イズムをめぐる無知と大宅壮一の「無思想」
2018年12月27日
十年も前のことになる。ある専門誌に、新聞社で研修中の新人記者を対象とするアンケート調査が載った。これを企画、分析したのは名門国立大学でジャーナリズム論を専攻する教授である。
このアンケートの回答に、ジャーナリズム・ジャーナリストという言葉にネガティブな印象を受けて嫌だというものが、何通もあった。「暑苦しい」「うっとうしい」「偉そうな感じ」「イズムという時点でイデオロギー的」などである。
仮にもジャーナリストを職業に選んだ青年が、この回答はないだろうと、私は思った。それは、自分の仕事に誇りと自信を持てという意味ではない。あまりの無知ぶりに呆れたのである。続いてアンケート企画者である大学教授の分析に、もっと呆れた。彼女は新人ジャーナリストたちの無知を批判するでもなく、日本におけるプロフェッショナリズムの未成熟が云々と、見当違いの分析をしている。教授自身が無知である可能性が大きい。
「ジャーナル」の語原は「日誌(英diary≒journal)」である。記録・報告・報道(道は「言う」の意)、つまり新聞・雑誌・テレビ・ラジオなどの機能・役割がジャーナルである。意味を拡大して、書籍出版を含めてもいいだろう。
ここまでは新人ジャーナリストたちも教授もほぼ分かっている。
問題は接尾辞の -ism、-ist である。彼ら彼女らは、これを「主義」「主義者」だと思っている。コミュニストとかナショナリストとかのように。しかし、この接尾辞はそれ以外にも、状態・作用・特徴などを表わす。V・ホロビッツはピアニストだがピアノ主義者ではない。そのピアニズムとはピアノ主義ではなく演奏の特徴である。メカニズムは機械主義ではなく、機械のような作用である。アルコーリズムは、もちろんアルコール中毒であって、アルコール主義ではない。
新人ジャーナリストが「ジャーナリズム」を誤読・誤解する無知ぶりもさることながら、それに気付かず得意げにおかしな分析をする大学教授にも困ったものだ。
しかし、これを裏側から考えれば、ジャーナリズムを「ジャーナル主義」だと思うことが社会通念のようになりつつある現実を象徴しているとも言えよう。アンケート回答にあった通り、何かのイズムを暑苦しいまでに訴える職業・組織という通念である。「報道」をしばしば「報導」と誤字する人が多いのも、その傍証となろう。
ジャーナリズム史をふり返れば、これは全く間違いというわけではない。明治期の新聞は、それぞれ支持する政党があり、その主張を代弁したり、反対側の党を批判したりした。現代でも、特に社説やいわゆるオピニオン欄にそうした言説が載る。その一方で、読者の関心を惹きやすいスキャンダルや猟奇事件を大きく報じる新聞やテレビも多い。イエロージャーナリズムと呼ばれるものである。これをジャーナリズムの堕落と批判する人もいるが、やはり明治期に既にいくらでもあった。絶対に批判されるべき記事・論調があるとすれば、事実に基づかない虚偽報道である。
没後半世紀近くが経ち、その著作は入手困難になっているが、大宅壮一は戦後二十数年間は新聞・雑誌に精力的に執筆した。一九六九年には大宅壮一ノンフィクション賞(日本文学振興会・文藝春秋)が設けられ、これを受賞することはジャーナリストの栄誉となっている(二〇一七年から「大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞」)。また、普通の図書館では所蔵・保存しない文字どおりの「雑」誌まで集めた大宅壮一文庫は、ジャーナリズムの兵站(へいたん)基地となっている。
大宅壮一のジャーナリズム観は『「無思想人」宣言』によく表れている。これは、一九五五年に雑誌に執筆した同名のエッセイを中心に類似のエッセイを集め、一九八四年に講談社学術文庫の一冊として出版したものである。
大宅壮一は、旧制中学時代に米騒動に参加して放校処分になるなど早熟な政治青年であった。その後も左翼的ジャーナリストとして活躍するが、共産党とは微妙な距離感を保っていたらしい。『「無思想人」宣言』では、
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