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言葉への誠実さ欠く二人のAさん

素朴な道徳的感覚が怪しい

金田一秀穂 言語学者

 昔、孔子は弟子に政治の要諦を訊かれて、言葉を大切にすることだ、と答えた。正名説という、有名な教えである。人々が指導者の言葉を信じられなかったら、その国は乱れるという。いまから2000年以上前の話であるけれど、真理であることは変わらない。

 「英国王のスピーチ」という映画があった。ジョージ6世は、エリザベス女王の父である。ひょんなことから王位を継承することになったのだが、当人はひどい吃音者で、「自分は演説ができない」と言って辞退しようとする。吃音が理由で王位を辞退できるのか。少なくとも大変重大な欠陥であるらしい。周囲もそう思っているらしい。民主主義の元祖のような英国は、王位にそのような能力を求める、というのが面白い。話すこと、言葉を発することが、政治にとって極めて重要なことなのだ。

 政治は言葉である。しかしどうもそのことがあの人やその周囲の人々には、お分かりではないらしい。私は言葉の研究者として、なによりも、言葉の扱いの粗雑さが我慢ならない。

 最初に呆れてしまったのは、1回目の首相就任の時のこと、「しっかりと」という言葉を5分足らずの短いスピーチの中で、22回も繰り返して使ったのだ。この人の頭の中には、「しっかり」という言葉が、消し難く焼き付けられていて、それは小さいころからご母堂に言われ続けたことだったのだろうと、推測された。

 口癖、というのがあって、言葉の表現者であれば、それを意識しなくてはいけないのだろうけれど、「まさに」とか「おいて」とかが、話の中に頻出する。あまり賢そうに見えない。

コピペだった原爆忌スピーチ

参院決算委の開会前、麻生太郎財務相(右)と言葉を交わす安倍晋三首相=2018年6月18日
 しかし、口癖程度であれば、罪はない。言葉について、決定的な犯罪行為的冒涜であると思えたのは、2014年の広島の原爆追悼式典での彼の挨拶(あいさつ)である。そこで語られたのは、前年2013年で使われたスピーチの、ほとんどコピペだったのだ。( )内が前年のもの。インターネット上で見ることができる。

 「69(68)年前の朝、一発の爆弾が、十数万になんなんとする、貴い命を奪いました。7万戸の建物を壊し、一面を、業火と爆風にさらわせ、廃墟と化しました。生き長らえた人々に、病と障害の、また生活上の、言い知れぬ苦難を強いました。
 犠牲と言うべくして、あまりにおびただしい犠牲でありました。しかし、戦後の日本を築いた先人たちは、広島に倒れた人々を忘れてはならじと、心に深く刻めばこそ、我々に、平和と繁栄の祖国を作り、与えてくれたのです。(せみ時雨が今もしじまを破る)緑豊かな広島の街路に、私たちは、その最も美しい達成を見出さずにはいられません。(中略)広島のみたまを悼む朝、私は、これら責務に、倍旧(旧倍)の努力を傾けていくことをお誓いいたします。結びに、いま一度、犠牲になった方々のご冥福を、心よりお祈りします。ご遺族とご存命の被爆者の皆様には、幸多からんことを祈念します。核兵器の惨禍が再現されることのないよう、非核三原則を堅持しつつ、核兵器廃絶に、また世界恒久平和の実現に、力を惜しまぬことをお誓いし、私の挨拶といたします。」

 これを読んでいて、恥ずかしさを感じないだろうか。私は恐怖さえ感じてしまった。

 数日後の長崎でもそうだった。これも昨年度のコピペであると言われたもので、確かに、前半3分の1、後半3分の1は、一字一句違わない。たとえば、「一度ならず、二度までも被爆の辛酸をなめた私たちは、にもかかわらず、苦しみ、悲しみに耐え立ち上がり、祖国を再建し、長崎を、美しい街としてよみがえらせました。」という部分は全く変わらない。あらかじめ用意された原稿があって、安倍さんは一字一句変わらずにしゃべったらしい。

