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被爆地の新聞記者が見た「責任と謝罪」そして課題

金崎由美 中国新聞記者

 

被爆死した米兵捕虜の調査をした森重昭さんを抱き寄せるオバマ大統領拡大被爆死した米兵捕虜の調査をした森重昭さんを抱き寄せるオバマ大統領
 「原爆に遭ったときの話を聞いてもらえるのですか」。4月上旬、職場に高齢女性の声で電話がかかってきた。今にも泣き出しそうな息遣いである。

 私の所属部署は、中高生の子ども記者「中国新聞ジュニアライター」を引率して被爆者と会い、体験証言を聞く取り組みを主要業務の一つとしている。その内容は「記憶を受け継ぐ」というタイトルで掲載し、「被爆体験を語ってくださる人を募集しています」と連絡先も添えている。そのため「生きているうちに体験を語っておかなければ」などと自薦、他薦の電話を受けることが珍しくない。

 しかし、その女性は思いの丈を聞いてもらいたい一心で受話器を握ったようだった。原爆で父親と家を失い生活が一変したことや、身を寄せた親類宅でいじめられたことを打ち明けた。現在も病気がちであるうえ、きょうだいから疎まれ、孤立しているという。

 被爆体験を他人に話す機会はめったにないのだろう。話は要領を得ない。その滑舌から、口に入れ歯もはめていないようだ。発音を聞き分けようと耳に意識を集中させていると、女性は「原爆さえなければ……。人生、めちゃくちゃにされた」と声を絞り、号泣し始めた。

 2日後に再び電話が鳴った。話の内容はまったく同じだった。それ以降は音沙汰がない。精神的に特に憂うつな春を過ごしていたのかもしれない。人生を丸ごと奪われた上、生涯にわたって心身の健康不安を強いられること自体、最大の原爆被害である。季節が変わり、少しでも気持ちが落ち着いていることを願っている。

 「原爆さえなければ」という言葉は、原爆平和報道に関わった経験のある記者なら誰もが時折聞く表現だろう。ただ、この時は悲鳴のような声が私の心にいつになく重くのしかかった。原爆投下国・米国からケリー国務長官が広島を訪れる直前の時期だったからだと思う。

 電話の数日後の4月11日、ケリー氏が広島で開かれた主要7カ国(G7)外相会合に出席した。地元の小学生らが笑顔で国旗を振る中、岸田文雄外相ら他の出席者とともに、花道を行く主役のように平和記念公園を歩いた。複雑な思いで見守った。

 そして、5月27日。オバマ米大統領が原爆投下国の現職の最高指導者としては初めての被爆地訪問を果たした。

 「71年前、雲一つない明るい朝、空から死が落ちてきて、世界は変わった」。平和記念公園の西側側道に設けられた取材用スペースから、大勢の取材記者やカメラマンに交じり演説の第一声を聞いた。

 「きのこ雲の下」にいた体験者の目線からの語りである。一方、語り手が原爆を投下した当事国の最高指導者であるという事実を踏まえれば、「主語」の曖昧さに疑問を持たざるを得ない。米国から原爆を落とされて人生が変わったあの女性は、どんな思いで聞いているか。いや、死者はどう聞いているか。そんなことを考えた。

訪問を期待した8年間 実現して自戒したこと

 振り返れば、米民主党の大統領候補の指名を争っていた時期から「核兵器なき世界」を唱えていたオバマ氏に、私たちは新鮮な感動と期待を抱いていた。大統領選前の2008年秋には早くも、就任を見越して「大統領になったらぜひ広島へ」という声が被爆者、行政、市民の間で、そして中国新聞紙上でも大きくなり始めた。

 被爆地で現実の被害を学び、核兵器廃絶の実現へ行動してほしい、という願いからである。「被爆地がオバマ頼みの核廃絶運動でいいのか」という指摘はあり、私も全く同じ考えなのだが、裏を返せば核軍縮が停滞し続けていることへの怒りや焦りがそれだけ強いのだ。報道する側が躍らされてはならないが、オバマ氏に心を寄せ、一喜一憂する市井の人たちをばっさりと批判する気にはなれない。

