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若手記者体験記《同級生と被害者》

「ありがとう」胸に 取材に自問自答

玉木祥子 朝日新聞岡山総局記者

がれきの中から母の遺品を探す男性

 それから約1カ月後、西日本豪雨で岡山県は甚大な被害を受けた。私は豪雨の犠牲になった人たちの取材にあたった。

 最初に取材したのは、井原市の40代の女性の遺族だった。自宅が土砂崩れに巻き込まれ、女性と息子2人が生き埋めになった。息子2人は助かったが、女性は命を落とした。20代の次男が取材に応じてくれ、1階部分が大きく壊れた自宅の前で話を聞いた。

 がれきの中から母親との思い出の品を探す男性。男性も自分と同世代、亡くなった母親も自分の母親と同年代だ。「もし自分の母親だったら」と想像すると胸が痛んだ。誕生日に母親に贈ったクッションを見つけた男性は「渡した時、うれしそうでしたよ」と一言。言葉に詰まりながら「母との思い出、次々出てくるなあ」とつぶやいた。母とのありふれた日常をぽろぽろと話しては、止まって、また話して、止まって。「なんて言えばいいんだろう」。そう口ごもった時は、次に話し出すのをゆっくり待った。自然とあふれ出てくる母親への思いに耳を傾けた。「自分はその場に居合わせてもらっている身だ」と自分に言い聞かせ、根掘り葉掘り聞くことはやめた。

 がれきの中からコーヒーの袋を見つけると、男性は「あの日も家族で食後にコーヒーを飲もうとしていたところだったんですよ」。その日も仏壇にコーヒーを供えてきた、と教えてくれた。男性の母親へのあふれる思いを、多くの人に伝えたいという一心で記事にした。

夫を亡くした真備町の女性

 次に取材したのは広範囲に浸水した倉敷市真備町から市内の小学校に避難していた70代の女性だった。約15年前、夫婦の「終(つい)のすみか」として2階建てから平屋に建て替えた自宅が被災し、夫が行方不明になっていた。「旦那さんのお話聞かせてもらってもいいですか」と頼むと、取材に応じてくれた。

 真備町を流れる小田川の支流・末政川が決壊し、末政川のすぐ近くにある自宅がどんどん浸水していったこと、隣家に避難するために水の中を潜って玄関に向かった夫の姿が見えなくなったこと、自分をなんとか助けようと体の弱かった夫が無理をしたと思っていること。当時の様子を克明に話してくれた。

 初めて取材した日の数日後、夫の遺体が自宅玄関で見つかった。その後も取材を続けたいと思い、避難所に通ったが、「また来たの? 話すことないよ」と取材を断られることもあった。避難所暮らしが長期化し、疲れきった表情の女性を見て、「元気ですか? また来ますね」とあいさつだけして帰ったこともあった。

 夫を亡くし、ただでさえつらい気持ちでいる女性に「取材を続けていいのだろうか」と自問自答した。「こんな取材をしている自分は人の心を持っていないのではないか」と思ったこともあった。

 約1カ月間で計10回ほど通う中で、女性から夫の思い出話を語り出すこともあった。寡黙で気難し屋の夫だったが、被災した自宅を片付けに行った時に居間で見つけた夫の財布の中から新婚旅行の写真が出てきたという。うれしそうに話しながら、泥を払い、破れた場所をテープでとめた写真を見せてくれた。豪雨発生1カ月の紙面で、この夫婦の話を記事にした。女性に新聞を送って数日後、女性からはがきをもらった。はがきには「本当のことを書いてくれてありがとう。大変な仕事だと思いますが、頑張ってね」と書いてあった。胸の奥が熱くなった。

 入社約半年でこんなに多く、犠牲者の遺族や友人に取材をするとは思っていなかった。取材をする時は正直、申し訳ないという気持ちでいっぱいだったが、振り返ると、記者経験が少ないこともあってか、ひとりの記者としてというより、「まず、ひとりの人間として相手と向き合おう」と自分に言い聞かせていた。

 家族や親友を失い、かけがえのない日常が突然奪われてしまった。そんな深い悲しみを抱えた人たちの胸の内を聞くことは容易なことではない。何が正解なのかは分からないが、これからも悩み続けながら、出会う人ひとりひとりと向き合っていきたい。

                                  ◇

※本論考は朝日新聞の専門誌『Journalism』10月号から収録しています。同号の特集は「ジャーナリズムへの誘い」です。

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筆者

玉木祥子

玉木祥子(たまき・しょうこ) 朝日新聞岡山総局記者

2018年入社。現在、岡山県警担当。