開沼博(かいぬま・ひろし) 立命館大学衣笠総合研究機構准教授、福島大学客員研究員、東日本国際大学客員教授
1984年、福島県生まれ。東京大学文学部卒、同大学院学際情報学府博士課程単位取得満期退学。専攻は社会学。著書に『はじめての福島学』(イースト・プレス)、『フクシマの正義「日本の変わらなさ」との闘い』(幻冬舎)ほか。
※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです
ステレオタイプ化された認識を刷新することは簡単ではない。それはメディアやジャーナリズムと無関係なわけではないだろう。
例えば、2018年11月18日に福井新聞が論説として配信した記事「福島第1原発 収束程遠い状況が今なお」は、福島第一原発の廃炉において溶け落ちた燃料であるデブリの取り出しの見通しが立たず、汚染水を多核種除去設備などで処理した水の入ったタンクが「墓標のように映る」とする。
そして、「一方でそうした状況を打開しようと、奮闘するのは立地自治体である浪江町の伊沢史朗町長だ。町の96%が帰還困難区域で、産業拠点などの再生計画を推し進めている。その過程で自らの町に広大な中間貯蔵施設を整備し除染土壌などを受け入れることを決断した。『殺されるかもしれんと思った』の一言がずしんと響いた」と述べる。
しかし、本当にデブリは取り出しの見通しが立たないのだろうか。当初、放射線量が高くアプローチが困難な事故を起こした原子炉内部の状況は、推測しようにも手がかりのない状況が続いていたが、様々な角度からデータを取る中でデブリの位置や状態が徐々に分かってきた。今年は、デブリが実際にどの程度の硬さか調べ、取り出し作業をどう進めるかを検討するため、ロボットで物理的にデブリに接触することも予定されている。
処理済み水が入ったタンクがそこに立ち続けているのはなぜか。それを処分しようとする議論に対して、地元住民に慎重な声が多いのは事実だ。しかし、その背景を丁寧に聞き取ってみると、ジャーナリズムがその事実を他人事のように報じることに違和感を抱かずにはいられない。例えばこの先、タンクの中の水の処分が具体的なプロセスに入った時に、あたかも福島の大地・大気・水がこれまでにない危険にさらされているかのようにほのめかす情報がメディアを通じて大量に流通したとすれば、風評や差別が再燃する。多くの慎重論は、放射線の問題よりも、メディアの動きを懸念している。そういった背景を丁寧に説明することなしに、表面的な話だけ切り取れば、それこそ風評加害になる可能性につながる。
デブリにしてもタンクにしても、どうにか状況を改善しようと、そこに暮らす、少なからぬ人が被災を経験した上で懸命に努力を続けている。何も進んでいないかのような単純な物言いをするのではなく、何が進み何が進んでいないのか丁寧に解説したり、困っている人がいるならその困惑の背景を丁寧に解き明かしたり、自分たちに何ができるか考えるきっかけをつくる記事を書いたりすることはできる。それこそがメディアやジャーナリズムの役割ではないだろうか。
もちろん、このデブリ・タンクの話は「そう解釈もできる」という水準では誤りではない。東電や政治・行政への責任追及であり叱咤であり必要なことだというのであればそれもそうだろうし、そうやって無関心になりがちな問題に目を向けてもらいたい思いから書かれた記事だと言われれば理解できる。