 オバマ氏の今回の決断は、広島から見れば官民ともに8年間にわたって期待を発信し続けた末の「吉報」ではある。初めて米国の核問題取材を担当し、米国を旅したのが政権発足前の2008年12月だった私も、「ついに」という個人的な感慨を覚えた。

 こんな状況だけに、空前の歓迎ムードに報道が流されかねない危うさは尋常ではない。社内では報道部の市政記者クラブ詰めの担当者たちを中心に事前報道を精力的に進めていたのだが、「お祭りにはしない」という問題意識は早くから、広く共有されていたと思う。

 「お祭りにはしない」―。オバマ氏が被爆の実態を直視し、核兵器廃絶へ一歩前進する機会となるのか冷静に評価する。歓迎ムードにかき消されがちな異論も丁寧にすくい取る。それらの視点を軸に、地方紙報道の意義と、5月27日を経て広島が背負った数多くの課題について考え続けている。

1882人の「遺影」と地図が語るメッセージ

オバマ大統領が広島を訪れた2016年5月27日、中国新聞が朝刊に掲載した特集拡大オバマ大統領が広島を訪れた2016年5月27日、中国新聞が朝刊に掲載した特集

 オバマ氏を広島に迎える5月27日付の本紙朝刊に4ページ特集が載った。メインは「ヒロシマの記録―遺影は語る」。生後9カ月から87歳までの1882人の顔写真が並んだ。かつて商店や民家がひしめいていた現・平和記念公園付近で暮らし、働き、あるいは建物疎開作業に動員され、71年前に一瞬で焼かれた住民や生徒たちだ。

2016年5月27日、中国新聞の特集に掲載された原爆投下前の市街家屋図拡大2016年5月27日、中国新聞の特集に掲載された原爆投下前の市街家屋図
 西本雅実記者が1997~2000年に展開した連載の素材をもとにしている。若い記者を率いて遺族を探し当て、肉親への思いを聞き、遺影を一枚ずつ託してもらった労作である。被爆前の「市街家屋図」をベースに、数々の資料や証言から肉付けして作成した戸別地図も同時掲載した。

 原爆慰霊碑辺りには、工務店や和服裁縫所があった。中央の通路には、材木町郵便局や精肉店の長尾さん……。それらすべてが焼き尽くされた。オバマ氏が歩を進め、演説に立った足元に71年前にあったのは、緑豊かな美しい公園ではない。

 オバマ氏は、どこまで感じ取ってくれただろうか。

 広島平和記念(原爆)資料館の滞在は10分間。平和記念公園全体で50分余り。短い時間の中で最も心に残ったのは原爆資料館で目にした折り鶴だった。被爆から10年後、白血病に侵され12歳で亡くなった佐々木禎子さんが折った小さな鶴たちである。オバマ氏は「何と美しいことか」と後に感想を述べていたという。

 何よりも広島を象徴し、被爆地訪問を忘れがたい記憶として焼き付ける力を持つ遺品である。とはいえ、普遍性を持つ「美しいもの」から現実にあった地獄絵図を実感することは難しい。

 「原爆投下が日本降伏と第2次世界大戦の終結をもたらした」と肯定する世論が根強い米国内の事情を考えれば、オバマ氏訪問のイメージが惨劇ではなく「美しいもの」とセットになるよう、日米両政府が意図的に収れんさせたとしても不思議はない。「まずは原爆資料館をじっくり見学してほしい」と願う地元とは当初から同床異夢だった。いや、そもそも広島訪問の目的は核軍縮のメッセージをこの地から発することであり、自らが学び手となる意図はなかったろう。

