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非業と絶望の先、希望の在りかは

時代や社会、人々を描くヒントをくれた10冊

瀬々敬久 映画監督、脚本家、演出家、俳優

 映画を作りたいと思ったのは高校生の頃だった。1970年代の後半、昨日まで自主製作映画を作っていた若者がいきなり商業映画の監督を任されるような時代が来た。助監督修行を何年も続けながら監督になるという撮影所システムが崩壊したからだ。九州の田舎の高校生だった僕は、映画界ではスゴイことが起こっている、若者が映画を変え、世界を変えるのだと思った。それから昭和最後の年、29歳でピンク映画の監督をやる。平成も終わろうとし、あれから30年近くが経つ今、結局何かが変わったわけではない。ただ、映画を作るということは世界の秘密を探ることだと思いながらやってきた。今の自分たちが生きているこの時代、この社会はどういう風に出来ているのか、動いているのか、どこに問題があるのか、そして人々はどう生きていけばいいのか。作品の形こそ変われ、そこにいつも立ち、考え、物語を作り、俳優に生々しく演じてもらう。その作業の繰り返しだった。その過程には多くの本からヒントを与えてもらったことが多い。時代の変遷と共に記してみたい。

「場の消失と人間」描いた中上

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 10代後半から誰に頼まれるわけでもなく自分たちで8ミリや16ミリのフィルムで映画を作った。そんな時代に、中上健次は英雄だった。それまでの世代が三島や大江を同世代の偉大な作家としてみていたなら、僕らにとってそれは中上だった。『地の果て 至上の時』を読んだのは大学生の頃、83年。それまで彼が自分の出自に関連し描いて来た被差別集落=「路地」がこの小説では、やがて来る経済開発により消滅する。その後に現れるバブル経済の再開発を予見するように風景の変容がそこにある。さらにいうなら今まで自身の寄る辺としていた場の消失によって、中上の分身とも言える秋幸、すなわち被差別部落に生まれ複雑な血脈の元、自分の弟を殺し、父を乗り越えようとする主人公の基盤である場所、物語の極とも言える構造を自ら壊していき、そこから出発する。人間がいて、そこに生きた場所がある。だが、そこさえもいつか変容する。非業さと切なさと、そんな人間本来が持つ運命そのものを感じた。戦争体験などの圧倒的な変容のなかった自分たちの世代にとって、この小説が与えた影響は大きい。世界は変わるのだ。初めて思い知らされた。

 大学時代を過ごした京都から鞄一つで上京したのは86年。ピンク映画の助監督を始める。その頃、よく読んでいたのが『昭和二十年東京地図』。西井一夫による戦前の東京、各地についての文章と、平嶋彰彦が撮影した現代の、その場の東京の写真。それらで構成されていた。それらを読み、見ると、戦前と現代が継続と断絶の間で見え隠れしながら立ち現れてくる。読書体験としては独特のものだった。「浅草」「麻布・三田・芝」「目黒・品川」「本郷・谷中・上野」という風に場所による章立て。浅草なら、文章に登場するのは葛飾北斎であり、永井荷風であり、高見順、荒木経惟らだ。浅草の近くには小塚原刑場があり、日雇い労働者の寄せ場があり、遊郭があった。歴史的には江戸の端であり、「死と再生の世界、この世とあの世がここで混ぜこぜになっている境界領域」、そういう記述の横にある現代の風景写真は浅草をまた違ったものと見せてくれる。人間が住む場所とは重層的な空間なのだ。今という時間は、過去にも未来にもつながる。そういうイメージをこの本が大きく与えてくれた。時代はまさにバブル経済へ突入しようとしていた。東京じゅうの風景が地上げと共に変容していこうとする時期だった。

死刑判決めぐる「心」に迫る

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 90年代は阪神・淡路大震災とオウム真理教、そして神戸連続児童殺傷事件、それらに象徴される陰鬱な事件が続いた。それまでの常識を覆すような出来事の数々。バブル経済の崩壊、55年体制の終焉、世界に目を向ければ、東西の冷戦終結、中国の民主化運動。森達也監督のオウム信者を題材にしたドキュメンタリー映画「A」が公開されたのは98年。それから二十年が過ぎた今年の夏、元信者ら13人の死刑が執行された。森さん自身、『死刑』という著作を2008年に出している。この本の副題にはこうある。「人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う」。死刑についての諸相を扱いながら、著者の立場はここに行きつく。本の最後は1999年に山口県光市で起こった母子殺人事件の加害者である元少年に拘置所内で面会したことについて触れている。2000年3月、山口地裁は加害者である少年に無期懲役を下した。判決後、被害者遺族である本村洋さんがこう発言する。「司法に絶望しました。控訴、上告は望みません。早く被告を社会に出して、私の手の届くところに置いて欲しい。私がこの手で殺します」。大きくメディアで取り上げられ、検察は死刑を求めて控訴するが、2年後に広島高裁はこれを棄却。だが本村さん自身の努力と周囲の援助などもあり、06年6月最高裁は高裁の判決を破棄、差し戻し、08年4月、広島高裁で死刑判決。12年3月、最高裁で死刑が確定した。

