憂う官僚、忖度や萎縮
2018年06月27日
わたしが2010年に書いた『「官僚」がよくわかる本』(アスコムBOOKS)は、政治家と官僚の間がぎくしゃくしていた民主党政権時代の頃のものだ。小泉純一郎政権以来の自民党流「政治主導」とは違う新しい「政治主導」を目指した民主党は、官僚に仕事を任せようとせず細かいところにまで口を出しては役所との関係を悪化させていった。
わたしは政権交代に期待していたし、鳩山由紀夫首相の「新しい公共」、東アジア共同体、対米従属からの脱却といった大胆な政策にも夢を抱いた。首相官邸に設置された「新しい公共」円卓会議のメンバーなど、政権のお手伝いをしたほどである。しかし一方で、鳩山内閣の閣僚たちの官僚への接し方については危惧の念を拭えなかった。
政権発足早々、事務次官会議の廃止を打ち出したのは霞が関に衝撃を与えた。同時に内閣官房に「国家戦略室」が設置され、税財政の骨格、経済運営の基本方針その他内閣の重要政策に関する基本的な方針などのうち、内閣総理大臣から特に命ぜられたもの(特命事項)に関して企画及び立案並びに総合調整を行うものとした。さらに、各省庁においては大臣、副大臣、政務官の政務三役の権限を強めて意思決定を政治家が主導して行うことを徹底しようとする。あまりに性急な変革であり、官僚たちは戸惑うばかりだった。
それに輪をかけたのは、与野党の政権交代であったために政治家として政府内部に入った経験のない政務三役ばかりだった点である。いわゆる「各省庁」である総務、法務、外務、財務、文部科学、厚生労働、農林水産、経済産業、国土交通、環境、防衛、国家公安委員会(警察)の12省庁大臣のうち、大臣経験があったのは、細川内閣、羽田内閣で大蔵大臣を務めた藤井裕久財務大臣ら2人だけだった。
そんな状態の下、財務省を除く各省庁は大なり小なり混乱した。ある省では政務三役が仕事を抱え込み、事務次官以下の官僚たちは重要な情報にアクセスできないという有り様だったといわれる。また別の省では、官僚をむやみに敵視する政務三役に悩まされたという。政務三役たちの多くは各省庁の仕事をすべて「既得権益」と決めつけ、官僚は省益のためにしか働かないと思い込んでいた。
こんな程度の認識の政治家が官房長官なのだから、各省庁と官邸との意思疎通がうまくいくはずがない。鳩山首相は普天間基地移設問題などで退陣するが、移設問題や対米外交失敗の原因は防衛省や外務省の官僚の妨害に遭ったのかもしれないと回想している。
『「官僚」がよくわかる本』は、こうした中で次の菅直人政権が発足した頃、民主党政権と官僚との良好な関係づくりを願って書いたものだ。そこでわたしは、国民、政治家、官僚の三者関係を、犬の飼い主、ドッグトレーナー、犬に例えている。昔から役人は「権力の犬」呼ばわりをされてきたゆえの例えだが、競走馬の馬主、調教師、馬にした方が、もっとわかりやすいかもしれない。
すなわち、犬の「ご主人様」は飼い主だ。憲法15条2項にあるように公務員は全体(国民)の奉仕者であることを求められる。政治家は官僚の「ご主人様」ではない。政治家も公務員であり、国民を「ご主人様」として仕える公僕である。ただ、国民は直接官僚に命令できないから、犬をドッグトレーナーに預けるように、自分たちが選挙で選んだ政治家に官僚を使う権限を与え、飼い主に利益をもたらすように働かせるという図式になる。
さまざまな形で「官僚叩き」をすることで国民の歓心を買おうとした政権交代前の自民党政権は、犬だけを悪者にして自身の怠慢を誤魔化したドッグトレーナーだった。民主党政権は、政務三役というチームで役所つまり犬小屋に乗り込み、犬にやらせるべき仕事まで自らこなして働く。官僚が働くと、自分たち政治家がやろうとしている理想をねじ曲げて別の方向に持って行くのではないかと疑っているかのようだ。
ドッグトレーナーたる者、当然犬への愛情を持たなければならない。愛情が大げさなら共感だ。ドッグトレーナーも犬も、共に公務員として国民の期待に応えるべきなのだから、そこには少なくとも共感があるべきだろう。戦後まもなく、文部省(当時)でいうなら学校教育法や社会教育法など新しい民主主義社会の基礎となる法律を作っていった頃には、大臣と官僚が一丸となって働いた話が伝えられている。
いや、そこまで遡らなくても、官僚叩きが始まる前の1990年代、わたしが課長になって大臣とも直接ご一緒する立場になった時期の体験からすると、大臣はわれわれ官僚に十分な共感を持って接してくれた。鳩山邦夫大臣と取り組んだ業者テストによる「偏差値輪切り」の廃止、森山真弓大臣との専門高校活性化、小杉隆大臣との神戸の連続児童殺傷事件対応、町村信孝大臣、大島理森大臣との「ゆとり教育」推進……。
しかし、民主党政権は良いドッグトレーナーになれぬまま終わってしまう。東日本大震災、原発事故という想定外の大災害に見舞われたこともあり、最後まで官僚との間に信頼関係を築けなかった。国家戦略室は、法律に基づく国家戦略局に昇格することができずに瓦解する。官僚たちは、思いつき先行で右往左往するかに見えた民主党政権に失望し、大方が自民党政権復活を歓迎していたようだ。わたしとしては「新しい公共」の実現が果たせず残念だったが、当事者である現役官僚の皆さんとしては、これでやっと霞が関がまともな状態に戻るという思いが本音だったのだろう。
