取り巻く宗教団体、根源に「明治憲法復元」
2016年05月12日
日本会議について書いてほしいという依頼を受けて、少し迷った。
私は10年ほど前に日本会議の成り立ちを取材する機会を得ただけで、現在の日本会議の動きについてはあまり知らない。
日本会議の実態に詳しいのは、なんと言っても、ハーバー・ビジネス・オンラインで「草の根保守の蠢動」を連載している菅野完さんと、「子どもと教科書全国ネット21」の事務局長・俵義文さんらである(両氏ともに本号で筆を執っている=編集部注)。私が出る余地はないのではないか。
しかし、「待てよ」と思い直した。
日本会議について、長期の取材をした経験を持つ者はたぶん数えるほどしかいない。日本会議の内実を伝える情報量は未だに少ない。だから、日本会議は発足から約20年たっても、得体のしれない団体のままであり続けている。
そんな謎めいた団体の正体を突き止める手がかりとして、私の取材体験もまんざら無駄ではないかもしれない。
私はなぜ日本会議に注目し、どうやってその成り立ちを知ったか。それだけでも読者に伝えられれば意味があるかな、と思って原稿を書くことにした。
私が日本会議と遭遇したのは2005年初め、朝日新聞がスクープしたNHK番組改変問題がきっかけだった。
同年1月12日の朝日新聞は「NHK『慰安婦』番組改変 中川昭・安倍氏『内容偏り』 前日、幹部呼び指摘」の見出しでNHKに政治的圧力があったと報じた。
ずいぶん前のことなのでお忘れの方もあるだろうから、番組改変問題の概略を説明しておこう。NHKで「女性国際戦犯法廷」を題材にしたETV特集「問われる戦時性暴力」が放送されたのは、それより4年前の01年1月30日夜だった。
番組は旧日本軍の性暴力を告発する「法廷」に焦点をあてているにもかかわらず、肝心の慰安婦の証言シーンがわずかしかなく、日本軍の行為について「法廷」が下した結論にも一切触れないなど、奇妙な点がいくつもあった。
何より不自然だったのは、44分枠の番組が40分に短縮されていたことだった。これはテレビの世界ではまずありえないことだった。
なぜ、そんなことが起きたのか。実は放送4日前、番組内容を察知した日本会議が、片山虎之助総務相(当時)に対して「(放送は)わが国の名誉を傷つける」ものだと抗議文を手渡し、片山大臣から「調べてみよう」という返答を引き出していた。
さらに日本会議と深い関わりを持つ日本政策研究センター(伊藤哲夫代表)も、NHKの「暴挙を阻止すべく」「抗議と放映中止の要求活動」(同センター機関誌『明日への選択』より)を活発に繰り広げていた。
それと並行して、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(中川昭一代表、衛藤晟一幹事長、安倍晋三事務局長)がNHK側に「放送中止」の圧力をかけていた。
番組放映3日前、NHKの伊藤律子制作局長は制作スタッフに対して、「若手議員の会」編の単行本『歴史教科書への疑問 若手国会議員による歴史教科書問題の総括』(平成9年刊)を見せ、そこに名前を連ねる議員たち(=中川、安倍両代議士ら)を指さしながら「番組で騒いでいるのはこの人たちなのよ」と語っていた。
日本政策研究センターと「若手議員の会」、そして日本会議の三者には密接な関係がある。同センターの伊藤哲夫代表は日本会議の中枢メンバーであると同時に、中川、安倍、衛藤氏ら「若手議員の会」の面々と親交があり、同会設立に関わっていた。
単行本『歴史教科書への疑問』の中で「若手議員の会」の幹事長代理である高市早苗氏は「今後は、中川昭一会長はじめ仲間の議員達や、私達の会にお力添えいただいた日本政策研究センターの伊藤哲夫所長ら有識者の先生方のお知恵をお借りしながら、政府に対しては更に掘り下げた議論を挑みたいと思っている」と書いている。
つまり、前述の三者はほとんど「同じ穴の狢」であり、NHKの番組改変問題の核心は、日本会議グループの存在にあると言ってよかった。
もっと踏み込んで言うなら、日本会議と自民党右派の連合勢力がついに公共放送の番組内容を改変させる力を持ったことを端的に示す事件、それが番組改変問題だった。
私は番組改変問題の取材を進めるうち、この問題についての朝日新聞の取材データをたまたま入手した。それには番組改変問題のキーマンともいうべき松尾武・元NHK放送総局長の貴重な「証言記録」も含まれていた。
