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貧困は誰もが陥る可能性

流行りもの超え、構造解決を

雨宮処凛 作家、反貧困ネットワーク世話人

 絶滅危惧種。

 この2~3年、40代となった同世代から自らを称する言葉として聞くようになった言葉だ。

 その意味は「子どもという種を残せないから」。そう口にするのは多くが非正規、未婚の男女である。

 私が貧困問題に関わるようになったのは06年。31歳のことだ。2018年はそれからちょうど干支が一回りし、75年生まれの私は43歳になる。が、貧困が注目されるようになったこの12年間で「貧困問題」は解決されたのか? と問われれば、残念ながら答えはNOである。特に私と同世代の人々は、20歳から40歳くらいの時期が「失われた20年」ときっちり重なり、今も20歳の頃と変わらない時給で働く層も少なくない。「有効求人倍率が過去最高」などといくら報じられようとも、完全に「取り残された」感が否めない。07年に「ロスジェネ」と名付けられた当時の25~35歳は、今や35~45歳だ。

 この原稿では、貧困問題を巡るこの12年間を振り返りつつ、2018年の展望を描きたい。そこから何が見えてくるのか。ともに考える一助になれば、これほど嬉しいことはない。

 17年10月、神奈川県座間市のアパートで9人の遺体が発見され、27歳の男性が逮捕された。被害者の多くはネットに「死にたい」などと書き込んでいたと報じられている。

 貧困問題に関わる前の私は、そんな「死にたい」と訴える若者たちを取材していた。00年、25歳で物書きとなり、それから6年ほどはそんな現場にいた。

 その理由は、自分自身がリストカットやオーバードーズ(薬の過剰摂取)をしてきた「死にたい」当事者だったこと、そして00年頃のネットの普及とともに、爆発的にいわゆる「メンヘラ」(精神的な病気や生きづらさを抱える人の総称)と呼ばれる人々が可視化されてきたことだった。

 当時はよく自殺系サイト、自傷系サイトのオフ会に参加していた。参加していたのは多くが10代、20代の女性。みんなの手首には、リストカットの傷跡があった。そんな場で、弱い自分を晒せるかけがえのない友を得た人もいれば、その後、自ら命を絶った人もいた。

 そうして03年には「ネット心中」の発生が連鎖した。04年には男女7人が集団自殺したことが大きく報じられ、05年、ネット自殺による死者は91人にまで達した。

 なぜ、彼ら彼女らはこんなにも「死にたい」と口にし、自らが生きていることを「迷惑」と繰り返すのか。

 私が出会った人の死にたい背景には、様々なことがあった。親からの虐待を語る人もいたし、子どもの頃からのいじめの後遺症に悩む人もいた。正社員として入った会社がブラックで、恐ろしいほどのノルマと長時間労働で心身ともに壊された人もいたし、就職氷河期の中、「100社落ちる」ような経験をした人もいた。職場でのいじめによってうつとなり、退職した人もいた。失業から一人暮らしを維持できなくなって実家に戻り、連日、うつなどに理解のない親から「いつまでもダラダラしてないで早く働け」と責められ、親子間の対立が深刻になっている人も多くいた。

生きづらさの裏に雇用破壊

 一方で、90年代後半から00年代にかけて、急激に進んだ雇用破壊の中で、若者の多くはその皺寄せをもろに受けていた。バブルが崩壊し、就職氷河期が深刻化し、リストラの嵐が吹き荒れる中、労働環境は劣悪になり、非正規化、不安定化が進んだ。それまでの「学校を出たら就職する。就職さえすれば、とりあえず周りは認めてくれる」という構図はあっさりと崩れていた。就職などしなくても生きられる隙間は社会からどんどん奪われ、企業社会は「どんなに長時間労働をしても倒れない強靭な肉体と、どんなにパワハラを受けても病まない強靭な精神を持った即戦力」しか必要としなくなった。「生きるハードル」が、急激に上がり始めた頃。ネット心中で命を落とした若い世代の遺書には、「仕事が見つからない」などの言葉も目立った。

