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戦争に対する反省と人々との近さ

メディアと作り上げた平成流天皇

河西秀哉 神戸女学院大学准教授

拡大即位後朝見の儀でお言葉を述べる天皇陛下、右は皇后さま=1989年1月9日、皇居・正殿松の間
 本稿に与えられたテーマは、平成の天皇と皇室についてである。現在、象徴天皇制は安定し、マスメディアでは天皇の取り組みは「平成流」と高く評価され、人々からも高い支持を得ているように見える。例えば、2017年7月に『朝日新聞』が実施した世論調査において、「次にあげるイメージのうち、あなたは、どれが最も理想に近い天皇の姿だと思いますか」という質問に対し、「国民への思いやりがある」が65%、「親しみがある」が16%、「権威がある」が10%、「神秘性がある」が5%という回答結果であった(『朝日新聞』2017年7月23日)。人々に対する「思いやり」を持つ天皇、というのが現在の象徴天皇制の理想像として捉えられていることがわかる。またこの調査で興味深いのは、10代・20代などの比較的若い世代が「権威がある」「神秘性がある」と回答する率が他の世代よりも高い点である。平成のみを経験してきた世代にとって、天皇とはこうあるべきとイメージされるのだろうか。ただしこれは平成に一貫した現象ではなかった。時代状況に応じて変化し、現在に至っている。本稿ではその点を論じていきたい。

 1989年1月7日、昭和天皇の死去を受けて明仁皇太子は天皇に即位し、翌日には元号が平成となった。明仁天皇は即位後の朝見の儀において、「国民とともに」「世界の平和」という文言の入った「おことば」を「です・ます調」で発表する。特に、「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い」と述べたことは、戦後日本社会を天皇が肯定し、自身の存在や地位が憲法に規定されていることを強調したものであった。これによって、天皇制・時代が変わったという印象を人々に与えた。

 また、その年の8月の記者会見の中でも明仁天皇は「憲法に定められた天皇の在り方を念頭に置き、天皇の務めを果たしていきたいと思っております」「現代にふさわしい皇室の在り方を求めていきたいと思っております」と述べた。日本国憲法とともに自身があること、現代に応じた新しい皇室像を模索することを提起している。昭和天皇の病気中の「自粛」騒動は社会に停滞をもたらすとともに、天皇制の権威を人々に実感させる出来事でもあった。明仁天皇自身がそこからの変化を促したとも考えられる。こうした姿勢が人々との関係性をより重視した「開かれた皇室」と言われ、大きく取りあげられた。

 そして、この路線をマスメディアも人々も歓迎した。『読売新聞』が実施した世論調査によれば、明仁天皇の言葉や振る舞いへの評価は、「非常に」と「多少は」を合わせ「好感を持っている」は67%、「あまり」と「全く」を合わせて「好感を持っていない」は6%、「関心がない」は24%。3分の2の人々は好感を持って見ていた(『読売新聞』1989年3月11日)。その意味では、この時期の天皇・皇室は、先の『朝日新聞』の世論調査の項目で言えば、「親しみがある」が最もイメージされる像であり、現在の「国民への思いやりがある」とは異なる天皇像が意識されていた。NHKが5年ごとに実施している「日本人の意識調査」においても、昭和の時代は天皇に対して「特に何とも感じていない」との回答が40%台後半、「好感をもっている」との回答が20%代前半であったが、平成に入って初めての調査(1993年)では「好感をもっている」が43%、「特に何とも感じていない」が34%で、その順位は逆転している(NHK放送文化研究所HPより)。平成の初期、明仁天皇の即位後の言動は、新しい皇室像として好感を持って捉えられ、人々の支持を得ていた。