 ときどきテレビに出ると、出演者にどうしても言ってほしい事柄は、スケッチブックにセリフが書かれたカンペというものがあって、カメラに映らないところに出される。指示書である。しかし、カンペ通りに言えるものではない。どうしたって、自分のセリフにするときに、自分なりの言い方に変わってしまう。

 たとえば先のセリフ「苦しみ、悲しみに耐え立ち上がり」は、「苦しみや悲しみに耐えて立ち上がり」というふうに言ってしまいがちだ。「長崎を、美しい街としてよみがえらせました」も、「長崎は美しい町によみがえりました」と言ってしまいそうだ。

 全く変わらなかったということは、この挨拶の下敷きに、文字で書かれた文章があったということであり、それを読み上げるだけだったということなのだ。

 もし、原稿を朗読したのであれば、もっと上手なアナウンサーや俳優にやらせればいいことであって、安倍さんが読む必要は全くない。

総理の言葉は政治行為そのもの

 長崎の式典に安倍さんが出席して挨拶をしたのは、総理大臣であるからだ。総理がそこで発言する言葉は、政治に他ならない。その内容こそが政治なのだということが、分かっていらっしゃらないようなのだ。まるで、普通の人が親戚の結婚式でする挨拶と同じように長崎の挨拶を考えているのではないか。何かのマニュアルを参考にして、当たり障りなく、大過ない言葉を羅列させて、ある程度の時間を消化すればいいとしか、その周りの人たちも、考えていないのではなかろうか。

 安倍さんの言葉に対する態度の決定的に間違っている部分はそこなのだ。

 政治家の言葉は、約束とか宣言とか主張とか謝罪とか感謝とか、いずれにせよ言語行為といわれる発話である。これらは行為の解説や描写、記録をする言葉ではなく、言葉を発すること自体が行為であり、政治活動なのだ。式典のあいさつも、当然、政治行為である。形式的な儀礼というだけではない。普通の人なら構わないけれど、総理大臣として出席するのであるなら、きちんと政治的な発言をしてほしい。

 総理大臣の挨拶は、マニュアルに基づいて、何の誠意も思考の跡もないようなごあいさつでは困るのだ。コピペの言葉は、私は愚か者ですと言っているような恥ずべきことなのだが、しかし、どうもそれを恥ずかしがっているように見えない。大学生だって、コピペのレポートはいけないことだと知っている。

 彼はたぶん、言葉について、あんまり大切だと思っていないのだ。特に式典のあいさつであれば、それを聞きたがっている無数の被ばく犠牲者や遺族のことなど、真剣に考えていない。きわめていい加減なのだ。

 しかし、それが分かって少し安心する部分もある。彼がとても行きたがる靖国参拝である。戦に倒れた英霊に誠実に祈るのだと彼は言うけれど、ちっとも真剣に祈っているのではないのだろうと想像されるからだ。彼の言葉はとてもいい加減だから、まともに取らなくていいのだろう。これでいいのかもしれない。(注)

流れて消えた「国難突破」

 言葉をいい加減に使う癖は、その後も全く改まらない。

 たとえば、2017年の「国難」。

 総理は国難を理由に衆議院を解散した。「国難突破解散」と名づけた。しかし、どこが国難だったのか、いまだによく分からない。選挙し終わって、じゃあ国難が去ったのかというと、そうでもなさそうだ。国難の実態がちっともつかめないまま、時間だけはどんどん流れ去っていって、忘却されていく。

 国難というと、たいていの人は、海外からの侵略を考える。日本史では元寇であろう。日蓮さんが祈祷したのは、国難を鎮めるためだった。しかし、日本が侵略の危機にあったのだろうか。自衛隊を増強しなくてはいけないような国際環境にあったのだろうか。全く分からない。