あれから5年半、今は「まともな状態」と言えるのだろうか。わたしには、到底そうとは思えない。森友学園、加計学園、防衛省日報、厚労省データ捏造、さらには財務省事務次官セクハラと、問題や疑惑が次々と湧いてくる。国有地の不当な払い下げ、決裁文書の改竄、会計検査院検査に対する資料糊塗、公文書の杜撰な管理、データの捏造、高級幹部のセクハラ、どれをとっても従来の官僚社会の常識では考えられないものであり、法令に違反する疑いすらある。財務省が公に認めた決裁文書改竄では、それに関連して自殺者まで出ているではないか。
おそらく、まっとうな官僚なら誰しもが憂えていることだろう。だが、それを口に出す者はなかなかいない。疑惑の発端となる資料をマスコミに提供した何人かの勇気ある現役官僚が、文科省、防衛省、財務省、農水省などに存在するらしいのは救いだが、彼らとて実名では声をあげられない。個人的には、嘆く声を多く聞いているのだが。
まして幹部になればなるほど、自身の思いを押し殺さなければならない。財務省の佐川宣寿前国税庁長官、経産省の柳瀬唯夫経済産業審議官のように国会の場で国民から失笑を買う発言をせざるを得ない立場に追い込まれなくても、各省庁幹部の国会答弁や野党への説明はしどろもどろのものも少なくない。何より当人が情けない気持ちだろう。
そして一方で、官邸の意に沿わない高級官僚には人事の面で厳しい処遇が次々となされるようになる。わたしの承知するだけでも、ふるさと納税の拡大について反対した総務省の局長がこの制度を推進してきた菅官房長官から昇格取りやめの憂き目に遭った話、農水省で農協改革への積極的取り組みを評価されて官邸から任用された奥原正明事務次官に反対する次期次官候補たちが退任させられた話などがある。外部のわたしにも伝わるこうした件以外にも、おそらく「官邸のご意向」人事がいくつもあるのだろう。
よく言われるように、官僚の最大の関心事は人事である。民間の大企業のように、経営陣になると億を超える収入が得られるのとは違い、経済的見返りは期待できない職種だから、高位のポストに就いて自分の立案する政策を実現する満足感を求める方向に意識が向く。もちろん、地位や名誉を獲得する欲望もないわけではないだろうが、それよりも、社会をより良いものにしていくために政策を実現したいとの願いが強いはずだ。
ただ現在の官僚たちは、より高位のポストに就きたいがために内閣人事局を慮るだけでなく、別の面でも気にしなければならない状況にある。それは、自らの定年の問題だ。08年から、いわゆる「天下り」規制が本格化して官僚は基本的に60歳の定年まで勤務する形になったため、全体に在職者の年齢が高くなってきた。
それまでだと、たとえば文部科学省の場合、最高位の事務次官に就任するのが55、56歳、次官を退任するのが57、58歳だった。局長級以下で退任する場合はもっと若いわけだから、よほど入省時に年齢を積んでいた場合でない限り、定年の60歳を気にする必要はなかった(旧科学技術庁出身者は大学院卒が多いため、一般的には更に年齢が高くなる。これは旧文部省出身者を対象にした数字である。以下についても同じ)。
ところが規制後の3代は、次官に就任したのがそれぞれ60歳、59歳、61歳となり、退任時は62歳、61歳、62歳となっている。次官級にのみ適用される62歳定年の特例を使ってもぎりぎりのところになる。もっと危ういのは局長級だ。次官になる能力を持っていたとしても、60歳までに少なくとも文部科学審議官などの次官級ポストに上がっておかない限り局長級のまま定年を迎えてしまう。
大学進学、就職をストレートに通過していない官僚にとっては、この「定年の壁」が、もうひとつのプレッシャーとなっている。前川喜平前文部科学事務次官は、大学に6年間在籍したために2年遅れとなり、次官級へ上がる最短距離ポストの初等中等教育局長に就任したのは58歳の時だった。霞が関官僚幹部の定期異動は国会明けの7月であり、翌年7月の異動で次官級に上がらない限り局長在任中に60歳定年となる。
初等中等教育局長は局長級で最重要のポストだけに2年在任が通例ということで、前川次官誕生が危ぶまれるのを省内の多くが心配していたのを覚えている。幸い1年後に次官級の文部科学審議官に進み、60歳定年をクリアしてその2年後61歳で次官に就任した。そうやって年齢的にきわどく内閣人事局の了解を得て昇進した前川が、加計学園問題では官邸と対決するのだから皮肉である。
その前川は翌年1月20日、文部科学省天下り事件の責任を取って辞職するわけだが、その1週前に62歳の誕生日を迎えており、規定上は同年3月末で定年退職することになっていた。だが3月末は通常国会の最中だ。こうした場合、前川個人でなく文部科学省として内閣人事局へ会期末までの定年延長を申請する必要がある。次官引責辞任を知らない段階では、手続きを事務的に進めなければならない。そこが菅官房長官から「地位に恋々としがみついていた」とされてしまった。
内閣人事局こそ、百害あって一利なしである。政治主導の人事? それは各省庁でも可能だ。大臣はじめ政務三役がドッグトレーナーとしてきちんと官僚を使いこなせば、自ずと個々の犬の能力や性格は見えてくるはずだ。そこで、
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