 周りを見渡しても、「普通に働いて生きる」ことが、異様に難しくなっている実態があちこちにあった。

 私よりふたつ年下の弟は、大学を出たもののやはり就職先がなくフリーターとなった。その後、大手家電量販店の契約社員となり、1年後には晴れて正社員になったが、「残業代は出ない」「ボーナスは出ない」「労働組合には入れない」という誓約書にサインさせられた。そうして正社員になった途端、連日17時間労働が始まった。00年代初頭のことだ。

 こりゃ死ぬな、と思った。こりゃ病むな、とも。どんなに心身ともに健康でも、心身ともに壊されるような働き方が蔓延し始めていた。正社員層がブラック労働に喘ぐ一方で、非正規層も使い捨て労働の日々に疲れ果てていた。「生きづらい」「死にたい」と口にする若者の背景に、ぼんやりと雇用破壊と貧困の問題が浮かび上がってきた。

 そうして06年、フリーター全般労働組合(フリーターでも誰でも入れる労働組合)が主催する「自由と生存のメーデー」に参加したことで、問題意識は鮮やかに整理された。

 当時は小泉政権。急激に進む雇用破壊の背景にあるグローバル化や新自由主義、それらと自殺や生きづらさの関係について、社会学者の入江公康氏が鋭く解説してくれたのだ。95年に「新時代の『日本的経営』」というレポートが現・経団連により発表されていたことも初めて知った。働く人を幹部候補生の「長期蓄積能力活用型」とスキルを持ったスペシャリストの「高度専門能力活用型」、そしていつでも使い捨てにできる激安労働力の「雇用柔軟型」の3つに分けましょう、という提言が95年になされていたのだ。

 私自身、19歳から24歳まで(94年から99年まで)フリーターで、散々「甘えている」「怠けている」とバッシングされてきた。バイトはしょっちゅう「人件費削減」などでクビになり、そのたびに「自分は誰にでもできる単純労働にすら必要とされていないのだ」と自らを責め、自殺願望に取り憑かれた。周りで自殺した人の中にも、そんな人は多かった。とにかく、90年代から急激に「若者を生きさせない」システムが全国津々浦々に張り巡らされ、何をどう頑張っても報われない層が急増していたのだ。「生きづらさ」の原因の一端がわかった気がした。

 同時に、その日初めて、日雇い派遣の仕事をしながらネットカフェなどに寝泊まりする「家なき若者」が出現していることも知った。当時はまだ「ネットカフェ難民」という言葉もない頃である。「都市の寄せ場化が進んでいる」という言葉を聞き、フリーター時代に友人と「うちら、親が死んだらホームレスだよね」と話していたことを思い出した。それから10年経ち、「最悪の予想」は同世代の一部に的中していたのだ。

若者の貧困、可視化と逆襲

 その日から、私は若者の生きづらさの背景にあった雇用破壊や貧困について、猛然と取材、執筆、活動を始めた。

 同時期、「若者の貧困」はメディアでも注目されるようになっていた。製造業派遣で働く若者の劣悪な環境や偽装請負などが大きく報じられ、06年には、私と同じ75年生まれの赤木智弘氏が「『丸山眞男』をひっぱたきたい―31歳、フリーター。希望は、戦争。」という論文を書いて注目された。また、フリーター労組や派遣ユニオン、首都圏青年ユニオンなど個人加盟できる労働組合にも多くの若者が加入するようになった。

 彼らの一部は、当時、数々の違法が野放しにされていた日雇い派遣の労働現場に潜入し、自ら働いて「グッドウィルユニオン」「フルキャストユニオン」などを結成、劣悪な労働実態を暴いていった。特にグッドウィルでは、1日あたり200円が意味不明に天引きされる「データ装備費」が大きな問題となり、交渉の結果、37億円が返還されることとなる。フリーターでも組合を作り、動けば事態は大きく変わる。このことは大きな成功体験となり、同時期から福岡や宮城、愛知などでもフリーター当事者による労働組合が多く結成されていった。「フリーターの逆襲」が始まったかに見えた。

