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首脳の交代で国際社会に変化の波

問われる危機吸収メカニズムの真贋

牧原出 東京大学先端科学技術研究センター教授(政治学・行政学)

 21世紀になって16年が経過し、いよいよ、20世紀の政治が過去のものとなりつつある。それは、「戦争の世紀」を象徴するあの二つの大戦の戦禍から遠く離れてしまったことを指すだけではない。ベルリンの壁の崩壊から始まった冷戦終結の後、世界に広がった民主化、あるいは中国の改革開放政策とアメリカにおけるIT化の進展が主導した経済成長の時代もまた、終わりに近づきつつあることを意味している。

リーマン危機を導火線に積み上がった不満・不平

 おそらくは2008年のリーマン金融危機が導火線であった。危機が引き起こしたバブル崩壊に伴う不良債権問題は、今なおヨーロッパの金融機関にとって足かせとなっており、以来世界的な低成長も持続している。その過程で積み上がった不満や不安が昨年、世界を驚かせた、イギリスのEU離脱を決定づけた国民投票(ブレグジット=Brexit)や、アメリカ大統領選挙でのトランプ候補の当選といった事態を生んだ。逆に言えば、これらは、大きな時代の転換の表れなのである。

 国際関係や世界経済については昨年、混乱、崩壊、移行といった様々な形容句をつけて論じられた。とりわけ、イギリスのBrexitやアメリカのトランプ当選に関しては、専門家・知識人に対して格差社会の下位にいる人たちから強い不信感を突きつけられたという背景があるため、専門家による状況分析そのものに疑問符がつけられる結果となった。

 それでも、欧米の多くの専門家や研究者は、現状に狼狽(ろうばい)しながらも、現在を語り、将来を展望しようとした。日本のヨーロッパ研究者やアメリカ研究者もまた、様々に語ろうとしてきた。だが、いまだに、なぜこれほどの認識ギャップが専門家・知識人と格差社会の下位層との間に生じたかについて、説得的な主張はないようにみえる。あえていえば、そうした認識ギャップそのものに、いまだ内外の識者が向き合っていないようにさえみえるのである。

格差社会が現出しても扇動は機能しない日本

 本稿の筆者の専門分野は日本政治である。その目から、イギリス、アメリカで昨年起きたことと比肩できる近年の日本での出来事として挙げられるのは、15年に大阪市で実施された「大阪都構想」をめぐる住民投票である。

 イギリスでEU離脱を煽った政治家たち、またアメリカの次期大統領であるトランプ氏と比べても、ひけをとらないポピュリストであった橋下徹・前大阪市長が政治生命をかけたにもかかわらず、大阪市民は大阪都構想を、Brexitやトランプ当選と同様僅差ではあったにせよ、否決した。そこではポピュリズムは機能しなかったのである。

 ここから浮かぶのは、日本でも格差社会が現出しているとはいえ、イギリスやアメリカのような形での政治家による扇動が機能してはいない現実である。現在の安倍晋三首相は扇動政治家とは言えないし、09年総選挙において民主党が大勝したのも、当時の鳩山由紀夫代表がポピュリストであったからではない。

 橋下氏をのぞけば、ポピュリズムに近い手法で圧倒的な人気を誇った政治家は、90年代の細川護煕、00年代の小泉純一郎の両首相であった。ただ、彼らはいずれも、ナショナリズムによって国民を煽ったわけではない。むしろ冷戦終結後の潮流のなかで顕在化した民主化、グローバル化をそれぞれ体現し、日本政治の旧弊を打開しようとした。だからこそ、圧倒的な人気をさらったのである。

 このようにみると、日本はすでにいやというほどポピュリズムを体験し、国民もこうした扇動には簡単には同調しなくなっている。このイギリス、アメリカとの差異は、日本国内の経済格差が両国ほど深刻ではないためであるとも言えるだろうし、90年代にバブルの崩壊を体験したため、リーマン金融危機後のそれに、耐性があったためとも言えるかもしれない。

 いずれにしても、世界の大勢とはやや一線を画しているのが、最近の日本政治である。それはまた、「安倍一強」と言われるほど盤石の基盤を持つ政権が、世界を見渡しても少ないこととも軌を一にしている。

変化の前の「心の準備」に三つのパターン考える

 そこで人びとが関心を抱くのは、トランプ氏のアメリカ大統領就任にくわえ、フランスでは大統領選挙、ドイツでも連邦議会の総選挙が行われるなど世界の首脳の顔ぶれが大きく代わる可能性がある2017年に、そうした海外の変化の波が日本にどのような形で押し寄せるのかといった見通しである。

