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ペダルを踏んで、見て会って考えた

『奥の細道』を巡る旅から

ドリアン助川 作家、詩人、歌手

 今年1月に福島第一原発の構内に入った。廃炉作業のための設備が並ぶ光景は目に馴染みがないフォルムの連続で、まるで他の星の宇宙基地に来てしまったかのような印象を受けた。強烈な放射線を浴びているという緊張感に加え、とうとうここまで来てしまったかと、途方もなく長い旅をしているような気分にもなった。線量計を携え、自転車のペダルを漕ぎだしたあの夏の日がここにつながるとは、自身想像もしていなかった。

 発端は、2012年の夏だった。私はその頃、学生が楽しんで読める古典の口語訳本を作ろうとしていた。手始めにと選んだのが、『奥の細道』だった。

 1カ月かけてその作業を終えた。だが書いているうちに、自分の仕事のようには思えなくなってきた。芭蕉が囁く。「お前はいつから自分の本分を忘れてしまったのか? 東欧革命やカンボジアPKOを現地取材したお前が、いったいそこで何をしている?」

自転車でみちのくを行く

福島に入ると、こうしたメッセージボードを度々目にするようになった。農園経営者の慟哭(どうこく)が聞こえてきそうだ=2012年8月18日、福島県西郷村(写真はいずれも筆者撮影)

 松尾芭蕉と門弟の河合曽良が、みちのくを目指し壮大な旅に出たのは、今から330年も前、元禄2年のことだ。2人は東京深川から埼玉、栃木、福島、宮城、岩手と北上し、山形の山岳地帯を越え、秋田の象潟(きさかた)へも足を延ばした。庄内地方からはひたすら日本海に沿って南下し、新潟、富山、石川、福井、滋賀、岐阜の大垣を結びとする旅をした。この道のりは、震災と原発事故の被災地、そして過疎という、日本が直面する問題が混在した場所を通っている。ならば、その旅路を自分の足で歩き、自分の目で見てみることで、メディアが伝えきれていない震災後の日本の姿を知ることができるのではないか。そう思った。

 ただ、歩いていてはいつ帰ってこられるのかわからない。私は折り畳み自転車を買い、リュックサックに線量計を入れて旅に出ることにした。震災翌年の8月半ば、炎天下の道を行く旅の始まりだった。やり方はこうだ。1週間ほど汗を流しては自転車を畳み、電車に乗って東京に戻ってくる。そしてまた翌月に1週間の休みを取り、前回進んだ場所から新たな旅を継いでいく。

 こうしてのべ4週間を使い、『奥の細道』のほぼ全行程を辿った。パンクした自転車を押しながら結びの大垣に着いたときには11月半ばになっていた。

 この間、決して多くはないけれど、心からの言葉を交わせる出会いがあった。仮設住宅で暮らさずとも、土地の被曝によって生活の基盤を奪われた人々は山ほどいる。メディアではなかなか表出しないみなさんの声は、文字を綴る私の心に火をつけた。同時に大いなる葛藤を抱えることにもなった。この旅の記録を一度は封印しようと思うくらい、私は悩んだのだった。

 各地の線量や、出会った風景と人情の物語は、この旅をまとめた『線量計と奥の細道』(幻戯書房)をお読みいただくか、旅の写真を背景にした私の朗読パフォーマンスを観てもらうしかないのだが、本稿では、心に染みた出会いのなかの数例を紹介したいと思う。

カバーをかけて「除染済み」

 栃木北部の那須では、途方に暮れていた農園のご夫婦と出会った。このご夫婦は和牛の繁殖業を中心に、堆肥(たいひ)を使った循環農業で野菜や米を作っていた。だが、原発事故でそれがすべてだめになった。

 栃木北部にも高濃度の放射性物質が降った。しかしその事実は当初、那須のみなさんにはまったく知らされなかったのだという。ご夫婦は福島からの避難の車列を見ながら、ここは大丈夫なのだろうかと不安な日々を過ごしたらしい。

 線量計の針が振り切れたと教えてくれたのは通いの獣医さんだった。そのときはもう遅かった。汚染された藁や牧草を牛たちが食べてしまった。牛は高濃度に汚染され、出荷できなくなった。ご夫婦は和牛の繁殖業をやめることにした。10万ベクレル以上に汚染された土や堆肥は防護服を着た作業員たちによって1カ所に集められた。だが、汚染土をよそに持っていくことはできない。猛毒の土はカバーをかけられただけで、農園の片隅に置かれていた。これでも行政的には「除染済み」となるのだ。

 補償への道は遠いとご主人は言った。那須の農家はみな弱り果てているとも。

 「このままでは首を吊る農家が出てきますよ」

 牛小屋では子牛が生まれたばかりだという。繁殖業を廃業しても、生まれてしまったのだから育てるしかない。

 「ああ、3月11日以前に戻ってくれないかなあ」

 ご主人は何度もこの言葉を繰り返した。

汚染の数値公表は正義か?

