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戦前から揺れ動いてきた近代天皇制

「おことば」が突きつけた象徴の意味

河西秀哉 神戸女学院大学准教授(歴史学)

馬車から、歓呼の声にこたえる皇太子(当時)ご夫妻=1959年4月10日、東京・渋谷区の東宮仮御所近くで馬車から、歓呼の声にこたえる皇太子(当時)ご夫妻=1959年4月10日、東京・渋谷区の東宮仮御所近くで
 8月8日に発表された「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」は、「生前退位」の意思表明という意味合いだけではなく、象徴天皇とは何なのかという問題を国民に突きつけたと思われる。このなかで天皇は、「即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました」と述べている。「象徴としての模索」。これは、これまでも繰り返し天皇が述べてきた文言である。象徴とは何であるのか。この問いは、日本国憲法が制定されたときに明確に定義されなかった。その後も、きちんとした議論がなされ、明確な答えが出されたわけではない。私たちは、「象徴」という存在を自らの期待感を込めて何となくイメージしてきた。その際、マスメディアが大きな役割を果たしたことも事実である。そこで伝えられたイメージを人々は受容してきた。本稿では、そのような象徴をめぐる歴史的状況を論じ、象徴天皇制という制度について、私たちが今後考えるための手がかりを示していきたい。

矛盾した規定を共存させた明治憲法の天皇像

 この問題を考える上では、実は前史も重要である。まず戦前の天皇制から話を始めよう。私たちは、近代天皇制が絶対主義的であり、人々を「抑圧」する体制であったとするイメージを有してはいないだろうか。もちろん、そうした側面があったことは否定できない。教育勅語や軍人勅諭に代表されるように、天皇制の絶対性が強調され、戦前の人々の意識を拘束したことは事実である。また、「国体」イデオロギーに国内が覆われ、無謀な戦争に突き進んでいったことも歴史が証明しているだろう。しかし、近代天皇制自体も非常に揺れ幅の大きいシステムで、状況によって様々な変化を遂げていた。なぜならば、大日本帝国憲法自体が天皇の性格について矛盾を持った規定を共存させていたからである。

 第1条~第3条では、天皇は「万世一系」で「神聖」にして「侵スヘカラス」として、絶対的な存在と位置づけられた。教育勅語や国家神道などの近代天皇制イデオロギーは、こうした条文から派生して成り立っていたと言ってもよい。そして、前述のような私たちのイメージはこれらの条文に起因している。こうした規定は、古代の権威を錦の御旗にして江戸幕府打倒を成功させた明治維新のイデオロギーを条文化したものであった。それまでの支配秩序であった幕府を倒すためには、より正統的な権威が必要となる。そこで薩摩や長州は古代以来の天皇の絶対性を持ち出し、それが明治政府の正統性になった。つまり、天皇の権威を確立して絶対性を強調することで、近代国家としての支配秩序を形成しようとする意図があったと言える。また、他の国家よりも優位に立つためにも、「伝統」を創出して自らの「古さ」を強調する必要があった。それが日本の場合、「伝統」に基づく天皇の絶対性の強調へと繋がっていく(高木博志『近代天皇制と古都』岩波書店、2006年など)。

 しかし一方で、天皇をそうした絶対的存在だけにもしていられなかった。西洋との接触が本格化し、近代社会に仲間入りをした日本は、西洋の国民国家システムのルールに従う必要があった。そのため国内法や政治体制を急ピッチで整備しなければならず、大日本帝国憲法もその産物の一つであったと言える。その際、君主制も西洋国民国家との互換性を持って構築されなければならなかった。それゆえ、法の規定が重要視され、大日本帝国憲法第4条に「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」と規定されたのである。それは、君主の恣意(しい)性を排除して、天皇も「機関」として憲法の規定に従うことを意味していた。それこそが西洋国民国家の政治制度そのものであり、そこへ日本が参入するためには必要な条文だったのである。

 こうして、大日本帝国憲法には天皇に関して、絶対的な条文と機関的な条文とが同居をすることになった(飛鳥井雅道『日本近代精神史の研究』京都大学学術出版会、2002年、第三部など)。そして近代天皇制は、この両者の間で、時期によって様々に揺れ動くことになる。

第1次大戦とデモクラシーの潮流 大正期に天皇制は再構築

 第1次世界大戦中からその戦後にかけて、ドイツ、オーストリア、ロシアの王室は相次いで崩壊し、世界的な君主制危機の時代へと至った。これは日本の天皇制に対しても危機感を与えていく。また、世界的な潮流となっていたデモクラシーが日本へと移入し、それに対応した天皇制への再構築が迫られた。同時期、大正天皇が病気によって最終的な統治権の総攬者としての権威を保てないなかで、君主制の危機という状況はより切実かつ緊迫した問題として捉えられた。そして天皇制が再編され、天皇の「機関」化はより進行し、政党内閣の首相が実質的な最高決定者となっていく。つまり、帝国憲法の第4条の方向に重心が置かれるようになったのである。これは、実質的な天皇の「象徴」化であった。「元首」であっても、天皇は基本的には政党内閣の政策を追認してそれに対して権威を持たせる役目にしかすぎず、内閣の政策に反対することは現実的にはなかった。この方向性をマスメディアは歓迎して報道した(河西秀哉「天皇制と現代化」『日本史研究』第582号、2011年など)。こうした大正期天皇制の記憶が、後述するように敗戦後に日本側で呼び起こされ、「象徴」と「元首」の境界が曖昧(あいまい)なまま捉えられていく要因になる。