 森さんが加害者の元少年に面会したのは07年10月、最高裁が高裁判決を破棄し、差し戻し公判が既に10回を過ぎていたころだ。アクリル板越しの26歳となった彼は、毎日遅くまで本を読んでいて、森さんの本も読んでますと言った。そんなに本が好きなの?と問うと「だって、少しでも遅くまで起きていれば、そのぶん長く生きられますから」。元少年は既に自分の死刑判決を覚悟している様子だ。著者はこう書く。「僕は彼を死なせたくない。なぜなら彼を知ったから。会ったから。会って話したから」。死刑反対の様々な論議に比べ、この気持ちは、すごくシンプルだ。そのシンプルさゆえにこちらの心を打ってくる。

 一方、被害者遺族の本村洋さんの裁判闘争を門田隆将氏が10年間の長きにわたって寄り添うように著述したドキュメント『なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日』という本がある。

 08年の広島高裁での死刑判決後、記者会見を行った本村さんの発言をテレビで見ていた僕は奇妙な印象を覚えた記憶があった。本村さんの思いが叶ったように死刑判決が出た。これから本村さん自身はどう生きていきますか、記者からはそんな質問だった。これに対して本村さんは「これからは日本人として、社会人として恥ずかしくないように労働して、しっかり納税して生きていきたいと思っています」。細かいニュアンスは今となっては曖昧だが、そういう意味の発言をした。僕はその言葉に場違いな印象を感じた。死刑という判決に対して、目指したものではあれ、諸手をあげて喜ぶべきでないという心情はくみ取れるが、その場にひどくそぐわない感じがしたのだ。だが、この門田さんの本を読んで、その謎が解けた気がした。1999年7月、初公判を間近にした本村さんは上司に「実は、辞めさせていただきたいと思いまして……」と辞表を差し出したのだ。それに対して上司はこう言ったという。「この職場で働くのが嫌なのであれば、辞めてもいい。君は特別な経験をした。社会に対して訴えたいこともあるだろう。でも、君は社会人として発言していってくれ。労働も納税もしない人間が社会に訴えても、それはただの負け犬の遠吠えだ。君は社会人たりなさい」

 この一節を読んで僕は分かった。死刑判決後の本村さんの言葉はこの時の上司に向けた言葉だったに違いない。一番苦しい時、自分を救ってくれた上司への返礼の言葉だったのだ。この本を読んでいくと、彼がひとりで裁判を戦ったのではないことがよく分かる。周囲には支える人々がいた。彼は決して孤独ではなかった。そして門田氏も2008年の4月、逆転の死刑判決が下された翌日に元少年に面会に行っている。そこには自分の罪と向き合い、自分の死と向き合った穏やかな元少年がいたと記述している。自らの罪を悔いている元少年が目の前にいたとも。続いて、本村さんの発言がさらに引用される。「死刑があるからこそ、Fは罪と向き合うことができるのです」。だが、著者自身は死刑の是非について語ることはしていない。命と死に向き合った2人の若者、本村さんと元少年の長い年月の心の記録として、この本は書かれているということなのだろう。

中央と地方の分断の諸相は

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筆者

瀬々敬久

瀬々敬久(ぜぜ・たかひさ) 映画監督、脚本家、演出家、俳優

1960年、大分県生まれ。京都大学文学部哲学科に在学中、自主制作映画「ギャングよ 向こうは晴れているか」で注目される。映画「課外授業 暴行」(89年)で商業映画監督としてデビューし、「ピンク四天王」の一人とされた。4時間38分の長編「ヘヴンズ ストーリー」(2010年)はベルリン映画祭で国際批評家連盟賞。「感染列島」「64 ロクヨン」「友罪」「菊とギロチン」など多くの監督作がある。足立正生監督「幽閉者 テロリスト」などに出演。