事故後の福島では、子供たちを外で遊ばせないようになったという。いくつかの小学校を担当されている校医さんが、「近視の子供たちが爆発的に増えている」とおっしゃった=2012年8月18日、福島県西郷村

 那須からすぐ、県境を越えた福島の西郷(にしごう)村では、キリスト教団体の福祉施設を訪れた。知的障碍に加え、幼児虐待やネグレクトで家を失った子供たちが暮らしている。園庭はすでに除染されていたが、通路脇のモニタリングポストは0.59μSv(マイクロシーベルト)毎時という線量を示していた。

 ここでは園長先生から話を伺った。

 「放射能汚染による人体への影響以前の問題として、まず基本的人権の蹂躙があります」

 誕生日は祝うのだということを、園に来てから初めて知った子供たちが多いという。なんとか普通の生活をさせてあげたいという先生がたの思いがあるなか、今回の原発事故が起きた。

 西郷村一帯も福島の他の地域と同じく高濃度に汚染された。子供たちは夏場でも長袖を着て、窓を閉め切った部屋で暮らさなければならなくなった。外では遊べない。行きたいところに行けない。食べたいものも食べられない。まさに人権を失している状態だ。

 この福祉施設でも、剥ぎ取られた園庭の土は隅に盛られブルーシートをかけられていた。園の外に出すことが許されないからだ。すぐ横には飛行機形の遊具があった。試しにそこで線量計を出してみると、1.62μSv毎時という高い数値が出た。子供たちが手に触れる可能性がある場所で、強制避難地域なみの線量だ。

 園長さんは語気を強めておっしゃった。

 「たしかにひどい数値です。ならば出ていけばいいというが、子供たちを抱えてどこに出ていけるというのか。私たちはここで暮らすしかないのです」

 もっともな言葉だ。汚染地域だとはいえ、大半の人は移住などできない。

 私の胸には迷いが生じ始めた。線量を測って歩き、苦しみの声に耳を傾けることはある種のフェアな行為だと信じていた。だが、そこで暮らし続けるしかない人々の苦しみを知った上で線量の数値を公表することが果たして正義と言えるのかどうか。この葛藤は旅について回る重しとなった。

「無理に戻ってこなくていいから」

 福島市内では軒並み高い線量を計測した。市中心部の信夫山(しのぶやま)で1.34μSv毎時。麓の高校の校庭では部活動の生徒たちが激しいランニングをしていた。土ぼこりも吸いこむだろう。この子たちは大丈夫なのかと心配する私の方がどうかしているのだろうか。

 住宅街でもある文知摺(もちずり)観音周辺では1.48μSv毎時の数値が出た。周囲ではごく普通に人々が暮らしている。だが、畑の農作物は一カ所に集められ、腐敗していた。おそらくは出荷できないのだ。

 高い線量に唖然としながらも、この夜は福島市内のWさんの家に泊めてもらった。Wさんは塾教師のかたわら、放置された畑を借りて開墾し、自給のための野菜を育ててきた。また奥羽山脈のブナ林に入ってイワナを釣り、キノコを探し、山菜や木の実を採取する生活をしてきた。縄文人の暮らしにヒントを得た自然との共棲だったという。
原発事故以降、畑はやはり汚染され農作物を育てることが不可能になった。渓流魚も基準値の100ベクレルを超えているため釣ることができない。Wさんは生活のフィールドを失ったのだ。

 「でもね、自分はこの自然の一部ですから。安心できなくなったから捨ててよそへ行けばいい、というのは現代人の身勝手であるような気がするんですよね」

 福島名物の円盤餃子を肴に酒を酌み交わしたWさんだったが、そばにいた高校生の娘さんにはこう話した。

 「大学で福島から出ていきなさい。無理に戻ってこなくていいから」

 娘さんは返事をしなかった。その沈黙の時間が、私の耳には声にならない悲嘆として届いた。

炎天下で旅の意義を思う

 福島市から宮城県境に向けて、国道4号は延々と上り坂が続く。ここはきつかった。漕いでも漕いでも坂が現れる。

 炎天下の坂道で、農家の奥さんたちが桃や梨を売っていた。奥さんたちの頭上にはパラソルがあったが、アスファルトの路上なのだからうだる熱気はたいへんなものだろう。でも、車を止めて果物を買おうという人は見当たらなかった。

 原発事故以来、福島の農家は除染作業に追われた。土を入れ替え、果樹の皮を剥ぎ、なんとか食べてもらえる桃や梨を作ろうとした。その結果、基準値を超えない果実がようやく収穫できるようになった。しかし売り上げは伸びない。福島産と聞けば、消費者は手を出さない空気になっている。そして今路上に座り続け、奥さんたちはどんな気持ちだろう。

 やはりここで思った。復興に向け、必死になって立ち上がろうとしている人たちにとっては、線量の話題が出るだけでもいやなものだろう。福島の大半が汚染された事実をなかったことにするのは無理な話だが、ここで農業を営んで暮らしていこうとする人々にとっては、触れて欲しくないのが本音ではないか。

 では、私は何をやろうとしているのか。このまま自分だけの旅として収めるべきではないのか。

似顔絵師と大道芸人

 その後、私は仙台、多賀城、塩竈と走り抜け、津波の爪痕がそのまま残っている東松島から石巻に入った。石巻は震災から1年半が過ぎても街の半分は壊れたままだった。

 ここで2人の被災者に会った。1人は似顔絵師だ。津波の水が引くまでの2日間、家族とともに屋根に上り救助を待ったという。全員助かったが、街は壊滅状態だ。絵の道具もすべて流された。家族それぞれの奮闘、生きていくための総力戦が始まった。大道芸人の仲間たちが絵の道具を送ってくれて、似顔絵師の仕事が再開できるようになったのは震災から半年後だった。

 ところがここで変化があった。お客さんのなかに家族を亡くした人たちが交じり始めたのだ。小学校に入学する予定だったお子さんの写真を持ってお母さんがやってくる。せめて絵の上だけでも成長させて欲しいと。お母さんは泣きながら絵の仕上がりを待つ。似顔絵師も泣きながら描く。こうしたことが続いた。

 似顔絵師は精神的に不安定になり、一人のときに声をあげて泣いたりするようになった。そんなとき奥さんが、「それは供養なのよ」とつぶやいた。そのひと言から、彼はこの仕事を被災地で続ける覚悟ができたのだという。

 もう1人は、オルガンを弾く大道芸人だ。パニック障碍の症状があるこの音楽家は、

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