側近が語る演説の意図 美しさだけ見せた日本

 それでも「ここへ来た勇気は素晴らしい」という評価が大半であり、私はその筆頭だ。一方、演説内容となれば受け止めは本当にさまざま。中でも「軍縮の具体策を言ってほしかった」という声は共通している。「核兵器廃絶につなげて」というオバマ氏訪問に込めた願いからすれば当然だ。

 取材者としては、少々違う角度から意外に思った部分もある。米国の「核の傘」を求める日本政府は喜ぶが、被爆地は反発する、おきまりの「同盟国を核抑止力で守る」という誓いはなかった。「いつか証言する被爆者たちの声は聞けなくなる。それでも1945年8月6日の朝の記憶を風化させてはならない」という一節は、被爆体験の次世代継承に苦心している人たちの間の合言葉。ホワイトハウスの机上で安全保障政策を練っているだけでは思いつかないはずだ。

 17分間の演説にどんな意図を込めたのか。オバマ氏訪問から約40日後の7月6日、演説草稿を書いた張本人であるオバマ氏の側近、ベン・ローズ大統領副補佐官に単独インタビューする好機を得て急きょ米国へ飛んだ。原爆投下を巡る国際法上の問題に対する認識なども含め、30分間にできる限りの問いをぶつけた(本記 http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=61356 インタビュー全文 http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=61585)。

 具体策には触れず、「核兵器なき世界」への「道徳的な目覚め」を訴える詩的な演説。オバマ氏の世界観を表しているだけでない。米側の原爆投下責任と謝罪、日本側の戦争責任、の議論の両方を回避するとともに被爆者感情への配慮もにじませる、という政治的な苦心の産物であることが伝わってきた。被爆体験証言を読み込んだことも明かしてくれた。

 ところで、ローズ氏自身にとって最も印象深かったのは何か。答えは「平和記念公園の美しさ」だった。短い滞在時間にたくさんのことに目配りする役回りだったであろうことを考えると、やむを得なかったかもしれない。むしろ、美しいものだけを見せられたという面もある。原爆資料館の本館敷地では、敷石をはがして地中に埋められた街の発掘調査が続いており、銭湯「菊の湯」などの被爆遺構が掘り返されている。オバマ氏訪問に合わせて一時的に埋め戻され、何事もなかったようにされた。

 「遺影は語る」の紙面を、インタビュー時の手土産にすべきだったと悔やんだ。

「抱擁シーン」を橋渡し 報道ぶりに複雑な思い

 国内外から大挙して訪れた報道関係者に交じって取材するのは、私にとって初めての経験だった。「ヒロシマが世界にどう伝わったか」をこれほど意識させられた機会はない。特に、演説会場に招待された被爆者の森重昭さん(79)がオバマ氏から抱擁されるシーンとの関わりにおいて―。

 私は現在、福島第1原発事故から5年に合わせた本紙連載企画「グレーゾーン 低線量被曝の影響」を担当している。4月中旬から5月上旬には米国へ出張し、疫学や放射線物理学の研究者、核実験による健康被害を訴える市民団体などを取材していた。オバマ氏の訪問の可能性が高まっていた時期だ。日本の地方紙としては手を出しにくい「空中戦」の取材に思えたが、個人的なつてを頼りに本務と並行して関連情報の収集を試みた。

 その中で5月上旬に政権関係者と会った際、「爆心地近くに10人以上の米軍のPOW(捕虜兵士)が収容されており、原爆の直撃を受けたことを知っているか」と投げかけたことから思わぬ事態をみた。

 「知らなかった」と相手が関心を見せたため、話を続けた。「原爆投下を正しかったとする世論が根強い米国では、 ・・・ログインして読む
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筆者

金崎由美(中国新聞記者)

金崎由美(中国新聞記者)(かなざき・ゆみ) 中国新聞記者

北海道登別市生まれ。1995年、北海道大学法学部を卒業し中国新聞社へ入社。岩国総局、東京支社編集部、報道部、論説委員室などを経て2014年3月から編集局ヒロシマ平和メディアセンター。被爆65年、70年の節目などに原爆平和報道の企画連載を担当。