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奪還から1年半、シリア北部を行く

ISとは何だったのか 世界の無関心に疲れる人々

安田菜津紀 Dialogue for People所属フォトジャーナリスト

夕刻、ラッカ中心街の公園に集まってきた子どもたち

 2011年3月、アサド政権に対するデモがシリア各地で広まり、8年という月日が経った。昨年9月に在英NGO「シリア人権監視団」が公表したシリア内戦の死者数は36万人を超え、そのうちの3分の1が民間人とみられている。ある時、隣国で避難生活を送る、母親になったばかりの友人がふと、「シリアは死んでしまった」とつぶやいたことがある。「革命が始まったとき、こんな事態になるとは想像していませんでした。もし過去に戻れるならば、そんな″革命〟は選ばなかったでしょう。小さな子どもたちや友人たちが死んでいく、そんな自由は求めていなかったのに」

 そんな中で昨年12月、シリア北部に駐留している米軍が撤退するというニュースが大々的に報じられた。トランプ大統領は「イスラム国は今にも崩壊しようとしている。100パーセントの勝利後、われわれは撤収する」と成果を強調する言葉をツイッター上に並べていった。

 過激派組織「イスラム国」(IS)は一時、英国全体ほどもある土地と、1千万人以上の住民たちを支配していたものの、シリア東部に位置する最後の拠点を失い、シリアではほとんど壊滅状態にある。けれどもトランプ大統領の言葉とは裏腹に、今年1月16日、北部の街マンビジュでパトロール中の駐留米軍部隊を狙ったとされる自爆テロが起き、米兵4人を含む16人が亡くなった。米軍撤退の宣言は果たして、内戦が既に終結しつつあることを意味しているのだろうか。今年1月、シリア北部地域を取材した。

「天国の広場」は「地獄の広場」に

破壊の爪痕が残るラッカ市街地。この時期は雨季であるため、路上に水がたまってしまう

 かつてISの「首都」とされたシリア北部の街、ラッカ。米軍の支援を受けたクルド人部隊を主力とする「シリア民主軍」(SDF)により、17年10月に奪還された。あれから1年半近くが経つ今も、破壊の爪痕は街の至る所に生々しく残されている。崩れかけた建物の間を車が走り去る度に砂ぼこりが舞い、人々が顔をしかめる。それでも内戦前の人口が22万人ほどだったこの街に、約15万人が帰還したとされる。瓦礫をかき分けるようにして広がる市場には買い物客が行きかい、街は少しずつ息を吹き返してきたかに見えた。

ISがかつて使っていた部屋の中には「アッラー以外の神はなし」と書かれたロゴがそのまま残されていた

 ただ、戻ってきた人々の生活はなお厳しい。かつて「天国の広場」と呼ばれた街中の環状交差点は、IS支配下で公開処刑場となったことで知られている。和やかに人々が集っていた場所が、「地獄の広場」と化したのだ。再建のための工事が進むその広場を囲む瓦礫の中から、子どもたちが何かを黙々と拾い集めていた。

 「鉄を拾っているの」。アミナちゃんは、まだ4歳の少女だった。兄たちと共に埋もれた鉄くずを集めて換金し、家族の生活の糧を得ているのだという。一日歩き回ったとしても、稼ぎは1ドルに満たない日もある。帰還したばかりの両親は、復興道半ばのこの街でまだ仕事を得られずにいるのだという。

バシールさんの自宅からは、再建中の「天国の広場」が見渡せるものの、当時の記憶までは塗り替えることができない、と語る

 この広場の脇に自宅がある一人の男性が声をかけてきた。バシールさん(45)の自宅は、もはや原形をとどめていないほどゆがんだコンクリートの階段をのぼった2階にあった。砲撃に見舞われたという、ぽっかりと穴のあいた壁からは、あの広場が一望できた。「昔は窓からの眺めが自慢だった。行きかう人々を見ながら、水たばこをよく吸ったものだ」と怒りを込めて語る。「だがISが来てからは毎朝窓を開けると、槍に刺さった首がさらされているのを見なければならなかった」

 そろりそろりとまた階段を下りると、バシールさんの自宅から数軒先の民家が物々しく警備されていた。ちょうど弾薬の撤去作業が行われていたのだ。かつてISが武器庫として使っていたという簡素な建物からは、続々と弾頭などが運び出され、あっという間に軽トラックの荷台が埋まっていった。人々の生活の場に、これだけの武器が1年以上も放置されていたのだ。そんな光景を遠目に見つめながらバシールさんが小さくつぶやいた。「あの記憶を消してほしい、誰か消してくれないか」

