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米国の長期的変化が生んだトランプ現象

民主主義の欠陥を正す手がかりにせよ

西川賢 津田塾大学学芸学部国際関係学科准教授

 「オバマ大統領は多くの変化をもたらした。だが、それらの変化はわれわれが待ち望んでいた変化ではなかった。(中略)オバマ大統領は今日のアメリカ政治を分裂させる元凶を作り出した責任を十分に問われていない。(中略)正直に言おう、オバマ大統領がいなかったら、ドナルド・トランプが今日のアメリカ政治を席巻することもなかっただろう」

 「ウォールストリート・ジャーナル」紙に寄稿した論説でこう述べたのは、共和党の大統領候補の一人だったボビー・ジンダル(前ルイジアナ州知事)である。

 変革への期待を一身に背負って登場したオバマ政権は、いままでのところ国民の期待に完全に応えることができていない。オバマ政権の外交・安保戦略は体系化をみておらず、彼の外交スタイルはしばしば受け身・弱腰などと批判されている。また、内政では「アメリカの分断の克服」「アメリカの統一」を強く訴えつつも、いまだそれを達成するに至っていない。2016年1月の一般教書演説でオバマ自身が認めたように、オバマ政権は深刻な党派対立に足を取られて望みどおりの政治的成果を達成できなかったばかりか、アメリカの分断はかえって深刻化してしまっている。

 ジンダルは、このオバマへの強い不満がより強力なリーダーを待望する風潮を生み出し、「アメリカを再び偉大にする」と絶叫する候補者に熱狂的支持が集まる余地を生んだのだと批判する。

 他方、保守派の論客ロバート・ケーガンは共和党がギリシャ神話に出てくるオイディプス王のようだと揶揄(やゆ)する。すなわち、「デマゴーグ的山師という病が共和党に蔓延しており、史上最高の成功を収めつつある。だが、共和党はオイディプス王のように、病をもたらした原因が自分自身にあることに気がつかず、必死になって原因や治療法を探している」というのである。

 この7年余りの間、共和党はあくまでもオバマ政権との妥協を拒み、オバマ政権・民主党に対する有権者の反感を煽り、予算の成立や人事を妨害する行動をとってきた。こうしてオバマ政権の7年半にアメリカの政治は深刻な機能不全に陥り、怒れる有権者は既存の政治のあり方に激しい不満をぶつけるようになった。

 この怒れる人々は、もはや自分が所属しているはずの共和党すら信用しようとはしない。つまり、ケーガンはトランプの台頭はほかでもない共和党自らが招いた過失だというのである。トランプを支持する怒れる人々は、共和党が糾弾してきた全ての対象に怒りの矛先を向けている。トランプはその怒りを吸収して台頭した「共和党のナポレオン」であり、共和党が作り出した「フランケンシュタインの怪物」である、と。

 いったいトランプを作り出したのは誰なのか。ジンダルが指摘するように、トランプはオバマへの高すぎる期待とその後の失望が生み出した「反動的所産」なのか。それとも、共和党のなかに存在する歪ひずみこそ、トランプを生み出すきっかけだったのだろうか。

 筆者の見解は右記いずれの見方とも異なる。本稿では過去数十年に二大政党に生じた長期的変化に注目しつつ、トランプを生み出すに至ったアメリカの政党政治の構造的変化を概観してみたい。

戦前の米国をリードした民主党のリベラル政策

 1929年10月24日、ニューヨークにおいて発生した株式大暴落を端緒とする大恐慌は、人類史上最悪ともいわれる甚大な被害をアメリカにもたらした。失業率は32年には23%に達し、失業者や貧困者が都市の路上にあふれかえり、アメリカ社会の不安は絶頂に達していた。

 33年に就任したフランクリン・ローズヴェルト大統領はここで、「ニューディール」といわれる恐慌打開策を打ち出す。爾後(じご)、連邦政府が社会経済領域に積極的に介入し、社会問題や経済問題の解決にリーダーシップを発揮すること、特に各種産業に対する政府の補助・規制、労働組織の権利擁護、福祉制度の創出・拡充、人種や性差などに基づく差別禁止などの政策が民主党主導で推し進められていった。

 ローズヴェルト大統領はニューディール・リベラリズムに共鳴する労働者、南部の貧しい白人、ユダヤ人や黒人などの人種マイノリティーなどを幅広く取り込み、民主党支持の新たな多数派連合を形成することに成功した。大恐慌以前は共和党が長らく支配的な政党としての地位を保っていたが、ニューディール・リベラリズムを前面に打ち出すことで、共和党の治世下で周縁的地位にあった人々を支持基盤として取り込み、自らの支持連合と化したのである。

