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リベラルな国際秩序に準拠した9条へ

ナショナリズムに基づく平和主義からの転換を図れ

細谷雄一 慶應義塾大学法学部教授

パリ講和会議に出席した西園寺公望首席全権(中央の白い帽子を手にする)と日本の60余人の代表団たちが記念写真に収まった(1919年撮影)
 今年は、パリ講和会議が開催されてからちょうど100周年となる。今から1世紀前の1919年1月に、第1次世界大戦終結後のパリで、戦後の新しい秩序を構築するための講和会議が開かれた。その主役は、戦勝5カ国であり、そこにはアジアの新興国、日本も含まれていた。

 日本からは、総勢60人ほどの比較的大規模な代表団が、地球を半周する長い船旅を経てこのパリでの華やかな国際会議に参加した。そこには、吉田茂、芦田均、近衛文麿といった、後に首相となる人物も含まれていた。なお吉田と芦田は書記官として、そして近衛は西園寺公望の強い推薦による随行者としての参加であった。

1世紀前のパリへ

 興味深いことに、この吉田、芦田、そして近衛という3人の人物は、後に日本国憲法制定の過程で重要な役割を担うことになる。パリに滞在していたこれら3人に加えて、もう一人、重要な人物がいる。このとき外務次官を務め、東京で職務を果たしていた幣原喜重郎である。彼もまた、後に首相となり、日本国憲法制定、とりわけ憲法9条起草において決定的な役割を担うことになる。第2次世界大戦後に憲法を起草する際、パリ講和会議、およびそれ以降の外交での経験が、彼らの思想の基礎になっていったのだ。

 それでは、彼らはどのような思想を背景に、またどのように平和を希求して、戦後世界で憲法9条を実現に導いたのか。そしてそこに、どのような希望を浸透させていたのか。

 それらを理解するためには、まずは1世紀前のパリへと時間を超えて旅をして、その時代にどのように平和が希求されていたのかを理解しなければならない。それによって、20世紀における平和の組織化や、国際社会における「法の支配」の萌芽と発展、さらにはそのような文脈の中での日本国憲法の意味をより深く理解できるだろう。平和の条件とは時代により異なり、憲法9条の描く平和もまた、そのときの時代精神や国際関係に大きく規定されているからだ。

 現在、安倍晋三政権下で憲法改正が重要な政治的課題として論じられている。すなわちそれは、幣原や吉田、芦田らが創った日本国憲法をどのように理解して、それをどのように現代社会に適合するようなものへと改正するべきか、あるいは改正するべきではないか、をめぐる論争である。

 日本は、国際社会から切り離されて存在することはできない。だとすれば、日本の憲法もまた、国際社会の中に埋め込まれていることを深く理解しなければならない。ここで、国際政治史の中で憲法9条の理念を理解する必要があると考えるのは、それゆえである。

青春の挫折

 1世紀前のパリ講和会議へと舞台を移そう。

 不平等条約を突きつけられて、アジアの後進国として国際社会に参加した日本にとっては、このパリ講和会議は主要戦勝国の一角として参加することになり、それは名誉ある地位であった。それはまた、多くの若手外交官たちにとっての檜舞台でもあった。まさにパリ講和会議での経験は、日本外交にとっての青春の日々であったといえる。ただし、青春の多くがそうであるように、日本外交にとってもパリ講和会議の経験は苦い挫折となった。それでは、日本外交は何に挫折したのか。

 それは、国際社会の潮流を十分に理解することができずに、自らが語る正義が独善となって次第に国際社会から孤立していったことである。彼ら全権代表団も、東京の政府も、そしてメディアも、戦後の平和を創出する上で何が重要な条件であって、日本に何が求められているのか、理解できなかった。

 国際社会は、それまでの弱肉強食の権力政治から、少しずつ国際協調と国際組織化へと向かって動きはじめていた。そのためには日本を含めた主要国が、重要な義務と責任を負わねばならなかった。だが、日本人の精神には、まだ国際主義(インターナショナリズム)の思想は深く根を張っていなかったのだ。平和とは、何もしないで自然発生的に生まれるものではない。

 しかし、みながそのように国際関係の新しい動きに無関心であったわけではない。例外もいた。例えばそれは、首相の原敬であり、政治学者で東京帝国大学教授の吉野作造であった。

 二人は、この頃の日本国内の、自己の利益に汲々として国際公益を無視しようとする風潮に、強い懸念を抱いていた。吉野はこの頃、「帝国主義より国際民主主義へ」と題する論文を発表し、そのような変化の重要性を強調した。すなわち「従来の国際関係は詰り帝国主義、強い者勝ち、弱い者は強い者の餌食になる」ようなものであったが、それがこの大戦を期に、「相和し相信じて極く新しい国際関係を立てねばならぬと云ふことに、是からの世界は段々と改造されて行く」のである。

