「知のパラダイム転換」を概観する10冊
2018年09月14日
ここでは「知のパラダイム転換」を概観するために、入手しやすく、かつ面白く読める10冊を選んでみた。
最初に断っておくと、「知のパラダイム転換」は「人文・社会科学が自然科学に侵食され、存在理由を失っていく過程」のことだが、私の造語で、日本のアカデミズムではまったく流通していない。
リチャード・ドーキンスの世界的ベストセラー『利己的な遺伝子』は、生物学のごく一部のイノベーションでしかなかった「現代の進化論」を一般読者に向けてわかりやすく解説した記念碑的著作。その成功の多くは、遺伝子を「利己的(Selfish)」としたネーミングの妙に拠っているが、そのためさまざまな誤解も生んだ。
原著は1976年の発売で、日本では1980年に『生物=生存機械論』と題されて翻訳された。『利己的な遺伝子』と改題され書店に並んだのは1991年で、それが大きな評判を呼んで第一次の遺伝子=進化論ブームが起きた。だが当時の日本はまだポストモダン哲学が主流で、「ミトコンドリアが反乱を起こす」というエンタテインメント小説の題材に使われたくらいで、生物学の「革命」がどれほど巨大な衝撃かを(私も含め)ほとんどの日本人は理解できなかった。
社会性昆虫のアルゴリズムの解明から始まった社会生物学は、その後、魚類や鳥類、哺乳類、霊長類などの生態へとその領域を拡大していった。人間(サピエンス)が「現代の進化論」の標的になるのは時間の問題だった。
社会生物学論争という「文化戦争」は1975年、アメリカの生物学者エドワード・O・ウィルソンが大著『社会生物学』の最終章を「ヒト―社会生物学から社会学へ」として、人間の生態も社会性昆虫などと同様に遺伝的・進化論的に解明できると宣言したことで勃発した。だがアメリカのアカデミズムを激震させたこの大事件は日本のアカデミズムではまったく紹介されず、私がようやくそのことを知ったのは2004年にスティーブン・ピンカーの『人間の本性を考える』を読んだときだ。
「現代の進化論」にもとづいてヒトの生態を解明する科学が進化心理学で、1970年代からアメリカを中心に大きく発展した。ピンカーの本はその集大成で、「肌の色は遺伝しても心(脳)が遺伝することなどあってはならず、知能や性格はすべて環境によって決まる」という「空白の石版」理論を徹底的に批判・論破していく。
「よろこびやかなしみ、愛や憎悪は進化の過程でつくられた心のプログラムだ」という進化心理学のテーゼは、紆余曲折はありながらも、自然科学として膨大な調査・研究が積み重ねられたことで、現代のアカデミズムでは(日本を除いて)広く共有されている。いまではビジネス書ですら、エビデンス(証拠)を示さないものは「非科学的」として相手にされなくなっている。
行動遺伝学は「遺伝決定論」のレッテルを貼られて評判が悪いが、「氏が半分、育ちが半分」という当たり前のことをいっているにすぎない。「遺伝の影響はあってはならない」という「リベラル」なひとたちのドグマが荒唐無稽なのだ。
ここまでは同意するひとも、行動遺伝学のもうひとつの(より重要な)発見については容易に納得しないだろう。それは、「育ちのうち、共有環境の影響はほぼゼロである」というものだ。「共有環境」とは双生児が成長のなかで共有している環境のことで、一般には子育て(家庭環境)をいう。行動遺伝学が正しいとするならば(これには膨大な証拠がある)、子育てには意味がなく、子どもが親に似ているのは遺伝の影響なのだ。
なぜこのようなことになるのか。現在のところもっとも説得力のある仮説を提示したのが在野の発達心理学者ジュディス・リッチ・ハリスで、アメリカで大論争を巻き起こした『子育ての大誤解』において、子どもは遺伝的なちがいをフックにして、友だち集団のなかで自分をできるだけ目立たせようとする複雑なゲームをしているのだと主張した。子どもの〝キャラ(性格)〟がこのようにして決まっていくのなら、「育ち」というのは家庭環境ではなく友だち関係(非共有環境)のことなのだ。――「子どもはなぜいうことをきかないのか?」「子育てはなぜうまくいかないのか?」という多くの親の悩みに、ハリスの集団社会化論だけが、「現代の進化論(行動遺伝学)」にもとづいて明快にこたえることができる。
行動遺伝学や分子遺伝学などによって、近年、遺伝子(ゲノム)の仕組みが急速に解明されてきた。がん研究者(がんもいまでは〝遺伝子の病〟と見なされている)シッダールタ・ムカジーの『遺伝子』は、ダーウィンやメンデルの時代から、科学者たちが遺伝の謎を解明し、ときに優生学のような悲劇を引き起こしつつも、それを病気の治療や社会の改良に役立てようとしてきた歴史を描いている。
