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芸能、風俗、怪異伝承、酒場、銭湯……

考えるな、感じろで雑踏に赴く

小泉信一 朝日新聞編集委員(大衆文化担当)

 肩書は「編集委員」。そのあとに「大衆文化担当」がつく。芸能や社会風俗だけでなく日本各地に残る怪異伝承や「UMA」と呼ばれる(未確認生物も追いかけている。八丈島(東京都)に流された戦国武将など実在の「流人(るにん)」を追う連載も担当。朝日新聞デジタルでは酒場を舞台にしたコラム「さあ、もう一軒」も始めた。

 要するに、自分が面白いと思ったことを追いかけている。色物芸、放浪芸、旅芝居、演歌・昭和歌謡、酒場、キャバレー、戦後のストリップ史……。難しそうな哲学やお堅い政治問題にも「大衆」の視点で斬り込む。その傍ら、北海道・稚内から沖縄まで、全国津々浦々の盛り場や路地裏を徘徊。趣味の銭湯巡りは昨年延べ80軒を達成した。人里離れた秘境や離島にも足を運んだ。

 ここまで来ると、どこからどこまでが仕事なのか、自分でもわからなくなってしまう。まずは時計の針を14年前に戻そう。

下町の世界にどっぷり 「軌道修正できません」

 ♪セイヤ、セイヤ……

 威勢のいい掛け声とともに始まる、昭和の名曲「浅草の唄(うた)」。歌うは浅草出身のコメディアン関敬六さんである。映画「男はつらいよ」にも寅さんのテキヤ仲間ポンシュウ役として準レギュラーで出演。渥美清さんの無二の親友だった。

 その関さんが舞台に立って、自らのヒット曲でもある「浅草の唄」を歌ってくれたのは2003年9月である。場所は東京の下町、足立区の北千住。私が新聞記者になって初めて上梓したコラム集『東京下町』(創森社)の出版パーティーの会場だった。老舗グランドキャバレーを借り切って盛大に開いた。

 キャバレーと言っても誤解なきよう。ダンスができるフロアがあり、生バンドによる演奏もある。大人の立派な社交場である。

 築地の朝日新聞社からは編集局の幹部、下町からは日ごろお世話になっている朝日新聞販売所(ASA)の店主の皆さん、そして私と親しく付き合ってきた芸人や友人を招き、各テーブルには店の売れっ子ホステスさんについてもらった。参加者は総勢約100人。モノマネ歌謡ショーあり、コントありと、にぎやかで華やかな出版記念会だった。

 お土産に浅草の名物カクテル「デンキブラン」を配った。5千円の会費だけでは到底足りず、かなりの額を自腹で負担した。振り返ると、よくもまああんなことができたなあ、と思う。

 代表発起人は、のちに朝日新聞の社長になった秋山耿太郎さん(現顧問)。「朝日新聞135年の歴史の中でも、キャバレーを借り切って出版パーティーを開いた現役記者は後にも先にも君しかいないだろう」。いまも一緒に飲むと、そう言われたりする。

 『東京下町』は、私が下町の支局(東部支局)にいた頃(2000~03年)、新聞紙上に書いた企画記事やコラムなどを中心に編集したものだ。マチダネも満載。浅草のストリップ劇場で人気を博した伝説の踊り子に関する記事や、夜の水商売で働く人たちの「流転人生」も載せた。

 東京スカイツリーができる前の下町。東京で再び五輪が開催されるなんて夢のまた夢の時代だった。いま読み返してみても懐かしさがこみあげてくる。
序文にこう書いた。

〈私はこの三年間、毎晩のように路地裏で飲んだくれ、下町のディープな世界にどっぷり浸かってきました。でも困ったことに、もう軌道修正できません。『下町ワールド』の続編を求める声が、早くも私の周辺からは聞こえてきます〉

 「軌道修正できません」という言葉通り、14年後のいまもこの路線は変わらない。酒量は減ったが、相も変わらず路地裏をさまよっている。

世の片隅にいるものに限りない親近感を抱く

 フーテンの寅さんの口上にならえば、「ワタクシ生まれも育ちも川崎。東海道にある宿場町でゴザイマス」。昔は武蔵の国。いまは神奈川県に入り、東京と横浜に挟まれた、人口約150万人の政令都市である。

 「川崎」といえば、工業都市で公害やらギャンブルやら歓楽街のイメージが強いが、私が育ったのは初詣や厄よけで名高い「川崎大師」の門前町。祖父が商店街で紳士服店を営んでいた。お大師さんの境内は子どもの頃からの遊び場で、名物のくず餅やダルマを売るお店が参道に立ち並び、トントントン、と飴を切る音がいつも聞こえていた。

 旅から旅の寅さんではないが、放浪癖はすでに中学生のころに芽生え、休日になると電車に乗って、浅草や上野といった下町かいわいに向かった。渋谷で映画もよく見ていた。多摩川を挟んで隣にある蒲田も好きな町だった。

 チンドン屋の口上、ピンク映画の破れかけたポスター、モツ焼き屋から漂ってくる煙、赤ら顔のおっちゃん……。下町はやはり山の手とは違う。とりわけ人間の顔が違って見えた。しわの刻まれ方というのだろうか、存在感に圧倒された。

 高校生になると、プロレスの記事で有名なスポーツ紙を愛読するようになった。プロレス研究会も立ち上げ、文化祭で「力道山以来の日本プロレスの流れ」について発表。カセットテープレコーダーを持って水道橋の後楽園ホールに乗り込み、国際プロレスのエースだったラッシャー木村さん(故人)に「力道山をどう思うか」などインタビューをしたこともあった。いっぱしの記者気取りである。

 世の本流ではない亜流というのか、片隅にいるというのか、そうしたものに限りない親近感を抱くようになったのは、あの頃からだろう。権力に対する「反骨精神」というと聞こえはいいが、通っていた高校も学園紛争で機動隊が2度も突入したことで知られる県立高校。制服や試験は廃止され、自由すぎるほど自由な環境の中で青春期を迎えた。「反骨」の裏側には、東京と横浜という大都市に挟まれた川崎出身者の屈折した思いも反映していたのかもしれない。

入社した地方紙を退社 放浪と旅と読書の日々

 大学は1985年に卒業した。日航ジャンボ機の墜落事故があり、阪神タイガースが21年ぶりにセ・リーグ優勝を果たした年である。報道陣の前で豊田商事の会長が刺殺され、ロス疑惑の三浦和義社長が逮捕された年でもある。田中角栄元首相が脳梗塞で倒れたのもこの年だった。世の中、騒然としていた。

 私は、全国紙1紙(朝日ではない)と地方紙2紙の試験を受けた。全国紙は落ちたが、地方紙はどちらも受かり、結果的には横浜にある神奈川新聞社に就職した。

 配属先は社会部。県警記者クラブ詰めとなった。直接の上司が、のちにジャーナリストとして活躍する江川紹子さんだった。警察取材のイロハを教わったが、私はすぐ辞めてしまった。

 理由について書くのは恥ずかしいが、せっかくの人生、まだ20代なので、もう少し世の中を放浪したいという気持ちが強くなってしまったとしかいいようがない。中学時代からの放浪癖はまだ治まっていなかった。自分勝手なものである。

 親元から離れ、東京郊外のアパートで独り暮らしを始めた。警備員やベルトコンベヤーの作業員、塾の講師とアルバイト生活(今でいうフリーター)をしながら、

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