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矛盾までのみこんでいく五輪の魔力

問われる開催国メディアの視座

稲垣康介 朝日新聞編集委員

 誤解を恐れずに言えば、五輪には麻薬のような作用がある。

 スポーツ記者として、今夏のリオデジャネイロ大会で7回目となる五輪取材に携わり、「五輪中毒」を自認するアスリートにたくさん出会ってきた。15歳でリオ五輪代表になった卓球の伊藤美誠(みま)選手にはびっくりする逸話がある。母の美乃りさんが妊娠中、おなかにいる我が子に卓球の戦術について話しかけていたというから、もう笑うしかない。毎年、もしくは隔年で開かれることが多い各競技の世界選手権と違い、紀元前776年に始まった古代五輪からの伝統である、4年に一度しか巡ってこないプレミアム感が、より中毒の度合いを増していく。

 この地球最大の運動会を統括するのが、国際オリンピック委員会(IOC)だ。

 五輪憲章はオリンピズムという、壮大で崇高な理念をかかげている。

 「人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会を奨励することを目指し、スポーツを人類の調和の取れた発展に役立てること」

 人種、性別、性的指向、宗教など、あらゆる差別と戦い、世界平和を考える。いわば国際連合のような性格を持っている。優等生のコスモポリタンだ。実際、2009年には国連のオブザーバー資格がIOCに与えられた。

 スイスの高級保養地ローザンヌに本部を置く非営利団体にすぎないのに、あらゆるスポーツ団体、さらには、五輪招致合戦では国家首脳や皇室までもが五輪の印籠(いんろう)に頭を垂れる。

 国連は第2次大戦後の1945年に誕生し、加盟国は193。IOCはピエール・ド・クーベルタン男爵の提唱で1894年にパリで誕生し、今や加盟国・地域は206に上る。

 しかし、約18年間、IOCを取材してきて垣間見てきたのは、清廉潔白なイメージとはほど遠いスキャンダルやIOC委員の醜態だったりする。上限115人のIOC委員は五輪の開催都市を決める投票権をもっているから、立候補都市から便宜供与を受け入れ、袖の下で私腹を肥やす輩もいた(いる?)。

 かつてアマチュアスポーツの祭典だった大会は、億万長者のセレブアスリートが集う巨大ビジネスに姿を変えた。経済がグローバル化し、強欲資本主義が幅をきかせる時代だ。IOCも、暴走しがちな商業化との折り合いを迫られているが、制御しきれていない。

 一方、いざ、祭典が幕を開けると、選りすぐりのアスリートの活躍に目を奪われ、そうした歪みを忘れがちになる自分もいる。世界中の人々の心を惹きつけてやまない、五輪の魔力である。

 掲げる理想と現実との矛盾。そこに切り込んでいくと、スポーツマスコミの片隅に生息する自分にも、少なからず火の粉が降りかかるのを覚悟しなければならない。天につばするリスクをはらみながら、私の五輪報道の出発点からたどっていきたい。

五輪報道のプロトタイプは長野 パラリンピックにも特設面

長野冬季五輪のモーグル女子で金メダルに輝き、チームメートに肩車される里谷多英選手(山本雅彦撮影)拡大長野冬季五輪のモーグル女子で金メダルに輝き、チームメートに肩車される里谷多英選手(山本雅彦撮影)
 初めての五輪取材は、29歳で迎えた1998年長野冬季五輪だった。取材班の一員に加わるようデスクに言われたのは、本番まで半年余りしかない時期だったと記憶している。すでに、日本のメダル有望競技であるノルディックスキーのジャンプや複合、スピードスケートでは、エース級の先輩記者が4年計画で海外のワールドカップ(W杯)を転戦し、取材していた。国内五輪ならではの手厚い取材態勢が敷かれていた。

 今だから告白すると、私は担当するモーグルのW杯取材経験が一度もないまま、本番を迎えることになった。海外の国際大会を取材し、ネタを仕込むチャンスは一度もなかった。

 2月11日、飯綱高原が舞台となったモーグル女子の取材に行った朝日新聞のスポーツ部記者は私一人だった。その日はジャンプのノーマルヒルがあり、同僚の多くは白馬村のジャンプ会場に出向いていた。

