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同時多発の土石流が山裾の家々襲う

息の長い報道で「早めの避難」浸透へ

佐田尾信作 中国新聞社論説主幹

 広島東洋カープの優勝マジックが4に近づいていた9月16日の午後。広島市平和記念公園に臨む中国新聞社の社内では「安全を考える集い」が営まれ、西日本豪雨の犠牲者とともに一人の記者を悼んで私たちは黙とうをささげた。

 その記者、27歳だった松田高志は、北広島支局(広島市安佐北区=当時)に勤務していた2006年9月16日夜、台風13号による集中豪雨災害を取材中、行方が分からなくなった。現場は同区の鈴張という山あい。乗っていた車ごと川に流されたとみられ、警察、消防に加え、地元住民や私たちも広い範囲で捜索を続けた。その結果、車の部品や運転免許証などが回収されたが、残念ながら彼を発見することはできなかった。

 3年後の特別失踪宣告の確定に当たり、当時の社長川本一之は「前途有望な若い記者を失ったことは痛恨の極みであり、ご親族に心からお悔やみ申し上げます」とコメントし、関係機関や地域の人たちの捜索への尽力に感謝の意を示した。そして「松田記者の遺志を継ぎ、災害報道をはじめとした地域報道にいっそう力を入れて参ります」と結んだ。

 筆者も太田川下流の河川敷での捜索に参加した。百万都市の要である広島デルタ(三角州)を形づくった母なる川だ。何の手がかりも見つけられなかった。だが、当時新調した長靴を今もマイカーに積み、今回の豪雨の取材でも使っている。

 彼の死を無駄にはしない、わが身の安全も図りながら取材することは恥ずかしいことではない。これが本紙の今の災害取材の基本的なスタンスである。

土砂災害のピークは2回

 今年7月の西日本豪雨の特徴はまず、土石流と崖崩れを主とする土砂災害だろう。それによる犠牲者87人を出した広島県内の7市2町の主な被災28地区について、土砂災害が発生した推定日時を県がまとめた。それは6日午後4時半ごろから7日午前8時20分ごろまでの約16時間に集中している。ピークは大きく分けて6日夜と7日未明の2回だった。

 6日夜の雨で主に広島都市圏東部や呉市の一部の斜面がまず崩れ、県中央部から東部は7日未明の雨で持ちこたえられなくなったというのが、県砂防課の見方だ。犠牲者数は広島、呉両市がそれぞれ20人で最も多く、そのほかに坂町、熊野町、東広島市、三原市、竹原市、尾道市、府中市の順に確認されている。

 推定した発生日時は、広島市南区丹那町で1人が亡くなった崖崩れが最も早く、6日午後4時半ごろ。最後は1人が死亡した尾道市防地町での土石流で、7日午前8時20分ごろである。

 最初のピークは6日夜。広島市安芸区矢野東7丁目を土石流が襲った7時20分ごろから、10時20分ごろまでの3時間に、全体の6割の17地区が被災した。15人が犠牲となった坂町小屋浦3、4丁目、呉市天応西条3丁目など、広島都市圏東部や呉市北部で次々と土石流が起きた。

 2度目は7日午前0時台からの5時間で、4分の1の7地区で被害が出た。0時50分ごろの三原市木原6丁目をはじめ、7日午前5時台には呉市、東広島市のそれぞれ3地区が土石流などに見舞われた。細かく数字や地名を書き込んだが、それほど広範囲に、しかも長く異常な事態が続いたということである。

紙面1 2018年9月7日付中国新聞朝刊
 本紙は9月に入って広島県内5つの被災現場について「その時」を再現するグラフィック中心の連載を始めた(紙面1)。記者が集めた証言などを基にして航空写真に避難する人たちの動線を重ねたのだが、何気ない日常が突如、暗転している。

 例えば広島市安芸区矢野地区。県道矢野安浦線沿いを通行していた車を土石流の第1波が襲い、脱出した10人が一団となって徒歩で避難する。第2波の土石流が火花を散らせて電柱をなぎ倒すのを見た後、全員が第3波の土石流にのみこまれ、そこで生死が分かれた。この間、わずか40分の出来事だったのだ。