原型は皇太子時代から

 では、明仁天皇の言動は天皇になってから思考されたものだったのだろうか。そうではない。それは、皇太子時代から次第に形成されてきたものだと思われる。1951年、講和独立を目前に「新生日本」が国内で叫ばれている中、明仁皇太子は成人を迎える(皇室典範第22条から天皇、皇太子及び皇太孫の成人は18歳)。日本の国家としての再出発と青年としての皇太子の出発がシンクロし、戦争の影を感じさせない皇太子の人気は日本国内で大いに広がった。その後、様々な曲折を経て、「平民」出身の正田美智子との婚約が1958年に発表される。日本国憲法の理念に合致した「恋愛」結婚として、マスメディアや人々の熱狂的な支持を集め、ミッチー・ブームが巻き起こった(河西秀哉『天皇制と民主主義の昭和史』人文書院、2018年)。しかし、こうした人気はブームとして広がったがゆえに反動も大きかった。次第にメディアの中から皇太子や皇太子妃への飽きや批判も出始め、人々も徐々に冷めていく。皇太子夫妻はその中で、自身の存在やあり方を模索し始めるようになる。福祉への積極的な取り組み、外国訪問の中で戦争の記憶に触れるなど、その後に「平成流」として認識される行動の原型は、この皇太子時代に始められたものであった。また、美智子妃の思想や行動が次第に皇太子へ影響していったことも、こうした模索に大きな意味を持った。人々との関係性を重要視していくのは、まさに美智子妃との協同で形成された思考であった(河西秀哉「美智子皇后論」吉田裕・瀬畑源・河西秀哉編『平成の天皇制とは何か』岩波書店、2017年)。

 昭和天皇は長く在位していたこともあり、明仁皇太子は長く皇太子としての立場にあり続けた。皇太子という立場は日本国憲法や皇室典範において具体的な公務が規定されているわけではない。それゆえ、明仁皇太子は長い皇太子の時代に自身の存在やあり方、公務について模索をし、象徴とは何か、天皇とは何かを考えていく(とはいえ、マスメディアはこうした問題をそれほど大きくは取りあげなかった。天皇に続く皇太子という立場ゆえだろうか、または天皇制に対する人々の関心が昭和の後半は低くなっていたがゆえだろうか)。皇太子はその模索の中で過去の天皇の事績についても学び、「天皇が国民の象徴であるというあり方が、理想的」「天皇は政治を動かす立場になく、伝統的に国民と苦楽をともにするという精神的立場に立っています」と述べていた(『読売新聞』1986年5月26日)。歴代の天皇の姿を具体的に参照しつつ、それこそが象徴という立場に一致していると見ていたのである。そして、人々との関係性は「苦楽をともにする」ことだと述べた。こうした考え方が、天皇に即位した時の言葉となって結実したのだろう。皇太子時代より模索し、天皇制の歴史を学び考えたことが、天皇となった時に人々との関係性として言及されたのである。こうした思考が天皇になっても継続していった。

戦後初めて被災地を訪問

 そして、こうした「苦楽をともにする」代表的な行動が、被災者への見舞いだろう。それが最初にマスメディアや人々に注目されたのは、1991年7月の長崎県雲仙普賢岳噴火被災者への見舞いの時であった。災害が継続している最中に天皇が被災者を直接見舞うのは、戦後初めてである。それまでは復興後に訪問するのが通例であった。天皇は防災服などの簡素な姿で避難所を訪問、奉迎行事も行われず警備も最小限にとどまった。そして天皇皇后は膝を突き、被災者一人一人に目線を合わせ、声をかけた。

 こうした被災地への見舞いは、「開かれた皇室」路線の一環と認識されていく。その姿は大々的に報道された。その後も平成に入ってからの日本は多くの自然災害に直面しており、被災者への見舞いは天皇制がそれまでとは異なり、新しくなったことを示す取り組みとなった。天皇皇后は、1993年7月には北海道南西沖地震の被災地である奥尻島を被災者への見舞いのために訪問、1995年1月17日に起こった阪神・淡路大震災では関係省庁の大臣や官僚、県の担当者から内奏・説明を受けて被害状況などの把握に努めるとともに、31日には兵庫県を訪問して被災者を見舞い、ボランティアなどを激励した。この年は地下鉄サリン事件など多くの世情不安な出来事が頻発する時期であって、天皇皇后の見舞いは被災者への「癒やし」として歓迎されていくことになる。天皇皇后もそれに応えた。重要なのは、災害が起こった後に一度行くだけではなく、再び出向きその後の復興状況を確認して人々を励ました点であろう。マスメディアはこれを大きく報道する。これによって、人々のことを気にかけている天皇像がより印象づけられていった。