 これは、国際政治におけるリベラル国際主義の思想である。この新しい潮流を理解しなければ、日本は取り残されるであろう。そのような懸念から首相の原敬もまた、「文明国人民の国際関係に対する思想が一変した」重要性を指摘する。そして、権力政治のみの観点で、また国家主義の観点のみで国際関係を考える当時の風潮を、次のように批判した。すなわち「外交なるものは(中略)徒に強硬を装ふて出来得るものではない」。そして、国際潮流の変化を理解しなければ「日本は将来孤立の位置に立つであろう」。

 同時に原首相が懸念していたのは、「日本は自国の都合のみに打着して他国を念頭に置かず、利己に偏して世界共通の利益を藐視(びょうし)する」という見方が、国際社会で広がっていたことである。それは日本の国際的評価を、貶めることになるであろう。だからこそ日本国民が「国際間の義務を重んじ友邦の信義を尊重する」ことが重要なのだ。

国際安全保障の精神

 それでは、吉野が「新しい国際関係」と語り、原が「国際関係に対する思想が一変した」と述べるその内実は、いかなるものか。

 それは、集団安全保障という新しい思想の萌芽であり、また具体的には国際連盟という画期的な新しい国際機構の設立であった。それまでは、一国単位で国家安全保障が考えられていたのに対して、アメリカ大統領のウッドロー・ウィルソンは、国際社会を一つの「コミュニティー」ととらえて、その構成員が然るべき義務と責任を担って、平和と安全の維持のために貢献しなければならないと考えたのである。平和をめぐる、ナショナリズムからインターナショナリズムへの転換である。そのような、国際安全保障の精神を基盤とした世界平和のための構想は、原の言葉を用いれば、「世界共通の利益」であった。

 そのような国際安全保障の精神は、第1次世界大戦終結から10年が経過した1928年には、ケロッグ=ブリアン条約(パリ不戦条約)として、歴史上はじめて戦争を違法化する条約へと結実した。それは、それまで合法で国家の正当な行為として受け入れられてきた戦争を違法化するという、画期的な条約であった。

 だが、それがいかに脆いものであるかについて、政治指導者や外交官の多くは現実主義的に認識していた。というのも、主要国が国際的な責任を果たすことをしなければ、集団安全保障、さらには不戦条約に基づく世界平和は実現しないからだ。もしも一国でもそれを裏切れば、平和は破壊される。また、平和が破壊されたときに主要国が行動を起こさなければ、戦争は拡大する。

 問題は、国家とはそもそも利己的であることである。第1次世界大戦後の当時の国際社会では、侵略された他国を支援するために自国の兵士の生命、さらには自国の予算を割くことは、受け入れがたいことであった。だからこそアメリカは国際連盟に加盟せず、またイギリスやフランスといった国々は、明らかな侵略的な軍事行動が行われていてもせいぜい言葉で非難する程度であった。それを阻止するために自己犠牲を払い、自国が責任や義務を負うことを、何よりも嫌ったのである。

 現在の日本国民の多くが国際安全保障、すなわち集団安全保障や集団的自衛に抵抗があるのは、第1次世界大戦後のイギリスやフランスの国民がそうであったのと類似している。すなわち、平和は欲しいが、自己が義務や責任を負うのは避けたい。誰かにそれをやってほしい。すべての国民は、基本的に利己的である。他国が侵略され、他国民がどれだけ犠牲になろうが、自国の安全と自国民の生命が無事であれば、見て見ぬふりをするべきだ、と。

 とはいえ、第1次世界大戦後の日本のエゴイズムは、あまりにも包み隠さぬあからさまなものであった。それゆえ、歴史家のマーガレット・マクミランは著書の中で、「日本はイタリアに似ていた。パリで果たすべき自国の目標にこだわり、他のことには一切関心がなかった」と、批判的に描いているのである。

不戦条約の世界史的意義

 私は、3年前に『歴史認識とは何か』(新潮選書)という著書を刊行したときに、日本が戦前の歴史から反省すべきことは、軍事主義国家としてアジアを侵略したことよりも、国際社会から逸脱して国際秩序を破壊したことにあると指摘した。後者の帰結として、前者が浮上したのである。そしてそれゆえに日本は国際社会で孤立したのだ。

 それでは、日本はどのようにして、そしてどのような国際秩序を破壊したのだろうか。それは、1920年1月に設立された国際連盟、さらには1928年8月に調印されたパリ不戦条約によって創られていた、国際協調と「法の支配」、そして戦争放棄の規範に基づいたリベラルな国際秩序である。すなわち、権力政治の論理で軍事力が支配する世界を、国際主義の精神で変革していこうとする試みであった。それはまだ萌芽段階であったが、日本人の多くはそのような国際平和の確立へ向けた努力に対して、冷笑的であり、冷淡であった。

 それでは、その一つの重要な礎石であるパリ不戦条約とは、どのような条約であったのだろうか。「戦争放棄に関する条約」という名称のこの条約では、第1条で、「締約国は、国際紛争解決のために戦争に訴えることを非難し、かつ、その相互の関係において国家政策の手段として戦争を放棄することを、その各々の人民の名において厳粛に宣言する」と記されている。

 ただし、ここで「戦争を放棄する」と論じる際に、そこから自衛戦争が除外されていたことに留意する必要がある。それは、締約国の間で合意されていた。この条約の起草過程で、

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