 爾後、52年にかけて、民主党一党優位の時代が訪れる。この時期、民主党は5回連続で大統領選挙を制し、連邦議会でも両院でほぼ一貫して多数党の地位にあった。民主党は支配政党としてゆるぎない地位を築いていたのである。

 一方、この20年間、野党の地位に甘んじた共和党には焦りが生じていた。なんとしても大統領選挙に勝ち、政権を奪取せねばならない―。そう考えた共和党は、52年の大統領選挙に、第2次世界大戦の英雄で国民人気の高かったドワイト・アイゼンハワー将軍を擁立する。

 選挙に勝利したアイゼンハワーは「中道的な政策形成」を理想とし、大きな成果をあげていった。紙幅の都合から彼の治績を網羅することは不可能だが、以下に幾つかの例を示そう。

 まず、3回の均衡予算を成立させている。アイゼンハワー以降の大統領で3回も均衡予算成立を達成した大統領が皆無であることを念頭に置けば、非常に大きな業績であるといってよい。

 また、公民権の分野でアイゼンハワー政権は、「連邦政府・地方政府」「白人・黒人」「北部・南部」といった対立の均衡を図ろうと腐心し、57年の公民権法、60年の公民権法など、画期的な立法の制定を実現している。

 アイゼンハワーは自らの業績に基づいて中道的な政治理念を体系化し、共和党内部に定着させて共和党を穏健保守の政党とするべく努力を続けた。だが、こうした共和党の中道化は結局、失敗に終わってしまう。公民権法の成立や社会保障の適用範囲の拡大などの中道主義を、「民主党の政策の焼き直し・劣化版」とみて反発する共和党保守派が党内部で急速に台頭し、党の主導権を奪い取ろうとしはじめたのである。

 このとき共和党保守派の中心となった人物こそ、64年の共和党大統領候補に指名されるバリー・ゴールドウォーターである。

アイクの中道主義を批判 右傾化を強めた共和党

 ゴールドウォーターは極めて独特で強靭な思想信条を持つ政治家だった。

 彼が絶対視したのは「個人の自由」である。すなわち、人間は自然状態において等しく平等であり、生命・身体・財産を自由に所有しうる。そこでは何人も生命・身体・財産を理由なく害されるいわれはなく、侵害者に正当に反抗する場合を除いて他者のそれを害することもない。人は最大限に「自由」であるべきである。政府の権力はこの所有権の不可侵を保障するという公共善に適った行動を取ることに限定されるべきであり、社会保障や公民権の保障などは公権力による不必要な介入にほかならず、権力の濫用・自由の侵害である―。

 こうした強靭な信念に基づき、民主党のニューディールのみならず、同じ共和党に属するアイゼンハワーの中道主義にさえ、個人の自由を侵害していると批判の矛先を向けたのである。

 ゴールドウォーターはニューディール政策の象徴と見られていた社会保障、労働組合の権利擁護、連邦政府主導の超大型公共事業、農業補助や産業規制、公民権法といった政策を全否定した。これら民主党の発案による政策の正当性を大枠で認めるアイゼンハワーも、ゴールドウォーターにとっては「民主党の共犯者」に他ならなかった。

 かくしてアイゼンハワーの引退以降、共和党内部では穏健派と保守派が党内の覇権をめぐり、激しい死闘を繰り広げた。わけても共和党保守派と穏健派による「保保対立」のクライマックスと位置づけられた64年の共和党予備選挙では、共和党穏健派の多くが保守派との抗争に敗れて凋ちょう落らくし、党内で影響力を失った。64年の大統領選挙を分岐点として共和党穏健派は決定的に退潮し、保守派が共和党の覇権を握り、80年代初頭以降の共和党の急激な保守化につながる道が切り開かれていったのである。

 たとえば68年の大統領選挙に立候補したリチャード・ニクソンは、黒人や公民権運動に反感を抱く南部の保守的白人へのアピールを狙った選挙戦術を採用し、保守派からの支持獲得に成功する。