 西日本豪雨取材班のキャップ、久保田剛は4年前の広島土砂災害でも、安佐南臨時支局に詰めていた。ここまでの取材を振り返って「4年前と違って同時多発で現場があまりにも多く、すぐにはたどり着けなかった。不確定な情報にも振り回された」と言う。

 とはいえ取材は安全第一を旨とし、複数で動く。無理に夜の現場に近づく指示は出さなかった。

 そしてもう一つ、気を使ったことは犠牲者の遺族への配慮である。できるだけ同じ遺族を、同じ記者が担当するようにした。担当記者が替わっても情報を共有できるようにし、一から話を聞くことがないようにしたという。広島土砂災害の取材経験が十分に生かされた点だろう。

徒歩やバイク、船で現場へ

写真1 西日本豪雨による土石流に襲われた住宅街=広島市安佐北区口田南(2018年7月、筆者撮影)
 現場を取材した記者から筆者へのメモや「社報」の報告を基に、取材エリアごとに7月6日以降の様子を再現してみる。6日夜、太田川流域、広島市安佐北区口田南の現場に車で向かっていた本社報道部の記者2人は「道の水位が上がってきています」と連絡してきた。水かさが増しているのは川ではなく道。現場から随分手前の非常線を撮影して帰るのがやっとだった。

 口田南3丁目では7日未明、土石流によって7世帯10棟が全壊し、1人が犠牲になった。筆者も2週間後に現場を踏んだが、高陽ニュータウンという大規模な団地の南に位置する住宅街である。土石流は中山間地で起きるだけではない。巨大な岩が背後の山から、ビルもマンションもあるようなバス通りの近くまで崩れ落ちている光景は衝撃的だった(写真1)。

 JR呉線も広島呉道路も不通になって「陸の孤島」と化した呉市では、7日朝から記者たちが行動を開始するが、道路や橋は寸断されていた。呉支社の浜村満大は徒歩で地元の販売所にたどり着き、所長のバイクに乗せてもらって同日夕、やっと被害甚大な天応地区に入った。隣の広島県坂町は本社エリアで、報道部記者らがやはり被害の大きい小屋浦地区に8日になって取材艇(クルーザー)で上陸した。ベッドタウンである内陸の熊野町へ向かう際にも、片道4時間半かかったという。

 広島県の備後本社(福山市)エリアでも被害が相次いでいた。三原支局の政綱宜規は10日付で「水没民家/『まだ人が』三原市本郷」という見出しのルポを書いた。西日本豪雨は土砂災害だけでなく、広域浸水も引き起こした。

 三原市本郷町船木地区では6日夜から203ヘクタールが浸水、3人が亡くなり、住宅など約740棟が水に漬かった。当時はまだ被害の全容が分からず、現場や避難所で当時の状況を聞いて回った。取材するにつれて深刻な状況が浮かび上がった。政綱は断水にもかかわらず給水車が来ない三原市の離島・佐木島の現状も島に入って取材した。

 備後本社では若手記者に対し、なるべく「ミッション」を与えず「現場で見て聞いて、きょう何を書くべきか自分で考えなさい」と念押しして送り出していたという。

記者も避難所で一夜

 豪雨の被害は隣県の山口、島根、岡山の各県にも及んでいた。玖珂(くが)支局(岩国市)の加田智之は岩国総局からの連絡で持ち場の周東町で土砂崩れが発生していることを知った。2人が亡くなったが、現場はいずれも山間部。隣家を含め2軒しか家がないような地区もあり、現場に行くだけで大変だった。総局の指示で応援が来るまでは別の取材を優先させ、防長本社(山口市)のカメラマンが到着したところで2人で現場を目指した。

 ぬかるんだ道を20分程度歩いて現場に到着したが、加田がまず思ったのは「こんな所に人が住んでいるのか」という驚きだった。山道のどん詰まりのような場所に2軒だけ家があって、そのうち1軒が土石流に流されていた。隣接する家はまったく被害がなく、土石流がピンポイントで流れたことを実感した。隣同士だが、付き合いはあまりないらしく、名前を突き止めるのには苦労した。