 海外で変化があれば、その影響が日本に及ぶのは、この国がおかれた地理的環境からして、当然である。ただ、政治変動の場合は、たとえば通貨危機のように瞬時に押し寄せるものと異なり、変化はおおむね、じわじわと押し寄せてくるものと言ってよいであろう。

 とすれば、変化の波が押し寄せる前に、「心の準備」ができないだろうか。そこで考えてみたいのは、これまでの変化のパターンがどのようなものだったのかを問い直すことである。

 パターンとして第一に挙げられるのは、「競争モデル」である。これは、日本は欧米と比べて遅れているので、明治維新以降、キャッチアップするために近代化を進めたという見方を基調としている。

 第二に挙げるのは、改革か反動か、洗練か野蛮か、文明か退行か、というモデルである。ここで想起されるのは、トランプ氏の大統領選挙中の発言である。移民排斥、女性蔑視といった色彩が強い氏の発言は、グローバル化とともに世界的な潮流となった、多文化共生やフェミニズムといった「リベラル」な価値の真逆へと進むものでもある。

 第三に挙げるのは、21世紀特有の変化を追求するモデルである。その代表的なものが「フラット化」である。情報化が進むなか、国家単位で中央集権と垂直統制が強化された時代から脱し、個人や企業などの組織が、世界的な規模で水平的な協力関係を結んでいくというモデルである。

 留意するべきは、我々はともすれば、目前の混乱を前に、過去に経験したパターンを平板に捉える傾向があるということである。過去のパターンを生かすには、その奥行きを探り、より立体的に捉える必要がある。そのために有益なのは、変化が意識された当時の代表的な論説にさかのぼって検討してみることであろう。以下、三つのモデルについて、具体的に検討してみよう。

「追いつき型近代化」終え自信を失った?日本人

 まず、競争モデルである。振り返るのは、1977年に「中央公論」に掲載された佐藤誠三郎、公文俊平、村上泰亮の3氏による「脱『保革』時代の到来」である。

 これは73年の第一次石油危機後の経済・社会問題を、政策を通じて解決するため、経済学者を中心に結成された「政策構想フォーラム」の報告書として発表された「脱『保革』時代の政治ビジョン」の一部に取り入られたものである。つまり、石油危機後の「保革伯仲」の時代に、日本政治のあり方を問い直す流れの中で発表された政治構想である。3人の著者は、政治学者、あるいは経済学者であり、報告書は学際的な日本政治診断の成果でもあった。

 ここでは「追いつき型近代化」が、明治以降の日本の国家目標であったとまとめられる。欧米に追いつくという「その地位は動かし難いものであった」ため、統治者も、それに反対する者も、これについて、異議は唱えてこなかったというのである。そこでの「政治」は、「官僚を中心とする『行政』にその裁量を委任して、この一連の技術的選択を最も効率的に達成すること」であったという。

 しかし、高度経済成長を成し遂げた日本では、「追いつき型近代化」という国家目標は終了する。しかも社会に目を転ずれば、ホワイトカラー層が大量に登場するとともに、従来、労働者との間にあった身分差は意識されなくなり、「新しい中間階層」が登場した。この「新しい中間階層」こそが、政治の新しい担い手となるのである。

 この層は、現状に満足しているという点で保守性を持ちながら、公害問題などには革新的なテーマにも敏感であって、産業化を乗り越える価値観を求める「心のうずき」をも抱えている。したがって、従来のように「行政」に委任するだけではなく、争点によっては積極的に「関与」を求めるようになるというのである。

 この論説によると、将来の日本政治は、自民党などの保守勢力と社会党などの革新勢力の対立ではなく、こうした関与と委任の対立になるという。さらに、欧米への「追いつき」が終了したことで、「日本的・固有の価値」と「西洋的・普遍的価値」との対立となる、と展望した。

 当時からちょうど40年後の2017年時点でこの展望を振り返ると、「追いつき型」が終了したかにみえた1980年代を過ぎた後、バブル経済の破綻によって長期停滞に入った日本は、さらなる国際競争のなかで再び周回遅れとなったと、自らをとらえているようである。あまつさえ、一時はアメリカに次ぐ第二の経済大国であったのに、「失われた20年」で往時の勢いを失い、2010年にはGDPで中国に世界第2位の座を奪われたことで、すっかり自信を失っているようにさえみえるのである。

関与したのに裏切られた民主政権に国民の怒り

 興味深いのは、この2010年がまさに民主党政権の時代であったことである。「脱『保革』時代の到来」で将来の対立軸とされたもののうち、委任と関与の対立軸が、「官僚依存か脱官僚依存か」を掲げた09年の自民党から民主党への政権交代の結果、現れたとみることもできる。

 さらに言えば、

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