皇室外交で見せる「強い意向」

 明仁天皇は対外的にも、皇太子時代に引き続いて行動をしていく。天皇になっても積極的な皇室外交を展開し、その訪問ペースは平成の初期のころなどはかなり早かった。昭和天皇が天皇の時には2回の外遊しか行っていなかったことから考えれば、これも象徴天皇制が新しくなったと印象づけることにつながった。天皇はそうした訪問国や日本での歓迎の席で「おことば」を発した。その中で、アジア・太平洋戦争の記憶に関する問題や平和の問題にも触れている。「おことば」の原案は外務省内で作成されるが政府内でも検討され、宮内庁を経て最終的には天皇が筆を入れるため、そこに明仁天皇の意思が入ることがある。1990年5月に盧泰愚韓国大統領が訪日した際に発した「おことば」において、過去の日韓の歴史に言及しながら「痛惜の念」という言葉を述べたが、これは天皇の強い意向であったという(『読売新聞』2017年12月30日)。昭和天皇は1984年に全斗煥韓国大統領が訪日した際に「遺憾」という「おことば」を述べたが、明仁天皇はより責任を明確にした言葉を述べることを望み、それが反映されたのである。外交という高度な政治的場において発せられる「おことば」に天皇の意思が影響する意味は大きいだろう。

 1992年10月には天皇皇后は初めて中国を訪問した。これは、天安門事件が起き中国政府に対する国際世論の評価が厳しい中で行われた訪中であった。この1990年代初頭、日中関係はかなり冷え込んでいた。戦時中の中国人強制連行への補償問題や慰安婦問題が取り上げられ、尖閣諸島などの領土問題も起きていた。日本国内においては、そうした動きを見せる中国に対する反発は大きかった。こうした状況もあり、保守層の中では天皇が中国を訪問し戦争責任について「謝罪」するのではないかという懸念が高まって、反対運動まで展開された。天皇は訪問の際、「両国の関係の永きにわたる歴史において、我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります」との「おことば」を発した。これは外務省内で原案を作成し、最終的には天皇が修正を加えたものであった。このように、「おことば」においてアジア・太平洋戦争に関する記憶を表明する天皇の姿が定着していく。

保守派からの美智子皇后批判

拡大1993年10月20日の朝日新聞夕刊1面
 こうした平成の「開かれた皇室」は必ずしも順調に進み、今日に至ったわけではない。反発もあった。この路線を主導しているのは美智子皇后だと認識され、即位直後から、メディアの中では美智子皇后が新しい方向性を打ち出していると報道されている。美智子皇后は平成の新しい「開かれた皇室」路線の象徴と認識されていた。それゆえに、保守派の中から美智子皇后への批判が高まっていく。1993年、『宝島30』8月号に「皇室の危機」という論文が掲載され、明仁天皇と美智子皇后が進める「開かれた皇室」路線に対しては批判的な態度が示された。ほぼ同時期に『週刊文春』も同様の記事を掲載、その後も美智子皇后バッシング報道のキャンペーンが展開されていく。いずれも、皇室内における美智子皇后の権力の強さを強調するもので、その振る舞いに苦言を呈する内容であった。そして昭和天皇時代の皇室を理想化し、「開かれた皇室」路線を批判する。しかし明仁天皇への批判は基本的にはない。天皇という立場上、批判できなかったからではないか。それゆえ、「開かれた皇室」路線の象徴と見られていた美智子皇后を批判し、それに歯止めをかけようとしていたのである。

 それに対して、美智子皇后も ・・・ログインして読む
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筆者

河西秀哉

河西秀哉(かわにし・ひでや) 神戸女学院大学准教授

1977年生まれ。名古屋大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(歴史学)。著書に『「象徴天皇」の戦後史』(講談社選書メチエ)、『明仁天皇と戦後日本』(洋泉社歴史新書y)、編著に『戦後史のなかの象徴天皇制』(吉田書店)など。