心ひとつに被災者に寄り添う
2016年07月19日
熊本地震の発生から2カ月がたった。
死者49人(熊本市4、南阿蘇村15、西原村5、御船(みふね)町1、嘉島町3、益城(ましき)町20、八代市1)と震災関連死の疑い20人(熊本市など9市町村)の犠牲者を出し、南阿蘇村の阿蘇大橋付近での土砂崩れに巻き込まれたとみられる男子大学生の行方は、手がかりさえ見つかっていない。
この間、6月5日に甲佐(こうさ)町に完成した県内第1号の応急仮設住宅(90戸)への入居が始まり、230人余りの被災者が生活再建への一歩を踏み出した。
当初は18万3000人を数えた避難者は着実に減ってきた。それでも6月13日現在、体育館や公民館など145カ所で6400人を超える人たちが避難所暮らしを余儀なくされている。いまだ車中泊や損壊した自宅敷地内、空き地などでテント暮らしをしている人もいて、実際の避難者はもっと多いとみられる。
県は65団地2951戸の仮設住宅を整備しているが、完成は5団地232戸と、進んでいないのが現状だ(6月13日現在)。
政府の地震調査委員会(委員長=平田直・東京大教授)は6月9日の定例会合で、「マグニチュード(M)6程度、最大震度6弱程度の余震が発生する可能性は低下した」と、熊本地震発生後、初めて活動が減衰しているとの見解を示した。
ただ、「今後も最低1カ月程度は大きな揺れに注意が必要」とし、梅雨に入り、地震で緩んだ地盤での土砂災害への警戒を促した。
熊本・大分両県の震度1以上の地震は発生から2カ月足らずで1700回を超えた。気象庁によると、5月は520回で4月の1093回から半減。震度4が8回、3が43回、1と2が計469回となっており、回数そのものは減少の一途だ。それでもこの2カ月、揺れを感じない日はなかった。
本紙に毎日掲載している発生回数(速報値)の棒グラフが、右肩下がりで推移しているのを見ながら、社会部デスクの一人は「以前は震度1でも記事にしていたのに、今は震度3でも1本記事にしない」と反省を込めて苦笑いする。日常茶飯事になった「揺れ」にすっかり慣れてしまった。
鈍感になったことを見透かすように、6月12日夜、県南の八代市で震度5弱を観測。県内で5弱以上を観測したのは4月19日以来のことで、翌6月13日も同市内で震度4の地震が起きた。
安倍晋三首相が消費税増税の再延期と衆参同日選見送りを正式表明したことを報じた6月2日付朝刊などを除き、1面や社会面のトップ記事はほぼ毎日、地震もので埋めてきた。アタマ記事に限らず、総合面や社会面、ローカル面なども、その多くが地震関連の地ダネであふれる。オバマ氏が現職の米国大統領として初めて広島市を訪問した時の5月28日付朝刊1面も、広島訪問に並べて熊本地震の連載記事を載せた。
その評価は読者に委ねるが、地元紙として、未曽有の大災害を最優先する編集方針は揺るぎない。
「支えあおう熊本 いま心ひとつに」
熊日が県内に本社を置く民放テレビ局やFM局と共に掲げたスローガンである。毎日、朝夕刊の1面に掲載。民放各局は番組の合間に俳優やタレントらが視聴者を励ます言葉と共に口にする。復旧・復興に向けて一丸で歩んでいこう、というエールだ。被災者に寄り添い、一緒に歩んでいこうという気持ちが込められている。
あの日、4月14日。私は翌日の朝刊制作を統括する「ニュースセンター長」の当番だった。
午後9時26分、本社1号館4階の編集フロアは「ドーン」と突き上げるような激しい揺れに襲われた。紙面整理を担う編集本部の当日の責任者の編集部長や当直デスクだった文化生活部次長らと向き合うように座った机の上に、ローカルや経済、外信、スポーツなど各面の大ゲラ紙面が、続々と届き始めていた。