 出合い頭のように、里谷多英選手が日本女子で冬季五輪史上初の金メダルに輝いた。余談だが、それ以後5度の五輪で、私は自分の担当競技で日本人の金メダルに立ち会ったことがない。長野五輪当時、私には取材の蓄積はほとんどなかった。スピードで入賞選手中トップだったことから、「速さ」で勝ち取った金メダルだったこと、仲良くなっていたステファン・ファーレンコーチに、里谷選手が亡き父のことを思い出して前夜泣き出したエピソードを聞き、なんとかスポーツ面の記事を書き上げた。最近、当時の縮刷版を改めてめくってみた。翌12日朝刊の1面、社会面も里谷選手の金メダルがトップ記事だった。しかし、私は貢献していない。スポーツ部以外の同僚の取材陣に助けられた、半人前の担当記者だったわけだ。

 このように、日本人金メダリストが誕生すると、1面、社会面、スポーツ面で大展開するのが定番化したのは長野だった。1面は蔵出しのエピソードに勝負のあやを織り交ぜ、社会面は支えた家族やコーチを盛り込んだヒューマンストーリー、スポーツ面ではスポーツ専門記者が本領を発揮する勝因分析や技術論というすみ分けが、今も踏襲されている。

 長野はパラリンピック報道に力を入れ始めた大会でもあった。その2年前のアトランタ五輪では、社会面に申し訳程度に載せるだけだったのが、長野ではスポーツ面に段数が確保された。2000年シドニー五輪からは、パラリンピックの特設ページが用意されるようになった。

 今も朝日新聞で引き継がれている五輪・パラリンピック報道のプロトタイプはナガノだった。

ニュースは「メダル至上主義」 こだわっていきたい国際色

ロンドン五輪のメダリストたちが帰国後、東京・銀座で凱旋パレードをした(金川雄策撮影)拡大ロンドン五輪のメダリストたちが帰国後、東京・銀座で凱旋パレードをした(金川雄策撮影)
 新聞でもテレビでも、日本のマスメディアが五輪報道の軸に据えるのがメダルを獲得したニュースになる。読者、視聴者の圧倒的大多数は日本人だから「日本人メダリストの物語」が対象になる。取材態勢も、そこから逆算して決まっていく。

 昨今の夏季五輪なら、柔道、体操、競泳、そして最近はマラソンがメダル有力種目でなくなってきているとはいえ、花形競技の陸上、そして女子レスリング。卓球、サッカー、バドミントンも日本の重点競技になる。

 「メダル原稿優先主義」は不動の地位にある。でも、一方で、新聞は二枚舌な面がある。

 2002年ソルトレークシティー冬季五輪開幕時の、朝日新聞の社説にこんなくだりがある。

 「メダル至上主義も無用である。競技スポーツのだいご味は、一定のルールの下で極限まで競う美しさにあるから、メダルや順位は重要な要素だが、それだけにこだわるのはよくない。敗者がかみしめる苦さを共有することも五輪観戦の魅力の一つ、といった余裕が大切である。

 選手も見る側も、偏狭なナショナリズムや愛国心に縛られることなく、豊かな感動を楽しめる平和の祭典にしたい」

 立派だ。さすが、社説だ。

 そう、IOCが定める五輪憲章は高らかにうたいあげている。「国家間の競争ではない」と。

 しかし、紙面はどうか。「金メダル第1号」「メダルラッシュ」など、ニッポン頑張れと、日の丸の旗を振り続ける。明らかに、メダルって最高!という見方に偏っている。

 そもそも、大会前の選手取材からしてそうだ。「メダルを取るのが目標です」と言わせるのがお約束になっている。選手が「自己ベストをめざします」「自分の最高のパフォーマンスを披露したい」と言っても、「そして、最終的な結果としてめざすのは」とたたみかける。

