メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

RSS

国に強制された不妊手術

自由奪われた被害者の苦悩

大橋由香子 フリーライター・編集者、非常勤講師

拡大旧優生保護法による強制不妊手術について、国に損害賠償を求めて仙台地裁に入る原告側の弁護士と支援者たち=2018年1月30日午前、仙台市青葉区
 2018年1月30日、旧優生保護法による強制不妊手術を受けたとして、全国で初めて、宮城県内に住む佐藤由美さん(仮名)が国家賠償請求訴訟を仙台地方裁判所に起こした(写真)。これをきっかけに、メディアは優生保護法における不妊手術(=優生手術)について次々と報道し、独自の調査も始めた。

 その勢いに押されるような形で、これまで野党議員しか取り組まなかったこの問題について、3月6日に自民党・尾辻秀久議員を会長に超党派の議員連盟ができた。3月末には与党もワーキングチームを作り、厚労省も地方自治体に対して資料保全を依頼、関連する資料について問い合わせている。

 5月17日には、札幌、仙台、東京で3人が訴訟を起こした。

 被害者への謝罪と補償に向けて、ようやく動きが出てきた今、優生保護法の問題点、不妊手術による被害の実態、同法廃止から20年余り過ぎた今になって大きな注目を集めはじめた背景について紹介し、今後の課題について考えたい。

由美さんの場合

手術理由への疑念

 1月に裁判を起こした佐藤由美さんの場合、中学3年生で15歳だった1972年12月に、開腹して卵管を縛る不妊手術を地元の病院で受け、約1週間入院した。その根拠が優生保護法だった。

 優生保護法は1948年、戦後の人口増加により食糧不足が起き、人口抑制策が必要とされる中、民族の「逆淘汰」を防ぐため制定された。第1条には「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護する」とあり、この目的のために「生殖腺を除去することなしに、生殖を不能にする」(第2条1)優生手術の手続きが定められている。

 優生手術は三つの条項で行われた。

 第3条:本人と配偶者の同意があるときの、医師の認定による優生手術。その中で第1項1、2号が遺伝性の身体・精神疾患、3号がハンセン病、4、5号は分娩が母体の生命危機や健康低下を及ぼすもの。

 第4条:「別表」に掲げた遺伝性疾患をもつ人に対し、公益上必要と認めるとき、医師が都道府県優生保護審査会に申請し、審査の結果によるもの。

 第12条:遺伝性でない精神病や精神薄弱の人に対し、保護義務者の同意と審査会の審査によるもの(52年改正での追加項目)。

 そして第4条の施行にあたっては「本人の意見に反してもこれを行うことができる…強制の方法は…真にやむを得ない限度において身体の拘束、麻酔薬施用又は欺罔(ぎもう)等の手段を用いることも許される」(53年6月12日厚生省発第150号厚生事務次官通知、最終改正90年3月20日厚生省発健医第55号)という通達が出ている。欺罔とは、だますという意味だ。

 このように第4条と第12条は本人の同意を必要としない「強制的な」不妊手術であり、国の統計では1万6475人(4条1万4566人、12条1909人)にのぼり、約7割が女性だった。年齢別では20歳未満が2300人以上いる。また、都道府県別で多いのは北海道2593人、宮城1406人、岡山845人、大分663人、大阪625人の順になっている。

 「同意に基づく」とされた第3条も、ハンセン病患者が結婚する条件として強要されたように、真の意味で「同意」と言えないケースが多々ある。第3条の第1項1、2号が6965人、3号のハンセン病が1551人。先述の第4条、第12条と合わせると、統計で分かっているだけでも2万4991人が納得していない優生手術をされたと言える。

 ナチス断種法に影響されたと言われる戦争中の国民優生法(1940年成立)の対象は、遺伝性のみだった。それに対して優生保護法は、ハンセン病患者に加え、第12条で遺伝性ではない精神疾患も対象にしている。戦後民主主義の時代の優生保護法のほうが、国民優生法より優生思想が強化されているのだ。

 佐藤由美さんの場合は、第4条が適用され、優生手術台帳には「遺伝性精神薄弱」と記されていた。ところが、由美さんの知的障害は遺伝性ではなく、1歳を過ぎた頃、口蓋裂を手術した麻酔の後遺症で、療育手帳にも「遺伝性マイナス」と記されている。第4条を適用するために「遺伝性」としたのではないかという疑念がわく。由美さんは手術を受けてからすでに46年、60代になった。

