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変化のうちにある定数に着眼

変化そのものをつかむ

大澤真幸 社会学者

 今という時代を理解するためには、「今という時代」について(のみ)書いてある本を読んでもダメである。十分に長期的な視野の中で「今という時代」を位置づけている本でなくては、ポイントを捉え損なうことになる。少なくとも百年のスパンで、できることならば「人間」という類全体の歴史を視野に入れて、考えている者だけが、「今のとき」の意味を的確につかむだろう。日々の変化に追いつこうと焦ると、人は必然的に変化に遅れることになる。むしろ、変化のうちにある定数に着眼した本だけが、変化そのものを、未だ到来していない世界をも含めて、われわれに告げ知らせることができる。

資本論を念頭の大著 格差へのアプローチ

 新石器革命(農耕・牧畜などの食料生産を始めたこと)を含むホモ・サピエンスの歩みの全体の流れの中で現代を捉えた本が、近年いくつかベストセラーになった。ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』やユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』が、その代表である。両著とも、「コロンブスの卵」的な洞察を含んでいて、おもしろい。しかも、著者たちが語りの才能に恵まれていて、非常に読み易いために、浩瀚(こうかん)な書物であるにもかかわらず、そのことがまったく気にならない点でもお薦めである。だが、ここでは、私は、こうした系列に属する本―つまり1万年前後の歴史の中で現代を位置づけようとする指向を明示的にもっている本―としては、デヴィッド・グレーバーの『負債論―貨幣と暴力の5000年』を紹介したい。理論的な深度において傑出しているからだ。

 グレーバーによるこの本は、われわれはどうして、倫理的な義務と負債とを同一視するのか、という問いから始まる(例えば、誰かに対する義務を、われわれは「あいつには借りがある」等と表現する)。倫理と負債とはほんとうは同じものではないのに、われわれは倫理を負債の枠組みの中で考える習慣があるのだ。この本のねらいは、「負債」という観点から、経済という現象を根底から見直すことにある。ただし、今述べた倫理についての問題設定からも推測されるように、ここでいう経済は、商業的交換よりもずっと広い意味で、ほとんどすべての社会現象を含んでいる。大著の前半は、理論編で、経済的関係には、負債に関係する「交換」の他に、「コミュニズム」(無償の贈与のようなもの)と「ヒエラルキー」があること、人間の原初的な経済は物々交換だという神話はまったくの嘘であること等が興味深い事例を寓話のように活用しつつ、説得的に示される。

 この理論をたずさえて、後半の歴史編で、メソポタミアとかエジプトといった古代の農業帝国から現代までの5千年の経済が、基本的に、「信用としての貨幣を中心としたシステム」と「地金の貨幣を中心にしたシステム」との間の振幅という観点から、きわめて大胆に描き出される。これによると、われわれが今日営む資本主義は、15世紀の中頃、金地金の貨幣への執着が回帰してきた頃に端緒をもつ。そして、1971年、ニクソン大統領によって金・ドル交換が停止されてから、貨幣が再び金を離れ、仮想の信用へと転換し、資本主義は新しいフェーズに入っている、とされる。

 『負債論』のライバルは、マルクスの『資本論』である。その上、この本は、『資本論』と同様に、はっきりとした理論的な根拠に基づいて、つまり単なる気分の問題としてではなく、資本主義を超える―あるいは資本主義の後に来る―システムの可能性を見据えている。

 同じく『資本論』を念頭において、近現代の経済の状況を分析した著作としては、ご存知のトマ・ピケティの『21世紀の資本』がある。この本の最大の貢献は、100年、あるいは200年、ときにはそれを超えて数世紀という長期に関して、データを収集し、解析し、きわめて信頼できる根拠に基づき、われわれの資本主義社会では、格差が拡大していく傾向があることを実証したことにある。よく知られるようになった、格差拡大を説明する理論「r(資産収益率)>g(経済成長率)」に関しては、私は修正が必要だと考えているが、膨大なデータだけでも驚嘆すべきである。それまで経済学者は、データもなしに勝手に論じていたのだ。

 ついでに付け加えておけば、ピケティのこの本とブランコ・ミラノヴィッチの『大不平等』を併読するとよい。後者は、ピケティよりもずっと短いスパンの―その代わりより精度の高い―データによって、やはり格差の拡大傾向を実証しているのだが、興味深いのは、どこに格差が生じているかを示していることだ。グローバル化が加速した20世紀末期から21世紀初頭の20年間で見ると、所得増加率は、「世界最上位1%階層」と「グローバル中間層(中国、インド、東南アジア諸国の中間層)」で高く、先進国の中間層だけが低い。つまり、縦軸に所得増加率、横軸に所得分布をとったグラフは、両端が高く、真ん中が凹んだ「エレファントカーブ(象の鼻)」になる。これは、先進国の中間層(だけ)が没落感や剥奪感を抱くということを予想させる。

 ピケティもミラノヴィッチも、経済発展と格差の関係についてのこれまでの通説(クズネッツ曲線)を批判している。だが、両者ともに、資本主義そのものの否定までは考えてはいない。とはいえ、ピケティが提案する格差への対抗策、つまり資産に対するグローバルな規模の累進課税を実現するのは、資本主義そのものの揚棄と同じくらい難しそうだ。

 ピケティ(やミラノヴィッチ)の本は、経済学に限定した内容だが、もっと広く、社会と精神の総体をカバーしている考察としては、見田宗介の、そのものズバリのタイトルをもつ『現代社会の理論』がすばらしい。小著だが、それは、真に本質的な問題の核心だけをつかもうとした結果である。これによると、現代社会は、二つの「限界問題」にぶちあたっている。資源や環境の臨界という問題と貧困の問題(格差問題)である。この本は、しかし、希望の書でもある。なぜならば、これらほとんどお手上げと思われるような深刻な限界問題は、われわれがまさに現在営んでいる「情報化/消費化社会」の内的な転回を通じて克服することが可能だということを、「情報」「消費」といった概念の人間にとっての本義に立ち戻ることを通じて示しているからである。要するに、発達した情報化/消費化社会の中でわれわれが享受してきた「よきもの」(おいしい食事とかおしゃれな生活とか)を手放すことなく、二つの限界問題を乗り越えられる、というのだ。

 もっとも、この本が指している「現代社会」は、1996年までで少し古いのではないか、と気になる人もいるかもしれない。そういう人のためには、同じ著者による「現代社会はどこに向かうか(二〇一五版)」という論文と「軸の時代Ⅰ/軸の時代Ⅱ―森をめぐる思考の冒険」という覚書(どちらも「現代思想」2016年1月臨時増刊号に収録)を紹介しておこう。これらによって、『現代社会の理論』の結論が維持され、さらに発展してきたことがわかるはずだ。特に後者の覚書の思想的な構えの大きさに圧倒される。「軸の時代」というのは、ヤスパースの言葉で、ブッダや古代ギリシャ哲学や中国の諸子百家らが同時多発的に登場してきた、紀元前800年から紀元前200年くらいまでの時代を指している。見田の診断では、現在は、それに匹敵するくらい大きい思想的な転機である。

経済成長しない時代こそ権力の多元性と集権化

 『現代社会の理論』やそれに関連した見田宗介の著作は、最も原理的な思想や哲学についてのみコンパクトに書かれている。もっと実践的な政策に直結するようなかたちで、現代社会を、とりわけ経済を考えたい人には、小野善康の『成熟社会の経済学』がお薦め。従来の経済学では、「生産したものはすべて売れる」ことが、つまり需要が生産力を上回っていることが、デフォルトの設定になっていた。しかし、

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