その松尾証言と、NHKの番組制作スタッフらの証言などを突き合わせると、「放送中止」の圧力は、日本会議グループなど右派団体・「若手議員の会」→NHKの国会担当職員→NHKの国会対策担当の野島直樹・担当局長→伊藤律子制作局長・松尾武放送総局長の順で伝わっていったことがわかった。
折りからNHKの予算審議の時期だったこともあって、NHK上層部はこの動きに敏感に反応し、松尾総局長が野島局長とともに「説明」に出向くことになった。
松尾総局長は、安倍官房副長官らの対応を見て「つけ入るスキを与えてはいけないという緊張感」を持ち、「みんなが不安」になって番組改変が行われた、と朝日の取材に対して認めていた。
これはもう、番組内容が政治的圧力で改変されたとしか見えない。
ところが、NHKをはじめとするマスコミ界の大勢はそれを認めようとしなかった。安倍、中川両氏も政治介入の責任を取るどころか、番組改変問題を報道した朝日新聞を攻撃した。
私は松尾総局長の「証言記録」を含め、自分の取材結果のすべてを『月刊現代』に書いた。これだけ詳しく事実を伝えれば、「政治介入はなかった」などという妄言は消えてなくなるだろうと期待したのだが、朝日新聞に対する見当違いの攻撃は止まらなかった。
私のレポートの内容は、ほとんど無視されたのである。私は事実がこんなにも軽んじられるのかと呆れた。一記者として悔しく、情けなかった。
何より、左遷や失職のリスクを冒してまで、取材に協力してくれたNHKの関係者らに対し、申し訳ないという気持ちで一杯になった。
それにしても、である。いつから、こんなに右派が幅を利かせるようになったのだろうか。私の知る右派は「街宣右翼」だ。でなければ、一人一殺のテロに走る右翼である。
ところが、日本会議は、それらとは体質も戦略も明らかにちがう。
そして、どういうわけか、日本会議の関係者には、昔、生長の家と縁のあった人が多かった。
伊藤哲夫・日本政策研究センター代表しかり、衛藤晟一議員しかり、椛島有三・日本会議事務総長しかりである。なぜだろうか?
そんな疑問を抱えていたころ、作家の佐藤優さんから興味深い話を聞いた。KSD事件で2001年に東京地検に逮捕されるまで自民党の右派を代表する政治家だった村上正邦さんのことである。
佐藤さんによると、村上さんは九州の筑豊炭田で貧しい炭鉱労働者の子として生まれ、青年時代には炭鉱で労働運動のリーダーをしていた。幼いころには、朝鮮半島から強制連行され、炭鉱で虐待されている人たちの姿も目撃し、心を痛めたことがあるという。
そのうえ村上さんは、かつて生長の家を支持母体にして国会議員になった人だった。
私は村上さんのライフヒストリーを聞きたいと思った。もし、村上さんがすべてを話してくれるなら、なぜ日本会議が近年台頭したのか、その謎を解くカギが見つかるかもしれない。
幸いなことに村上さんは、佐藤さんを通じての申し出を快く受けてくれた。ほぼ1年にわたるインタビューにも嫌な顔ひとつ見せず、率直かつ明快に答えてくれた。
村上さんの政治家としての軌跡は、事前に私が想像した通り、日本会議誕生の物語とぴたり重なっていた。そして、キーワードは、やはり生長の家だった。
話は1962年にさかのぼる。当時、村上さんは、後に自民党の有力政治家になる故玉置和郎氏(87年没)の秘書として働いていた。玉置氏はその年の夏の参院選に、生長の家の支援を受けて出馬した。だが、当選ラインに届かず落選した。
玉置氏はその時、たとえ票ほしさに生長の家に近づいても、その下心を信徒たちに見透かされていると覚ったらしい。落選後、彼は本気で生長の家の教えに打ち込み、創始者の故谷口雅春(85年没)の著書『生命の實相』全40巻を読破した。
秘書の村上さんにも「俺と一緒になって生長の家に入ってくれ。でなきゃ、俺は本物になれない」と言った。
ここから、村上さんと生長の家との物語が始まる。
村上さんは仕方なく、飛田給(東京都調布市)の道場に行き、10日間の練成を受けた。道場では毎朝4時半に起きて便所掃除をした。
とにかく「何事にも感謝」で、
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