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発想を転換した法制局記録残さずの特報

前例踏襲では離れる読者、情報の目利き必要

日下部聡 毎日新聞記者

 なぜ、私は記者になったのだろう。マスコミへの就職を目指す大学生向けに、というこの原稿の依頼をいただいたのをきっかけに、改めて振り返ってみた。

 子供のころから社会科が好きだった。なぜかは分からない。小学校の真向かいが裁判所で、4年生の時に課外授業の一環で先生が法廷の傍聴に連れて行ってくれたことがある。仕事で車を運転中、人をはねて死なせてしまった実直そうな背広の男性が、判決を聞きながら震えていた。ピンと張り詰めた法廷に午後の日が差し込んでいた。

 あの情景は、30年以上たった今も目に焼き付いている。新聞やテレビで伝えられているようなことが「本当に起きているんだ」と思ったのを覚えている。

 その一方で、小学校から高校まで、学校というのは私にとって決して居心地のいい場所ではなかった。体が小さく、内向的だった私は時に「チビ」とからかわれ、いじめられかけたこともある。クラスの主導権を握るのはたいがい、運動ができて、明るくて押しの強い級友だ。そして、それに露骨に迎合する者も現れる。彼らの輪の中でいろいろなことが決められていき、それ以外の人間は、何となくそれに合わせていく。それを「同調圧力」と呼ぶのだということは、ずいぶん後になってから知った。

 集団になじめないことへの自己嫌悪と、集団に合わせなければならないことへの疑問。その葛藤に悩まされ続けた12年間だった。

取り組みたかった教育と若者の問題

 大学では、社会科好きの延長で国際関係学を選んだ。開放的な環境と友人に恵まれ、それまでの葛藤からはほとんど解放されたが、入って1年もしないうちに、授業がつまらなくなった。抽象的な理論ばかりで、エリート臭いと思ってしまったのである。カリキュラムでは英語も重視されていたが、いずれも手を抜くようになった。

 今は猛烈に反省している。逃避の言い訳だったと思う。物事を理解するためには具体論だけでなく、抽象的な思考も必要だ。そして、英語はもっと大切だ。英語を勉強する必要のない英米人をうらめしくも思うが、文句を言っても仕方がない。英語が世界の共通語になっているのは現実であり、それを使えるのと使えないのとでは、情報収集能力に圧倒的に差がつく。仕事をする中でそれに気づき、30代も半ばを過ぎてから慌てて英語を勉強し始めたのが今の私である。

 大学の授業にはあまりまじめに取り組まなかったが、新聞や雑誌の記事、ドキュメンタリー番組は面白いと思った。そして、こういう仕事をすれば、いろいろな人に出会い、いろいろな現場を目にして、自分を鍛えることができるのではないかとも思った。自分は弱い人間である、という感覚をずっと引きずっていたのだ。仕事をするなら、広く世の中の役に立つことをしたい。そんな思いもあった。そして、2年生か3年生のころには報道の仕事に就くことを考えるようになっていた。

 いくつかの新聞社や放送局の入社試験を受け、面接では「教育や若者の問題に取り組みたい」と言った。学校時代の息苦しさが頭にあったからだ。結局、就職浪人の末、毎日新聞に拾ってもらって1993年に記者になり、埼玉県の浦和(現さいたま)支局で一歩を踏み出したのだった。

空気を読む日本社会で「情報の自由」の必要性

 それから20年あまり。私が今、強い関心を抱いているのは「情報の自由」だ。入社試験で言ったこととはずいぶん違う。だが、問題意識は形を変えて自分の底を流れているように思う。

 記者生活を続ける中で、最初は教育の問題だと思っていた同調圧力は、この国のどこを切っても顔を出す根深い問題であることに気づいた。

 日本社会には「空気を読む」文化が浸透していて、多くの人は大勢の前で独自の意見を表明したり、異議を唱えたりすることをためらう。その結果、大事なことは公開の場ではなく、一部の関係者によってドアの向こう側で決められることも多い。こんな息苦しい、不透明な世の中でいいのか。もっとオープンな、風通しのいい世の中になってほしい―簡単に言うと、そういう思いがずっとある。