見出しやレイアウト、記事内容の最終チェックをする作業がピークを迎えようとしていた最中、かつて経験したことのない激震に遭遇。恐怖感というより先に、何が起きたのか分からなかった。
間もなく、熊本地方を震源とするM6・5の地震が発生し、熊本市の東隣に位置する益城町で震度7が観測されたことを伝える共同通信のニュース速報(通称ピーコ)が編集フロアに響き渡った。
書棚やテレビが倒れ、資料や書類が床に散乱したものの、幸い制作システムは無事だった。編集局に駆け込んできた印刷局の担当者から「動かしてみないと分からないが、外観を見た限り、輪転機は大丈夫」と聞き、安堵(あんど)した。
社会部や政経部などに残っていた記者らとも手分けして編集局メンバーの安否確認をすると共に、「とにかく人を集めてくれ」と記者全員の招集を促した。
予定の降版時刻まで約3時間足らず。「人海戦術になる」と思った。
紙面メニューはほぼ固まっていた。限られた時間で大地震発生をどう報道するか。東京出張中だった丸野真司編集局長から「最大限、地震のニュースに紙面を割くように」と指示され、15日付朝刊は1、2、3面と第1、第2社会面を地震関連の記事、写真で埋めた。局長は第3社会面も使うよう促したが、結局5個面が地震紙面になる。
また、熊本市内で回送中の九州新幹線が脱線したことが分かったが、回送中でもあり、「生死に関わる現場を優先しよう」と、朝刊で詳報できなかった。
社会部は震度7を観測し、被害が甚大だった益城町を中心に記者を集中的に投入した。現場に向かった記者やカメラマンは15人。益城町在住で県政担当の政経部次長は自宅から町役場に入り、現地デスクを務めた。この次長は16日の本震で同じ益城町に住む伯父を亡くすことになる。記者の立場で親族の死を悼む記事を社会面に書いた。
3面や社会面も、崩壊した熊本城二の丸の石垣や、ホテルから路上に避難して毛布を被って震える宿泊客、商品が散乱したコンビニ、民家が全焼した火災現場など、臨場感あふれる写真で埋め、「恐怖と不安」の一夜を伝えた。
本社にいた医療担当記者は病院に向かい、屋外に避難する入院患者の様子を撮影。科学担当記者は専門家に電話をかけ、直下型地震のメカニズムを聞いて記事にした。各自がそれぞれの持ち場で、できることを考え、短時間で情報を集めて作った紙面だった。
降版時間が迫る中、全社一丸となってなんとか順調に進んだ朝刊制作だったが、降版後、15日に県内で開幕予定だった女子プロゴルフの国内ツアー第1ラウンドの中止決定が判明した。既に日付が変わる時間帯。スポーツ面の記事や広告を差し替えるため、再降版する事態になった。揺れが頻発する中で、普段に増して緊張感のある降版作業になった。
前震直後の新聞を作り終えた15日午前2時。編集担当取締役はじめ各部の部長、次長、部員らが編集局フロアに集まり、当面の報道体制について全体会議を開いた。
被害の激しい現場取材は社会部を中心に当該支局と応援組が当たること、電気や水道、ガスといったライフラインの被害状況は政経部、身近な生活関連情報は熊本市を管轄する熊本総局、地震のメカニズムなどは文化生活部が当たる―などの役割分担を決めた。
運動部や読者・NIEセンターからも応援要員を出してもらい、東京、大阪、福岡の県外支社を含む25支社・総支局を含む「オール編集」態勢で取材に当たることを確認した。
東京から朝一番の便で帰った編集局長が陣頭指揮に戻り、15日は「9人死亡860人負傷」の見出しで輪転号外(表裏2ページ)1万部を発行した。続く夕刊(8ページ)も4ページを地震関連記事で埋めた。
これら市町村別の記事は18日付から本格的に「生活関連情報」としてスペースを広げて掲載し、
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