 囲み取材の場合、大抵、テレビのリポーターがその質問を率先して引き受けてくださるので、自分は傍観者で済むことが多いが、単独取材の時は「一応、お約束の質問になっちゃいますが」「予定調和の質問ですみませんが」などの前置きをつけつつ、聞いてしまう自分がいる。

 紙面の扱いは、メダリストに限らず、日本勢が中心になる。

 これを、半ば自虐的に「国体紙面」と呼ぶ癖がついている。国民体育大会のとき、地方紙は「本県勢が表彰台を独占」など、地元選手の活躍を中心に扱うのと同じ意味だ。

 これまで、日本のメダル有望競技の担当になったことが少ないひがみかもしれないが、世界の200を超える国と地域から約1万500人のアスリートが集うのだから、日本選手団以外のドラマも紹介したらいいと私は思うけれど、なかなか果たせない。挑みながら、結局、原稿がボツになるケースが多い。締め切り時間が早い地域向けには掲載されていても、最終版になり、他競技の日本人選手が入賞はおろか、全く振るわない結果でも、その原稿にはじき出されてしまう。特に、日本選手団が史上最多の38個のメダルを量産したロンドン大会は、私の「脱国体紙面」作戦は惨敗に泣いた。現地で仕入れた海外選手の「いい話」を勇んで原稿にしても、東京本社で、日本勢中心のテレビ中継を見ながら見出しをつける編集者の手元に原稿が届くころには冷めてしまうのか。いや、そもそも、原稿にインパクト、面白さがないんじゃないか、筆力が足りないからか。自己嫌悪に陥る繰り返しだった。

 たしかに国体の報道で、一地方紙が地元選手の記事を差し置いて、他県の選手の「ちょっといい話」を載せるか?と問われると、正直反論しづらい。

 4年後は東京がホストとなる。世界中のアスリートを客人として招くことになる。自国開催で、より日本勢のメダルラッシュに沸く可能性は高いけれど、なるべく国際色にこだわりたい。そんな思いが強い。今夏のリオは前哨戦になる。同業他社の国際色とも比較してみたい。

「国別対抗戦」にIOC会長の反論 国民を束ねるために国家戦略化

ブエノスアイレスでのIOC総会で2020年東京五輪開催決定をアナウンスするロゲIOC会長(当時。共同通信による代表撮影)拡大ブエノスアイレスでのIOC総会で2020年東京五輪開催決定をアナウンスするロゲIOC会長(当時。共同通信による代表撮影)
 もっとも、自国選手のメダルに狂喜乱舞するのは、何も日本メディアだけではない。4年前、ふだんはどこか皮肉っぽい論調が多い英国メディアも、ロンドン五輪で英国勢が金メダルを量産し始めると、BBCをはじめ、大騒ぎしていた。やっぱり、五輪は憲章にお構いなく、国別対抗戦の色彩が強い。

 そんなジレンマをぶつけてみたことがある。どうせなら、トップに聞くのがいい。

 2013年2月、IOCのジャック・ロゲ会長(当時)に単独インタビューで聞いた。オピニオン面に載ったインタビューから抜き出してみる。

 ―五輪憲章は「個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と記しながら、実際は国旗掲揚がある。国家間の争いと化しています。

 「国別メダル表を載せるのはメディアだ。IOCではない。それに、メダル表は2種類ある。金メダルの数と総メダル数。北京五輪は中国が金メダル1位で、総メダルは米国がトップ。互いに自分の国が1位だと ・・・ログインして読む
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筆者

稲垣康介(朝日新聞編集委員)

稲垣康介(朝日新聞編集委員)(いながき・こうすけ) 朝日新聞編集委員

1968年、東京都生まれ。92年朝日新聞社に入り、東京、大阪のスポーツ部、新潟に勤務。2001年から4年間、ヨーロッパ総局(ロンドン)、アテネ駐在。五輪のほか、サッカー、テニス、卓球、フェンシングの担当経験が長い。11年から現職。スポーツ面に五輪を題材にしたコラム「聖火は照らす」を執筆中。