ひっそりと法律改定

 優生保護法は96年まで存在し続けた。今から見れば人権侵害とも言える法律が、なぜ半世紀近く存在し続けたのだろうか。

 優生保護法に関しては、70年代と82年に新聞を賑わしたことがあるが、主に刑法の堕胎罪の例外規定である人工妊娠中絶の許可条件をめぐる問題だった。

 94年にカイロで開かれた国際人口開発会議のNGOフォーラムでは、障害をもつ女性が優生保護法の差別性をアピールし、海外メディアが大きく報じた。95年の北京世界女性会議では、女性たちがワークショップ「優生保護法ってなに?」を開催。国際社会からの批判や障害者差別禁止の動きを受けて、96年、国は優生的な条項を優生保護法から削除し、母体保護法へ改定した。

 だが、改定の際、国会での審議は全くなかった。どこがどのように障害者差別なのか、優生手術の実態調査や、被害者への謝罪や補償など、議論すべきことはたくさんあったはずだ。なぜこの法律を変えるのか、政府は国民に向けて何の説明もしなかった。「時代遅れ」になった優生保護法を、ひっそりと闇に葬るような法改定だった。

 報道機関も、96年4月のらい予防法廃止に比べると、優生保護法改定についてはあまり取り上げなかった。そして9月、母体保護法が施行された。

 それから約1年後の97年8月末、新聞各紙は「スウェーデンで強制的な不妊手術」というニュースを報じる。福祉国家として有名なスウェーデンで、35年から75年まで、6万3千人に強制的な不妊手術が行われたという。だが、前年まで日本に存在していた優生保護法への言及は、ほとんどなかった。

 自国の出来事に無頓着な日本の報道に衝撃を受けた女性団体など17のグループが97年9月16日、厚生省に要望書を提出。(1)優生保護法のもとで強制的に不妊手術された人、「不良な生命」と規定された人々への謝罪と補償(2)実態検証のための特別調査委員会設置(3)優生保護法も禁じている子宮摘出事例の調査と被害者救済―を求めた。

 当時の厚生省母子保健課(精神保健課から管轄が変わったばかり)の課長補佐は「優生保護法のもとでは、優生手術は合法であった。現代社会にそぐわない法であったとしても、すでに改正がなされている」と回答。法改定をしたから何もする必要はない、謝罪も補償も実態調査の予定もないということだった。

淳子さんの場合

虐待のなか知能検査

 そこで、要望書を出した有志が97年9月、「強制不妊手術に対する謝罪を求める会」(99年に「優生手術に対する謝罪を求める会」に名称変更。以下「求める会」と表記)を結成し、被害者ホットラインを実施した。そこに、当時51歳の飯塚淳子さん(仮名)から電話がかかってきた。

 飯塚さんの父は病弱で働けないため生活保護を受けていた。飯塚さんは長女で弟妹が6人いたため、母の行商の仕事を手伝ったり子守をしたりで学校を休むこともあった。地元の中学に通い、卒業まであと1年というとき、児童相談所で知能検査を受けさせられ、仙台市にある開所したばかりの軽度知的障害児入所施設・小松島学園に入所。女子棟で生活し、敷地内で授業を受けた。

 民生委員によって、飯塚さんが盗みをしたなどとウソの報告がなされ、施設入所の根拠の一つにされたのではないかと思われる。後年、飯塚さんは地元中学の担任教師から「施設入所は、民生委員が積極的に事を運んだ」という証言を得ている。

 中学卒業後は、知的障害者を預かって指導訓練をする「職親」の家で住み込みのお手伝いをした。「バカだから、それ以上食べるともっとバカになる」などの暴言を受け、食事も衣服も満足に与えられなかった。あまりの辛さに、一度、職親の家から逃げたことがあったが、お金を持っていないために行く場所がなく、連れ戻された。

 62(昭和37)年、社会福祉事務所から宮城県精神薄弱者更生相談所に判定が依頼される。虐待を受けて頭が混乱している中、飯塚さんは知能検査を受けさせられた。63年1月、「精神薄弱者、優生手術の必要を認められる」との判定を受けた。