 07年は、この国の貧困問題を広く周知させることに貢献したある団体が結成された年でもある。それは「反貧困ネットワーク」。代表は弁護士の宇都宮健児氏、事務局長は生活困窮者支援団体「もやい」の湯浅誠氏で、私は副代表に就任した(現在は、代表世話人が宇都宮氏、私は世話人)。反貧困ネットワークは労働組合やホームレス支援団体など様々な活動をする人々からなり、貧困を可視化させ、政策提言などを行なう活動を始めた。以来、反貧困ネットワークは全国各地で結成され、現在も活動を続けている。

 そんな07年、「この国の貧困はここまで来たのか」と日本中を戦慄させる事件が起きる。

 北九州・小倉で「おにぎり食べたい」というメモを残して52歳の男性が餓死したのだ。男性は糖尿病や高血圧などで働けずに生活保護を受けていたが、役所から生活保護の「辞退」を強要され、保護を廃止されていた。その3ヶ月後、遺体となって発見されたのだ。残された日記には、「生活困窮者は、はよ死ねってことか」「腹減った。オニギリ腹一杯食いたい。体重も68キロから54キロまで減った」などの言葉が残されていた。

 北九州では、05年に八幡東区で生活保護の利用を求めていた68歳の男性が餓死、06年にも門司区で56歳の男性が餓死していた。男性は足を悪くして失職し、生活保護の申請に行くものの追い返されていた。男性宅の電気、ガス、水道は止められ、死後4ヶ月後、ミイラ化した遺体となって発見されたのだ。

「過去のもの」から進行形へ

拡大年越し派遣村は貧困が自己責任でないことを広く知らしめた
 これらの餓死事件の背景には、生活保護の申請を水際ではねつける「水際作戦」があったことが注目され、北九州市は大きな非難を浴びた。一方で、「過去のもの」とされていた貧困が、人を餓死に追いつめるほどにこの国でひっそりと進行していることを知らしめた。

 しかし、08年末までは、反貧困の活動をしていても、芳しくない反応をされることが多かった。討論番組などに出れば与党議員は「自己責任」という内容の発言を繰り返した。現場を取材し、原稿を書いても「特殊なケースを大袈裟に書いているだけではないか」なんてよく言われた。その一方で、07年の流行語大賞には「ネットカフェ難民」がトップ10入りした。しかし08年末、決定的に潮目が変わった。それは日比谷公園に出現した「年越し派遣村」によってである。

 この年の秋には、リーマンショックによって派遣切りの嵐が吹き荒れていた。特に製造業派遣で働く人たちからは、「年末に契約を打ち切られるのと同時に寮を追い出される」という悲鳴があちこちから上がっていた。急遽開催されたホットラインには、「とりあえず東京に行って仕事を探す」という声が愛知などから多く寄せられた。しかし、年末に上京しても仕事などすぐには見つからない。もし東京で所持金が尽きれば、年末年始は役所が閉まっているため、生活保護の申請をして緊急的に施設などに入ることもできない。ということは、年末年始の東京で、住む場所も仕事も所持金もなくした人が大量に路頭に迷う可能性がある。待っているのは最悪、凍死だ。

 年越し派遣村は、そんな懸念から08年末から09年明けにかけて、日比谷公園で開催された。「村長」となったのは湯浅誠氏。反貧困ネットワークメンバーや労働組合などが年末年始の休みを返上し、ボランティアとして動くこととなった。が、当初は、「本当に人が来るのか」という不安の方が大きかった。なんだかんだ言っても、みんな地元に帰ったり、頼る人がいたりして、極寒の野外の公園のテントしか行き場所がない人なんていないのではないか―。

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筆者

雨宮処凛

雨宮処凛(あまみや・かりん) 作家、反貧困ネットワーク世話人

1975年、北海道生まれ。フリーターなどを経て2000年、半生をつづった『生き地獄天国』(太田出版、ちくま文庫)で作家デビュー。フリーターや派遣社員、若年ホームレスなどを取材した『生きさせろ!~難民化する若者たち』(太田出版、ちくま文庫)で、08年の日本ジャーナリスト会議賞受賞。『一億総貧困時代』『女子と貧困』など著書多数。