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イデオロギーを超えて

イズムをめぐる無知と大宅壮一の「無思想」

呉智英 評論家、日本マンガ学会理事

 十年も前のことになる。ある専門誌に、新聞社で研修中の新人記者を対象とするアンケート調査が載った。これを企画、分析したのは名門国立大学でジャーナリズム論を専攻する教授である。

 このアンケートの回答に、ジャーナリズム・ジャーナリストという言葉にネガティブな印象を受けて嫌だというものが、何通もあった。「暑苦しい」「うっとうしい」「偉そうな感じ」「イズムという時点でイデオロギー的」などである。

 仮にもジャーナリストを職業に選んだ青年が、この回答はないだろうと、私は思った。それは、自分の仕事に誇りと自信を持てという意味ではない。あまりの無知ぶりに呆れたのである。続いてアンケート企画者である大学教授の分析に、もっと呆れた。彼女は新人ジャーナリストたちの無知を批判するでもなく、日本におけるプロフェッショナリズムの未成熟が云々と、見当違いの分析をしている。教授自身が無知である可能性が大きい。

「ジャーナリズム」の誤読

 「ジャーナル」の語原は「日誌(英diary≒journal)」である。記録・報告・報道(道は「言う」の意)、つまり新聞・雑誌・テレビ・ラジオなどの機能・役割がジャーナルである。意味を拡大して、書籍出版を含めてもいいだろう。

 ここまでは新人ジャーナリストたちも教授もほぼ分かっている。

 問題は接尾辞の -ism、-ist である。彼ら彼女らは、これを「主義」「主義者」だと思っている。コミュニストとかナショナリストとかのように。しかし、この接尾辞はそれ以外にも、状態・作用・特徴などを表わす。V・ホロビッツはピアニストだがピアノ主義者ではない。そのピアニズムとはピアノ主義ではなく演奏の特徴である。メカニズムは機械主義ではなく、機械のような作用である。アルコーリズムは、もちろんアルコール中毒であって、アルコール主義ではない。

 新人ジャーナリストが「ジャーナリズム」を誤読・誤解する無知ぶりもさることながら、それに気付かず得意げにおかしな分析をする大学教授にも困ったものだ。

誤読は現実の象徴か

 しかし、これを裏側から考えれば、ジャーナリズムを「ジャーナル主義」だと思うことが社会通念のようになりつつある現実を象徴しているとも言えよう。アンケート回答にあった通り、何かのイズムを暑苦しいまでに訴える職業・組織という通念である。「報道」をしばしば「報導」と誤字する人が多いのも、その傍証となろう。

 ジャーナリズム史をふり返れば、これは全く間違いというわけではない。明治期の新聞は、それぞれ支持する政党があり、その主張を代弁したり、反対側の党を批判したりした。現代でも、特に社説やいわゆるオピニオン欄にそうした言説が載る。その一方で、読者の関心を惹きやすいスキャンダルや猟奇事件を大きく報じる新聞やテレビも多い。イエロージャーナリズムと呼ばれるものである。これをジャーナリズムの堕落と批判する人もいるが、やはり明治期に既にいくらでもあった。絶対に批判されるべき記事・論調があるとすれば、事実に基づかない虚偽報道である。

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筆者

呉智英

呉智英(くれ・ともふさ) 評論家、日本マンガ学会理事

1946年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。著書に『封建主義者かく語りき』(双葉文庫)、『現代人の論語』『つぎはぎ仏教入門』『吉本隆明という「共同幻想」』(以上、ちくま文庫)、『日本衆愚社会』(小学館新書)ほか。