 宗教保守の影響力が共和党に急速に浸透したのも、この頃の特徴である。宗教保守勢力は元来政治に関わろうとしないか、あるいは民主党を支持する性質を強く持っていた。だが、70年代後半になると、ポール・ワイリックやリチャード・ビゲリーなどの運動家がジェリー・ファルウェルらキリスト教保守派の指導者と相互に協力し、宗教保守票の掘り起こしと共和党への取り込みを進めていく。

 これら宗教保守勢力は人工妊娠中絶の禁止、公立学校における宗教教育、同性結婚の禁止、進化論教育の禁止などの世俗的争点を重視し、南部を中心に共和党の地方組織を瞬く間に席巻していった。

 80年の共和党大統領候補に指名されたロナルド・レーガンは経済的には小さな政府を支持し、減税、規制緩和、財政均衡などの政策を掲げた。さらに人工妊娠中絶反対・男女平等憲法修正案(Equal Rights Amendment)反対など伝統的価値の重視を掲げて宗教保守からも大きな支持を獲得し、当選を果たす。

 この過程で共和党は地盤の比重をかつての北東部から南部へと大きく移し、経済保守、宗教保守、そして郊外や農村に居住する保守的白人を支持層に据えた保守的政党へと完全な再編を遂げた。

 なお、共和党が中道から右傾化に向かうプロセスについては、拙著『分極化するアメリカとその起源』(千倉書房、2015年)で詳述したので、ご参照いただけると幸甚である。

リベラル路線が空回り 大統領選連敗の民主党

 80年代、保守化を強める共和党を前にして、民主党は苦境に立たされていた。30年代から60年代にかけての「黄金期」から大きく後退したのである。実際、80年代の大統領選挙で民主党は1勝もできていない。共和党は3回の大統領選挙において一般得票の54%、選挙人の89%を獲得し、民主党を寄せ付けなかった。

 かつてニューディール期以降の民主党の支持基盤(「ニューディール連合」)は、南部の白人、黒人、低所得者層・労働階層、大都市の移民、零細な農民層、ミドルクラス、インテリなど広範囲かつ強靭なものであり、選挙では圧倒的な強さを誇っていた。

 だが、リンドン・ジョンソン民主党政権(63~69年)が公民権法の制定を推進すると、黒人を嫌う南部の保守的な白人層が共和党へ逃げ、民主党の支持基盤が分裂の兆候を見せはじめた。

 こうした変化が起きはじめていたにもかかわらず、68年の大統領選挙において、ジョンソン政権の副大統領で民主党の大統領候補であったヒューバート・ハンフリーは、ベトナムからの米軍撤退、現金給付を含む所得保障制度導入、表現の自由とプライバシーの権利の完全保障、マイノリティーや女性の連邦政府ポストへの積極登用など、「アメリカ史上もっともリベラル」といわれる党綱領を掲げて選挙戦に臨んだ。

 これに対し、共和党のニクソン候補は「法と秩序」を掲げ、有権者の保守的感情に慎重に配慮した選挙戦術を採用。リベラル一辺倒のハンフリーはあえなく敗れ去ったのである。

 続く72年の選挙でも、ニクソンは民主党左派の対抗馬ジョージ・マクガバンを大差で下し、再選を果たす。76年には民主党のジミー・カーターが共和党のジェラルド・フォードを破ってホワイトハウスを奪還するが、これは民主党の理念や政策が支持されたわけではなく、ウォーターゲート・スキャンダルに憤る有権者が共和党政権に与えた「懲罰」だった。

 それゆえ、80年にレーガンが颯爽と登場すると、有権者はカーターをあっさり見捨ててレーガンを支持した。このとき、民主党員でありながらレーガンに投票する「レーガン・デモクラッツ」が多数出て、民主党は頭を悩ませることになった。

 84年、捲土重来(けんどちょうらい)を期する民主党はカーター政権の副大統領であった民主党リベラル派の重鎮ウォルター・モンデールを大統領候補に指名した。だが、モンデールは再選をめざすレーガンに、地元ミネソタ州と首都ワシントンを除く全州で敗北する。民主党にとって、悪夢のような歴史的大敗であった。

 88年の大統領選挙で共和党陣営は、民主党の大統領候補マイケル・デュカキスを「死刑廃止論者で犯罪者に寛容であり、なおかつアメリカに伝統的な家族の価値に関心がなく、偏向したリベラル団体に加入した経歴がある」などと攻め立てた。

 デュカキスの州知事としての前歴も攻撃の的となった。公立学校で「忠誠の誓い」を読ませることを教師に義務づける法案に拒否権を行使したことが問題視され、

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