遺伝の科学はいまや、ヒトゲノム(遺伝地図)を解読しただけでなく、「クリスパー・キャス9」などのテクノロジーを使って遺伝情報を1文字単位で編集することを可能にした。これによって、乳がんを引き起こす遺伝的変異を生殖細胞の段階で修正するような治療が期待されるが、その一方で子どもの肌や髪、目の色をあらかじめ設計したり(理論的にはいまでも可能)、発達障害や精神疾患のリスクを低めつつ知能を高める(これは将来の課題)デザイナーベイビーの誕生が現実味を帯びてきた。こうした技術が資本市場で販売されるようになれば、人類の未来にとてつもない影響を及ぼすことになるだろう。
遺伝の科学とならんで「現代の進化論」を支えるのが脳科学の急速な発展だ。fMRI(機能的核磁気共鳴画像法)などの新しいテクノロジーによって、感情や行動と脳の活動の関係を詳細に調べることができるようになったことで、これまで哲学が独占的に扱ってきた「意識」は脳科学の研究領域になった。
脳については膨大な本が書かれているが、幻肢の研究で知られるラマチャンドランの『脳のなかの幽霊』を挙げた。幻肢とは事故で手足を失っても「指先」などが痛むことで、神経科医のラマチャンドランは鏡を巧妙に使って腕(足)があるかのように錯覚させることで治療に成功した。こうした脳の錯覚にも進化論的な基礎があり、生き物の長大な歴史のなかで、利己的な遺伝子によって「設計」されてきたのだ。
「現代の進化論」とならんで、知のパラダイム転換を牽引するのが複雑系だ。その立役者の一人が「フラクタル」で知られる数学者のベノワ・マンデルブロ。
古来、ひとびとは世界を因果律で理解してきた。なんらかの結果(洪水)には必ず原因(大雨による河川の増水)があり、ときに日食のように因果関係が判然としないことが起きると、それはすべて超自然的なもの(神)の仕業とされた。ニュートン力学は因果論(決定論)の頂点で、啓蒙主義時代の知識人はこれによって世界をあますことなく記述し、「神の設計図」を読み解けると信じていた。
だが19世紀になると、従来の力学ではうまく説明できない現象が見つかるようになった。水を入れたコップに花粉を落としたときに起こるブラウン運動もそのひとつで、物理学者はどうやってもその法則性を解明できなかった。
この問題を解決したのがアインシュタインで、花粉の動きが統計的に予測できることから水の分子の存在を証明した。その後、微細な世界の研究が進むにつれて、原子や電子に因果論は役に立たず、確率的にしか記述できないことがわかってきた。これが量子力学で、いまでは古典物理学(ニュートン力学)は確率的世界の特殊なケースとして扱われている。
マンデルブロはこれをさらに拡張し、確率的世界の外側に広大な「複雑系世界」があると考えた。確率的世界はベルカーブ(正規分布)で予測できるが、複雑系世界はロングテール(べき分布)なので、正規分布で表すことはできない。だがそこにも法則性はあり、フラクタル(複雑系の図形)は単純なルールの繰り返しでつくることができる。
複雑系の世界は、身長1メートルの大群衆のあいだに、身長10メートルや100メートルの巨人がいるような奇妙な世界だ。その典型はインターネットで、ほとんどのホームページはわずかなアクセスしかないが、そのなかにGoogleやFacebook、Yahoo!のような膨大なアクセスのあるハブが存在する。こうした構造は飛行機の路線図(ハブ空港でつながるネットワーク)から宇宙(真空のなかに銀河というハブが点在する)までいたるところに見られ、生態系や脳のシナプス、遺伝の発現の仕方も複雑系であることがわかってきた。複雑系こそが世界の根本法則で、量子力学のような確率的世界はその特殊ケースなのだ。
このとてつもない発見をしたマンデルブロには主著『フラクタル幾何学』(ちくま学芸文庫)があるが、かなりの数学的素養がないと読みこなせない。一般読者向けに『フラクタリスト―マンデルブロ自伝』(早川書房)があるものの、ここではマンデルブロに師事したヘッジファンドマネージャー、ナシーム・タレブの『ブラック・スワン』を挙げた。2008年のリーマンショックに端を発した金融市場の大混乱を複雑系で読み解き、世界的なベストセラーになった。
マンデルブロによれば市場も典型的な複雑系で、ベルカーブは当てはまらない。これはすなわち、加減乗除と微積分に正規分布を加えたマクロ経済学の数式では市場を記述できないということだ。この批判は経済学の世界ではずっと無視されてきたが、どれほど精緻なマクロモデルもリーマンショックをまったく予測できなかったことで見事に証明され、いまやマクロ経済学は「科学」から脱落しつつある。
従来型のマクロ経済学に代わって登場したのが、市場を数式に還元するのではなく、ビッグデータを解析して因果関係を見つける手法だ。その先駆者はアメリカの経済学者スティーヴン・レヴィットで、『ヤバい経済学』は「アメリカで犯罪が減ったのは、中絶の合法化で若く貧しい女性が出産しなくなったから」などの大胆な分析で話題を呼んだ。