 そして、63年冬のある日、職親の奥さんに「出かけるからついておいで」と言われ、広瀬川にかかる愛宕橋を渡ったところのイスで、おにぎりを食べさせられたあと、病院に連れていかれた。

父はハンコをつかされた

 「病院には他にも女の子がいました。ずっと会ってなかった父もいました。何の説明もなく、手術をされました。目が覚めたとき、『水を飲んだらダメ』と言われたことだけ覚えています」

 退院後は実家に戻った。両親の会話から、自分がされたのは、子どもが産まれなくなる手術だと知った。父親は、民生委員や職親に「ハンコを押せ」と何度も責め立てられ、仕方なく押したという。

 飯塚さんが手術をされた病院は、宮城県中央優生保護相談所附属診療所(愛宕診療所)。62年に開設され、一般外来は受け付けず、第4条と第12条による優生手術のみを行い、72年に閉鎖された。

 優生保護法が実施されていく過程で、厚生省が優生手術の件数を増やすこと、予算を消化することを自治体に指導し、各都道府県が件数を競うという現象が見られた。福祉の名のもとに、障害や病気を持つ人は「不良な子孫」とされ、「不幸な子ども」が増えないようにと不妊手術が推進されていった。

 飯塚さんが手術された診療所所長の長瀬秀雄医師も、64年11月に静岡市で開催された「第9回家族計画普及全国大会」において、「人口資質の劣化を防ぐため精薄者を主な対象とした優生手術を強力に進めて」いると述べていた(「宮城県における家族計画事業」『第9回家族計画普及全国大会資料』)。

 厚生省の統計を見てみよう。飯塚さんが診療所で手術された63年、第4条による優生手術件数は全国626人で、宮城県が114人。他の都道府県は2桁か1桁の数字の中、宮城県の多さが際立っている。この年の全国626人中、女性が510人、男性が116人。この510人の中に飯塚さんも含まれていると推察される。

 だが、飯塚さんが宮城県に情報開示請求をしたところ、63年分だけ、優生保護審査会の決定書類や優生手術台帳が廃棄されていたという不可解な回答が99年になされている。その前後の年は存在しているのに。

「調査も謝罪も行わない」

 99年10月16日、東京でシンポジウム「あれから三年『優生保護法』は変わったけれど」が、「求める会」主催で開かれた。飯塚さんは多くの人の前で初めてマイクを持ち、体験を語った。翌々日の10月18日には、求める会メンバーとともに、厚生省母子保健課の課長補佐との交渉にも初めて参加し、次のように発言した。

 「親の生活苦から始まって、民生委員や職親によって手術をされました。すごく悔しいです。若いときに戻りたいです。(優生保護法という)間違った法律で、いい加減に片付けられたんです。毎日ほんとうに死ぬ思いで泣きながら生活しています。生理のときは、ころげまわるほどの痛さに変わりました。仕事するうえでも、からだが疲れるようになりました。それまでは健康そのものだったんですよ。厚生省の人に謝ってほしいんです。私の人生を返してください。自分だったらどうかという立場で考えてください。なにか言っていただけますか」

 これに対して厚生省の担当者は「法律に基づいて実施されてきたことでありまして、そういったものについて調査を行う予定はございません」と述べた。

 飯塚さんは「それはおかしいと思いますよ。私の場合は、 ・・・ログインして読む
(残り:約5188文字/本文:約10057文字)

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。
Journalismの記事も読めるのは全ジャンルパックだけ!


筆者

大橋由香子

大橋由香子(おおはし・ゆかこ) フリーライター・編集者、非常勤講師

1959年、東京都生まれ。上智大学文学部卒。出版社勤務を経て現職。著書に『からだの気持ちをきいてみよう』(ユック舎)、『同時通訳者 鳥飼玖美子』(理論社)、『満心愛の人 益富鴬子と古謝トヨ子—フィリピン引き揚げ孤児と育ての親』(インパクト出版会)など。共編著に『働く/働かない/フェミニズム』(青弓社)、『キャリア出産という選択』(双葉社)、『福島原発事故と女たち』(梨の木舎)、『異文化から学ぶ文章表現塾』(新水社)など。