 しかし大正期のこのシステムも、敗戦まで継続はしなかった。次第に国体イデオロギーが肥大化し、軍事的行動が引き起こされるなかで、天皇の「大元帥」イメージが拡大する。その結果、天皇の性格も帝国憲法第1条~第3条の方向へと振れ、絶対性を有する存在として捉えられていく。それゆえに第4条の機関的な「元首」という規定すらも、そうした絶対的なイメージで捉えられ、その後人々の記憶に残存したのである。後述するように1950年代に日本国憲法の改正が焦点になった時、「元首」という文言が人々から拒絶された背景には、この時期の動向があったからだろう。

敗戦後の憲法改正 象徴は明確化されず

 そして、アジア・太平洋戦争の敗戦を迎える。連合国は、日本がこれ以後再び戦争を引き起こさないように、軍国主義の除去を最重要課題としていた。そのため占領軍(GHQ)は、日本の「民主化」を徹底的に進めていく。その目玉とも言える政策が、大日本帝国憲法の改正であった。当然、日本側もそれが言い渡されることはわかっていた。それゆえ、敗戦直後からGHQの要求に先取りする形で「自主的」に憲法を改正する動きを進めていく(河西秀哉『「象徴天皇」の戦後史』講談社選書メチエ、2010年など)。日本側が当初想定していた憲法改正案は、天皇を「至尊」と位置づけ、大日本帝国憲法の第4条の方向性をより明確にするものだったと言える。つまり大正期天皇制を明文化するもので、その程度「民主化」すれば連合国も納得し、天皇制も維持できると考えたのである。

 しかしGHQはそれを認めなかった。戦争責任を厳しく追及しようとする国際世論にそれでは対応できないと考えたからである。1946年2月、GHQの最高司令官であったダグラス・マッカーサーは「天皇は、国家の最上位である。The Emperor is at the head of the state.」とする「マッカーサー三原則」を指示し、憲法改正の指針とした。大日本帝国憲法との変化を内外に示さなければならなかったマッカーサーは、おそらく実質は「象徴」化された「元首」の意味合いで指令したのではないだろうか。そしてGHQ独自に草案を作成し、それが日本国憲法の原案ともなった。こうして第1条において天皇は「象徴」と規定される。

 とはいえ、「象徴」はGHQが独自に生み出したものではなく、多くの事例を参考にしていた。例えば、憲法改正に向けて日本国内の民間のなかで作成された草案の一つに、天皇を儀礼的な性格にとどめる議論が展開されており、新たな天皇像が模索されていた。また、社会党の加藤勘十なども「象徴」の言葉を使用して天皇の性格を説明するなど、日本国憲法の水脈は日本側にたしかに存在していた(古関彰一『新憲法の誕生』中央公論社、1989年)。これも戦前に実質的に「象徴」化された天皇の経験があったがゆえだろう。こうした議論をGHQは把握し、憲法草案へと結実していった。

 GHQ側でも、戦前に駐日大使を務めた知日派のジョセフ・グルーの周辺が、すでに戦時中の1942年ごろから天皇の性格を「象徴」と認識して、その言葉をたびたび使用していた。また、マッカーサーの秘書であったボナー・フェラーズは、1945年10月にマッカーサーに提出した文書のなかで、日本国民は今後、「象徴的元首としての天皇を選ぶだろう」と述べている。フェラーズはすでに戦前から日本研究を行っており、アメリカ国内の知日派と呼ばれる人々は、その時から天皇の性格を「象徴」的なものと認識していたのである(中村政則『象徴天皇制への道』岩波新書、1989年)。ここでフェラーズが言う「象徴的元首」こそ、大正期天皇制の姿であったと考えられる。その意味では、GHQ側も日本側の当初の憲法改正案と同じような天皇制認識を有していたと言える。両者の違いは、微温的な改正に見える案では国際世論を納得させることができず天皇制という制度存続自体が危ういゆえ、より「民主化」したことを示すような改正こそが望ましいと考えていたことではないか。

 GHQ草案をベースにした日本国憲法草案がその後、国会に提出され、審議された。日本政府側は「象徴」と規定された天皇について、その具体的内容をできるだけ曖昧な形で定義づけようとした。その意図は、戦前と戦後の「国体」が変化していないことを示すものだったと思われる。つまり政府は、「象徴」という文言に天皇の位置づけが変化したとしても、その内実は大正期天皇制のようなものにしようとしていたのである。

 しかしそれを明言してしまっては、GHQや国際世論から批判を浴びる可能性がある。だからこそ、その定義に関してはできるだけ曖昧な答弁を繰り返し、制定まで持ち込んだ。それによって、「象徴」に明確な定義が与えられないままに、日本国憲法は成立し施行されることとなった。

メディアは巡幸を民主化の事例として報道

 では、日本国憲法によって天皇が「象徴」と位置づけられたことで人々の意識はどのようになったのだろうか。それは、転換した部分もあったが、戦前から継続した意識も存在したと思われる。これまで繰り返してきたように、日本政府はできるだけ戦前との断絶を曖昧にするよう試みてきた。しかし一方で、文言は「象徴」へと変化しており、その印象は強かった。そうした要素が複雑に絡み合いながら最終的に日本国憲法へと帰結したため、その解釈は多義性を含んでいく。

 まず転換した部分から見てみよう。日本国憲法制定より前となるが、1946年1月、いわゆる「人間宣言」が発表された。GHQは当初、神格化否定のためにこれを天皇から発表させ、「民主化」をアピールしようとする意図を持っていた。しかし天皇は冒頭に「五箇条の御誓文」の挿入を強く望み、結局それが叶えられる。天皇の意図は、民主主義は占領によって与えられたのではなく、明治の世からあったということを示そうとするものであった。こうして「人間宣言」の意図も曖昧化していく(河西前掲『「象徴天皇」の戦後史』)。それもあってか、当初の報道ではこの名称は使用されず、あくまで「新日本建設に関する詔書」であった。「人間宣言」という用語が定着したのは、

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