〝ビッグデータ経済学〟が可能になったのは大量のデータをコンピュータで高速処理できるようになったからだが、いまではデータ解析自体も人力ではなく、深層学習させたAI(人工知能)が行なうようになっている。ビジネスの世界では因果関係はブラックボックスでもかまわず、収益を最大化する方法(結果)さえわかればいいのだ。
マクロ経済学が「科学」から脱落しつつあるのとは対照的に、ミクロ経済学はゲーム理論と一体化して「科学」として精緻化されていった。相互作用が限定された(ミクロの)世界では、私的利益を最大化しようとするひとびとの行動をアルゴリズムとして記述できるのだ。
経済学が前提とする「合理的経済人(エコン)」に異議を唱えたのが心理学者のエイモス・トベルスキーとダニエル・カーネマンで、さまざまな独創的な実験によって、人間がおうおうにして不合理な選択をする「ヒューマン」であることを示した。
二人が創始した行動経済学の成果は、ダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』にまとめられている。ヒトは直観的な「ファスト(速い)思考」と理性的な「スロー(遅い)思考」のふたつの思考回路を使い分けているとの行動経済学の主張は、いまでは脳科学的にも裏づけられている。
「ヒューマン」がファスト思考で不合理な選択をするからといって、ミクロ経済学が否定されたわけではない。「限定合理的な経済人」をモデル化したより現実的なゲーム理論が登場すると同時に、進化の過程で生じたバイアスを利用して効率的な社会制度を設計しようとする試みも行なわれている。その成果は政策にも採用され、いまや経済学でもっとも活気のある分野になった。――詳しくはリチャード・セイラー、キャス・サンスティーン『実践 行動経済学』(日経BP社)などを読まれたい。
ここまで述べてきたように、知のパラダイム転換の背景にはコンピュータやICT(情報通信技術)、遺伝子工学、AIなど急速なテクノロジーの発達がある。この驚くべき進歩がつづけば、2045年にはコンピュータの知能が人間を超えるシンギュラリティ(技術的特異点)に達し、超人類(ポストヒューマン)が誕生するとの予測もある(レイ・カーツワイル『ポスト・ヒューマン誕生』NHK出版)。
強大なテクノロジーは、いったいわれわれをどこに連れていくのか。それにこたえるのが『WIRED』誌創刊編集長であるケヴィン・ケリーの『テクニウム』だ。
私たちはごく当たり前のように、人間が科学やテクノロジーを「道具」として使っていると考えている。だがケリーはこれを逆転させ、テクニウム(テクノロジー生態系)が、倫理的・数学的知能のきわめて高い天才(ギフテッド)たちを〝ヴィークル〟として自らの可能性を最大化しようとしているのだという。人間は生き物として「利己的な遺伝子」の道具であると同時に、知性をもったことで「利己的なテクノロジー」の道具にもなったのだ。そうとうに大胆な説だが、このように考えればイーロン・マスクやピーター・ティールなどシリコンバレーの成功者たちが「テクノロジー至上主義者(サイバーリバタリアン)」である理由がわかる。
アメリカでは進化論を否定する保守派が「インテリジェント・デザイン」を唱え、生命は超知性体=神によって創造されたと主張している。シリコンバレーのイデオローグたちはそれを、高い知能を持つ者たち(インテリジェント)がコンピュータをプログラムするように功利的・合理的に世界をデザインすることで、人類のよりよい未来を創造していくのだと読み換える。人類がテクニウムに支配されているとするならば、シンギュラリティが来るかどうかは別として、私たちは行きつくところまで行くしかないということなのだろう。
最後に、ユヴァル・ハラリの『サピエンス全史』を挙げておく。ハラリは「現代の進化論」を歴史学に適用し、進化心理学的な知見を大胆に取り入れて、ヒト(サピエンス)の来歴と未来を一挙に書き直す野心的な試みを見事に成功させ、著書は世界じゅうでベストセラーになった。だがより興味深いのは、『サピエンス全史』が日本で「ビジネス書大賞2017」を受賞したことだ。
ここまで述べてきたように、政治学・経済学・社会学・心理学から哲学にいたるまで、従来、人文・社会科学とされてきた分野を自然科学が侵食する「知のパラダイム転換」が1960年代から始まり、強大なテクノロジーによって加速度的にその領域を拡大しているが、日本の「文系アカデミズム」は一貫してこの世界的潮流を無視してきた。
その結果、より現実的で知的なビジネスパーソンが、世界基準から脱落しガラパゴス化した日本のアカデミズムを見捨てつつあるという現状がここに象徴されているのだろう。
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※本論考は朝日新聞の専門誌『Journalism』10月号から収録しています。同号の特集は「現在地を知る100冊」です。
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