 記者自身が避難を経験したケースもある。広島湾岸の広島市南区丹那町では6日夜に崖崩れを取材した後、近くの避難所に待避した。移動すればかえって危ないという判断だった。記者は地鳴りで一睡もできなかった。江の川流域の川本支局(島根県川本町、10月から邑智(おおち)支局=同県邑南(おおなん)町)は支局の地元に避難指示が出され、城戸昭夫は避難所で一夜を明かしてルポを書いた。流域は戦後何度も洪水の被害を受けているが、支局から避難したのは近年では例のないことだ。

 さらにいえば、全ての現場で酷暑に苦しめられた上、三原、尾道両支局では、支局と支局員の自宅で1週間近く水が止まった。飲料水は売り切れ、飲食店は閉まり、食料も入手が難しかった。携帯電話がつながりにくかった地域もある。その中で、土ぼこりにまみれて帰ってくる記者を見て「体がもつのか」と案じる声もあった。同時多発の土砂災害と広域浸水は、取材環境にとってもかつてなく厳しいものだったといえよう。

広島は災害多発県

 広島といえば原爆ドームと厳島神社の二つの世界遺産を擁し、この間を観光客を乗せた船が日々行き交う。備後地方にも福山の鞆(とも)や尾道といった全国区のスポットがある。きっと穏やかな瀬戸内海のイメージを多くの人が持つだろう。

 だが、広島は災害多発県でもある。土砂災害や水害に加えて、中国山地では「挙家離村」の引き金になった豪雪にも見舞われた。戦後の災害は1945年9月の枕崎台風に始まる。ノンフィクション作家柳田邦男の『空白の天気図』が最良の資料だ。2014年8月の広島土砂災害の10日後に、本紙朝刊1面コラム「天風録」は次のようにつづっている。

 巨岩が互いにカチカチ火花を散らす。鮎(あゆ)漁の川松明(たいまつ)みたいにキラキラ光ってのお―。古老が土石流を証言していた。作家柳田邦男さんの「空白の天気図」にある。広島が焦土と化したその翌月、枕崎台風が宮島対岸にもたらした大惨事だ▲岩がスパークするなど、にわかには信じがたい。だが、当時の大野陸軍病院を襲い、職員や患者、さらには京都大原爆調査団まで156人の犠牲を出した。土地を知る古老さえ、なすすべなく音と光を脳裏に刻んだか(抜粋)

 ちなみに本紙は原爆投下で広島が壊滅した後、郊外の温品(ぬくしな)に牛舎を借りて印刷工場を疎開させていたが、この台風で輪転機の足元まで浸水した。戦後の混乱期にあって、かろうじて本紙は台風を報じるが、その後、自力発行は不能になる。これを境に、市中心部の本社に復帰する機運は高まり、その年の11月に念願の復刊を果たした。被爆後の再出発にもまた被災という節目があったことになる。

 災害はさらに1951年のルース台風被害、67年の台風7号被害、72年の47水害、88年の加計(かけ)・浜田災害、99年の6・29豪雨災害、2014年の広島土砂災害、そして今年の西日本豪雨の大惨事につながっていく。くしくも、ことしは加計・浜田災害から30年の節目に当たる。それは今回に酷似した惨事だった。

 筆者は8月中旬、太田川流域にある広島県安芸太田町(旧加計町)の上堀、江河内両集落を訪ねた。88年に近くの江河内谷川で発生した土石流は犠牲者10人、負傷者7人、家屋流出19戸の被害をもたらした。土石流は背後の山から560メートルの標高差を駆け降り、住民の証言から算出したところ、江河内では時速約40キロだったという。一軒の家の中で生死が分かれた家族もいた。

写真2 広島県安芸太田町上堀の「災害碑」。30年前、土石流が襲い、民家を押し流した(2018年8月、筆者撮影)
 今は上流に砂防ダムや治山ダムが築かれ、小川のようだった川幅も改修で広がり、護岸は転がり落ちてきた石で組まれている。自然石を別の石が支える災害碑は「人」という字のように見えて、地域全体が防災の生きた教材といえるだろう(写真2)。当時を知る住民も健在である。

 この地は江戸時代の1796(寛政8)年にも土石流に見舞われ、

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