 かつて冷戦がひどかったころ、ソ連がいた。日本はアメリカ側だったから、いつかソ連が攻めてくるのではないかと考えないでもなかった。戦争末期に弱い者いじめのように満州に攻め込んできて、多くの一般日本人たちを捕虜にして、シベリアに連行しただけでなく、北方四島を占拠した。そのような過去の仕業を知っているから、いつか日本に攻めてくるというのも、勝手な空想とは言えなかった。

 それでも、そのような危機感をもちながら、戦後の日本は、戦争放棄の憲法を堅持し、自衛隊に反対し、派兵など考えもしなかった。日本人はそれを誇りにさえ思っていたのではなかろうか。

 ところが、今突然、国難であるという。いったいどの国が攻めてくると思っているのだろうか。

 大陸の中国が攻めてくるという人がいる。私は国際関係論について完全に素人であるけれど、それでも、今の中国が日本に攻めてくるとはとても考えられない。そんな余裕は中国にない。中国には内患がある。ウイグルが危ない。チベットが危ない。インド国境がある。日本から反対側の西の方に中国の問題点がある。東の方でも、香港やマカオを名目上も統一したいに違いない。南に作った人工島群の管理もある。何より台湾問題があって、一応内戦は終わっていないことになっている。そんななか、尖閣に攻めていって日本と戦争することは、割に合わない。来るはずがない。

 北の国は確かに危ういけれど、日本を攻撃するとは思えない。あの体制は、自分の命を守ることだけを考えて核武装をしようとしているのであって、他の国を攻めたいわけではない。攻めても直ぐに負けてしまうことは分かっている。ただ、怖いのは、どこかの国が攻めてきたとき、自暴自棄になってミサイルをめちゃくちゃに発進させてしまうことで、そういう時に、そのうちの一発でも日本に飛んで来られるのは困る。だから、どこかの国に北を攻めさせないようにするのが日本の採るべき道であろう。アメリカの尻馬に乗るのだけはやめてほしい。むしろ、アメリカを制御してほしい。

 日本が武力を放棄するのは夢物語だという。お花畑であるという。他国に侵略されたら、武力を持って戦うのが正しいという。もしそうであるのなら、日本はとっくの昔にアメリカに侵略されているのではなかろうか。沖縄にはあちこちアメリカの軍用機が落ちてくる。しかし、それについてなにも文句を言えない。アメリカ軍は日本の制空権をもっている。アメリカの軍人たちは何の許可も得ずに日本にある基地にやってきて去っていく。それを日本人は把握することが許されない。日本は事実上アメリカに占領されている。これがアメリカではなくて中国だったら、私たちは血を流して戦わなくてはいけないのだろうか。

 言葉だけが勝手に使われている。言葉が空虚であり続ける。言葉が信用を失っている。これは確かに国難であるが、そういうことで国難だと思っているようではない。

普通語になった「同盟」

 ほかにも、粗雑な言葉遣いはいくらでも見つけられる。

 集団的自衛権、という言葉が急に露出度が高くなって、それに伴って、さまざま新しい言葉が目につくようになった。

 日米同盟というのが、ごく普通に言われるようになった。いいんだろうか。

 私の世代にとって、日米関係を同盟と言ってしまうのは、とてもイケナイことだったような気がする。同盟は三国同盟とか、日英同盟とか、戦争をするときの軍事同盟のことであり、日本は不戦の国なのだから、安保条約を結んでいても、アメリカを同盟国とは言わなかったように思う。それがいつのまにか、平気でアメリカのことを同盟国と言うようになっている。国際政治のことはよく分からないけれど、日本はアメリカと同盟国なのだろうか。

 日本と密接な関係にある国に対する武力攻撃が発生していること、というのが集団的自衛権の発動の第一の条件であるらしいのだが、密接な関係にある国というのは、アメリカのことだけなのだろうか。中国や韓国は、

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