される。それ以後の自立と生き直しの場を、自分たちでつくり出さねばならない。だが、坂本さんには苦渋の1年が待っていた。

 「共に苦境を乗り切ってきた市場の仲間たちと一緒に移ろうとした。だが、気持ちはどんどん違っていった」。中小企業グループ化補助金は、事業費の4分の3を国と県が補てんするが、残りは参加者が個々に負担し、20年間にわたって返済する。「そんな長いローンは組めない、払える見込みがない」「後継者がおらず、商売の先行きがない」「この上、借金を抱えるのは苦痛だ」。こうした声が市場の出店者たちから相次いだ。後継者はいるものの、商売に見切りを付け、仮設市場の閉所期限とともに店を畳むという飲食店主もいた。

 53店の仲間のうち残ったのは4分の1。他地区の業者にも声を掛け、ようやく現在までに27店の参加者が固まった。負担は重くなり、復興需要で工事費用も高騰し、1人当たり数千万円を背負っての共同事業スタートとなる。「負担は増えるが、子どもたちの『カドッコ』は残して広場も造ろうと、話し合って決めた」と坂本さん。苦しい状況でも「子どもが戻ってくる街づくり」の理想を守ることにした。

 魚町の参加者は7人。16年11月の開業を見込むが、「20~30の店だけではやっていけない」。市が内湾地区に計画する観光施設などに期待し、客を呼び戻すほかない厳しい現実が待つ。「遠来の団体客もめっきり減った。風化というが、古里で再起しようと結束した自分たち自身の内側にも起きていたかもしれない」

 気仙沼市内でもう1人、取材の縁を得た人が、内湾地区の北、鹿折(ししおり)地区の「かもめ通り商店街」にあった酒屋の奥さん、菅原文子さん(66)だ。夫を津波で亡くし、魚町に仮店舗を構えて商売を続けてきた。地域ごと津波で流され、無人となった鹿折では、新しい土地区画整理事業の地盤かさ上げ工事が進み、アパート型の災害公営住宅の建設が始まった。

 菅原さんは16年夏には鹿折に店を再建するつもりだ。「かもめ通り」の関係者はまとまって商店街を復活させたい希望だというが、菅原さんはそこから抜けた。「鹿折でも、場所ごとに区画整理の完成時期が違い、予定される商業地の完成を待っては、あと3年も掛かる。いまの仮店舗も、防潮堤工事のために今年夏までに立ち退かねばならず、流された店があった土地の換地の権利を返すことにした。先は見えないが、進むほかない」。津波を生き延びた商店主36人のうち、鹿折に戻ることが分かっているのはわずか8人だ。

水産の再建を阻む「風評」 韓国の輸入規制も厚い壁に

写真1 震災後の復活2年目のホヤを水揚げする阿部誠二さん(右)と忠雄さん=15年5月2日、石巻市の牡鹿半島・鮫浦湾拡大写真1 震災後の復活2年目のホヤを水揚げする阿部誠二さん(右)と忠雄さん=15年5月2日、石巻市の牡鹿半島・鮫浦湾
 「浜や漁業の復興はいまだ道半ば。復興の努力にのし掛かるのが原発事故の風評だ。捕っても売れるのか、と漁業者自身も不安に思っている」

 福島第一原発事故の放射能と「風評」、そして「食の安心・安全」をめぐり、郷里の相馬市やいわき市など福島県以外の漁業者からはっきりとした危惧の声と現場の実態を聴いたのは、14年3月15日に仙台市であった「宮城の水産業の復旧・復興の今と未来を語る集い」というシンポジウムだった。

 冒頭の発言の主は船渡隆平・宮城県漁協専務(当時)で、県産の生ガキについて「放射能が検出されないのに、西日本の産地の安い加熱用カキと同様の値を付けられ、震災後の市場回復ができない」と語った。13年度に収穫された宮城県産生ガキの平均販売単価が震災前の10年度に比べ606円も安く、価格差の総額は約14億740万円に上っていた。

 11年の津波で全滅したカキの養殖が復活した12年度の時点での平均単価はまだ18円安いだけだった。「風評が壁になった」と同県の水産関係者が口をそろえるようになった契機は、13年7月22日、東京電力が「疑い」を再三指摘された末に公表した福島第一原発の汚染水の海洋流出問題だ。

 「震災3年目には流通市場に商品を出せなくなった。関西の出荷先から取引を打ち切られた仲間の加工業者もいる」と、塩釜市のかまぼこ製造販売業者は語り、別の加工業者は「風評で足踏みし、被災地から出荷が滞る間、全国のスーパーなどの売り場は大手企業の安いPB(自社企画)商品などに取って代わられた」と訴えた。

 福島第一原発事故の後、もう一つの販路、中国や韓国などは東日本の水産品の輸入規制を行い、福島県産魚の漁獲自粛で原料不足となり、輸入魚は高騰した。「県内業者の風評被害は総額560億~700億円」。宮城県水産加工業協同組合連合会の内海勝男会長(塩釜市)は14年4月、県議会復興・復旧特別委員会で訴えた。

 15年3月には水産庁が、被災した東北・関東5県の水産加工業者のアンケート結果を発表し、売り上げが震災前の「8割以上に回復した」との回答はわずか40%だった。復興の問題点についての回答の31%を「販路の確保・風評被害」が占め、最多になった。「国の補助金で工場を再建したが、ゼロからの販路開拓。売れなければ人も雇えない」(石巻市の水産加工業者)との状況は共通し、「風評」は壁のように構造化し、復興途上の被災地の経済を空洞化させている。「風評被害の払拭のために、国が前面に出る」と、安倍晋三首相ら政府関係者は被災地を訪れるたびに繰り返してきたが、その責任と努力、コストを背負わされているのは現場の当事者たちだ。

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筆者

寺島英弥(河北新報社編集委員、早稲田大学ジャーナリズム研究所招聘研究員)

寺島英弥(河北新報社編集委員、早稲田大学ジャーナリズム研究所招聘研究員)(てらしま・ひでや) 河北新報社編集委員、早稲田大学ジャーナリズム研究所招聘研究員

1957年生まれ。早稲田大学法学部卒。79年河北新報社入社。論説委員、編集局次長兼生活文化部長などを経て現職。著書に『シビック・ジャーナリズムの挑戦』(日本評論社)、『東日本大震災4年目の記録 風評の厚き壁を前に』(明石書店)など。ブログ「余震の中で新聞を作る」。