 「情報の自由」とは、日本ではあまりなじみのない言葉だが、欧米諸国では「Freedom of Information」という言葉が定着し、民主主義を構成する重要な概念の一つとみなされている。だから、これらの国では、日本でいう情報公開法は「情報自由法」と名付けられていることが多い。

 例えば、もし天気予報がなかったら、と考えてみる。「今日は傘がいるかな」「洗濯物は外に干せるだろうか」―私たちは日々、天気予報という情報を知ることによって状況を判断し、行動している。それがなければ、生活はものすごく不自由になるだろう。台風や大雪ともなれば、命に直結する問題になる。そんな時代が実際にあった。戦時中は軍機保護法や軍用資源秘密保護法によって気象情報が国家機密とされていたのだ。そのため、本来なら避けられた被害が拡大し、農業や漁業も大きな打撃を受けた。

 私たちは「知ること」によって初めて多くの選択肢を得て、正しい判断ができるようになる。それが自由ということだ。「知る権利」などというと、なにやら堅い響きがあって、研究者の論文のテーマか、あるいはメディアが振りかざす特権のように受け取られることすらある。だが、本当はこの国で暮らす一人一人に直接関係のある権利なのである。

 情報は権力の源泉でもある。一部の人間が情報を握れば圧倒的な力を持つ。世界の独裁国家を見れば明らかだろう。戦前の日本もそうだった。今の日本は国民が主権者なのだから、国民は十分な情報を政府と共有しなければならない。だから、情報公開法をはじめとした情報の自由を担保する制度は大切である。

 この10年くらい、そんなことを考えながら、いろいろな記事を書いてきた。

「法制局に反対意見なし」 長官の答弁に違和感持つ

 世論を二分していた安全保障関連法案が国会で審議中の2015年6月。集団的自衛権の行使を容認した憲法解釈の変更について、内閣法制局の横畠裕介長官が「法制局内に反対意見はなかった」と答弁したとのニュースをネットで目にした。

 「本当だろうか?」と思った。

 内閣法制局は日本の法律の安定性を支えてきた役所だ。政府が作る法令案を審査する「審査事務」と、内閣に法的な助言をする「意見事務」が主な役割で、審査や助言の際は、憲法や既存の法と矛盾しないかどうかを基準にしてきた。

 前身は明治時代に設置された。西欧列強に肩を並べるため、明治政府は日本が法治国家であることを示そうとしたのだという。戦前も軍部に対して一定の発言力があり、その厳格さゆえに「憲法の番人」「法の番人」と呼ばれてきた。中央省庁の中では財務省と並んで一目置かれる存在だった。

 その組織が、40年以上も維持してきた「集団的自衛権の行使は違憲」という見解を手放したのだ。内部に何の反対意見もなかったというのは不自然に思えた。あるいは彼らも、空気を読んでしまったのだろうか。内閣法制局が憲法解釈変更を検討した記録を入手すれば、何か分かるのではないか。そう考えて、情報公開法に基づく開示請求をしてみることにした。

 事前に法制局の担当者に、どんな資料があるか問い合わせると、予想外の答えが返ってきた。

 「法制局内の会議録のようなものを見たいのですが」

 「ないですね」

 「議論の過程を記録した文書はない?」

 「そうです」

 憲法解釈の変更だというのに、あまりにもずさんではないか。これはニュースだ―と思った。そもそも、2011年4月に施行された公文書管理法では、どんな省庁も内部での検討過程を公文書に残すことが定められている。公文書管理法4条にはこう書かれている。

 〈行政機関の職員は、第一条の目的の達成に資するため、当該行政機関における経緯も含めた意思決定に至る過程並びに当該行政機関の事務及び事業の実績を合理的に跡付け、又は検証することができるよう、処理に係る事案が軽微なものである場合を除き、次に掲げる事項その他の事項について、文書を作成しなければならない〉

 素直に読めば、意思決定の過程は軽微なものを除いて記録せよ、ということである。内閣法制局はこの条文に違反しているとしか思えなかった。憲法解釈の変更が「軽微なもの」とはとても考えられないからだ。

記録を残さない行為は将来の国民への背信行為

 内閣法制局や安保関連法案にかかわった政治家らに取材を進め、

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