収監されている外国人戦闘員

 一見、ISはこの街を去ったように見えても、思想としては残り続けていると、住人たちからは不安の声も聞かれた。現に私たちが足を踏み入れる直前の1月8日にも自爆テロが起こり、17人が死傷している。ISとは何だったのだろうか、そしてなぜここまで根深くこの地に残り続けるのだろうか。

 ロンドン大学キングスカレッジの過激化・政治暴力研究国際センター(ICSR)が昨年7月に発表したデータによると、これまで80カ国から4万1千人以上がISに加わったという。シリア民主軍(SDF)の発表によると、今年2月時点で、50カ国から集まった800人近い外国人戦闘員が収監されているという。そのうちの2人にインタビューすることができた。

 詳細な場所を明かさないように、とSDFの担当者に何度も念押しされた後、薄暗い部屋に最初に通されたのは、イギリス出身という男性A氏だった。祖父母はバングラデシュからの移民だったという。どこかおどおどしている目つきがまだあどけなくも見える。15年にシリアに渡航したというA氏は、当時まだ19歳だったという。

 「差別とか貧しさとかを理由にシリアに渡航したんじゃないかと思うかい? でも僕自身は移民だということを理由に差別を受けたことが本当に、一度もないんだ。父も正義感の強い人だったし、その影響を受けて僕自身も大学で法学を専攻していた」

 シリアの窮状はニュースで逐一見ていたのだという。「オバマが口先だけで、結局は何もしなかったということもだ」。やがて人々を弾圧し続けているアサド政権と闘うために、外国人の戦闘員を受け入れている組織を探した、それがISだった、と彼は語った。ただ実際の組織運営はずさんなところも目立ち、「ただただ煽情的だった」と振り返る。A氏は曖昧(あいまい)に笑いながら、「自由とは高くつくものだ」と後悔を口にした。「なぜ、シリアの人々は自分の助けなんかいらなかったとすぐに気づけなかったのだろう。世界中からNGOが集まっている上に、自ら救出活動に奔走する住人たちがいる。結局出過ぎたことをしただけだったんだ」。両親との連絡はついているものの、帰国のめどはたっていないという。

生き残ったのは僕だけだ

淡々と取材に応じるB氏

 次に通されたのはチュニジア出身の男性B氏だった。20歳のときに故郷を去り、トルコ経由でシリアに入国したという。当時まだ大学に在学中だったというB氏は、流暢(りゅうちょう)な英語を話した。

 チュニジアは「アラブの春」の後、安定を取り戻したかのように報じられることがある。けれども実際その政治基盤は、イスラム厳格派の排除のもとに辛うじて成り立っているもろいものだ。その排除の結果、行き場を失った一部の人々が過激化し、アルカイダやISなどに追いやられていったとみられる。B氏が渡航した15年時点で、既に6千人がチュニジアからISに渡っていたとされている。

 ISに加わる前は別組織にいたものの、「ISこそが最も防衛体制が整い、かつ外国勢力の影響を受けずに決定権がある組織」だと思い、移ることを決めた。そんなB氏にとって転機になったのが、人を介して知り合った地元女性との結婚だった。2人の子どもにも恵まれ、次第にISの在り方に疑問を抱き始めたという。「妻と子どもの存在がなければ、ただ戦闘で突っ込んで死んでいただろう」。妻は元の実家であるシリア北部の街に戻り、以後一度も面会は許されていない。「同じ村から6人でシリアにやってきたが、生き残ったのは僕だけだ」と彼は苦笑いした。乾いた笑い声だった。

 ただ2人とも、どんな職務に就いていたのかについての詳細にはお茶を濁した。女性の奴隷市場も、そして虐殺についても目にしていないというのだ。15年2月に起きた後藤健二さんの殺害に関してもA氏は「インターネットで、ジハーディ・ジョン(英国出身の戦闘員であったモハメド・エムワジ氏の通称)が日本人を殺害したと後に知った」と語っている。裁きを受けるかもしれない立場にある中で、詳細を語りたがらないことは想像できる。去り際にA氏は「このたばこ、よかったら持って行ってもいいかい。普段はたばこが禁じられているんだ」と立会人の顔色を伺いながら火をつけた。「ほら、たばこだって吸うんだ。決して過激なイスラムの思想を持っていないって分かるだろう」と。

 A氏が語ったように、ISは差別や貧困にあえぐ者たちの受け皿だったと語られることが少なくない。ただ、その一面だけでは語りきれないことがあるのだろう。それはISの戦闘員の妻となった女性たちも同じだった。

 現在、国内避難民キャンプで生活を送るIS戦闘員の妻子は2千人を超える。インドネシア出身の女性Cさんは、1歳2カ月となる息子と共に故郷への帰還を待ち続けている一人だ。シリア渡航前は大学で経済学を学んでおり、B氏と同じく英語も堪能だった。元は信仰に対してどちらかというと距離を置き、男女交際に後ろ向きな両親に反発するように、男友達と頻繁に遊んでいたのだという。そんな彼女が宗教に傾倒するようになったきっかけは「失恋だった」のだという。その心の傷から目をそらすように、日々祈りを捧げるようになった。

 トルコに渡航し、シリア入国の機会を伺っていた矢先に出会ったのが、後に夫となるチュニジア出身の男性だった。「最初はIS支配下での生活は何の問題もなく、天国のようでした。けれども統制は徐々に厳しくなり、特に女性たちの肌の露出や外出に関して、彼らは常に目を光らせていたんです」。いよいよ戦況が厳しくなると、月ごとに支払われていた夫の給料は日払いになり、額もぐっと減っていった。1カ所にとどまることが危険となり、家から家へ、街から街へと転々とした。「そんな生活の中でも夫は優しく、いよいよ街に危険が迫ると、私たちを先に逃がしてくれたんです」。それが17年5月のこと、以来彼の消息は分かっていない。「後悔? しているともいえるし、していないともいえるわ。確かにシリアに渡ったことは間違いだったと思う。人生を無駄にしたかもしれない。でも、インドネシアに残っていたってどうせ、両親に左右されるだけの人生を送っていたと思うわ」

息子との帰国を望んでいるCさん

夫のDVに苦しんだDさん

 一方、シリア渡航時は18歳だったというベルギー出身の女性Dさんは、少したどたどしくはあるものの、「英語はもう覚えていないから」とアラビア語でこれまでの日々を語った。アラビア語はシリアに渡ってから身につけたのだという。Dさんがイスラム教徒となったきっかけは、自身の家庭環境にあった。両親は離婚し、末っ子だったDさんは孤独を深めていった。学校にもなじめず、問題を起こしては転校を繰り返していた。そんなある時、ふとしたことがきっかけで近所に暮らすムスリムの家族と親交を持った。「とても仲のいい家族で、なぜそこまで深い絆が持てるのか知りたかったんです」。自身もムスリムになった後も、心の内の寂しさは埋まらず、フェイスブックで知り合ったフランスに暮らすアルジェリア系の男性と結婚することを決めた。「彼は過激な思想の持ち主で、結婚して間もなく、一緒にシリアに行き、ISに加わろうと持ちかけられたんです」

 DさんはCさんとは異なり、夫の暴力に苦しんだという。携帯電話を見られたり、気にくわないことがあれば部屋に閉じ込められたりと、行動は常に監視されていた。「やがて戦闘に巻き込まれて夫は亡くなりました。それは彼からの暴力から逃れるために、私が望んでいた結果でした」

 彼らの言葉を聞くほどに、ISとは何かを単純な言葉で片づけることはできないのではないかと思えた。それは単に私たちと違う″異常〟な集団として切り離せるものなのだろうか。些細(ささい)なきっかけが積み重なった彼ら、彼女たちの歩みを振り返ると、ある日突然自分自身が「加害者」側になる可能性は、私たちが想像している以上に高いのではないだろうか。

 けれども彼女たちの帰還は容易ではない。今年2月、15歳の時にシリアに渡りISに参加したバングラデシュ系の英国人、シャミマ・ベガムさんが市民権を剥奪(はくだつ)される見通しであることが報じられた。彼女は赤ちゃんと帰国を望んだが、赤ちゃんは亡くなってしまった。英国ではすでに、テロ組織などに加わった二重国籍者100人以上の市民権が剥奪されている。ただバングラデシュ外務省もシャミマさんのバングラデシュ側での市民権を否定しているため、彼女の今後の行き場はまだ不透明なままだ。

 ヨーロッパ各地でもISが犯行声明を出したテロが起きてきたこともあり、こうした帰還に抵抗を感じる声も少なくはない。監視を続けるのか、あるいはどのように社会復帰していくかと課題も山積みだ。

危惧される米軍撤退後の「空白」

 シリアの情勢そのものも、人々が平穏に暮らせる状態にはまだほど遠い。現在シリア北部を統治しているクルド人部隊は、トルコがテロ組織とみなしているクルド労働者党(PKK)とつながりが深いとされ、そのイデオロギーに対して、元々その地域に住んでいたクルド人の部族や、アラブ人の多く暮らす街の人々からも反発の声がある。米軍撤退後の″力の空白〟が生み出されることにより、クルド人勢力の拡大を恐れるトルコが再び越境攻撃を仕掛けてくるのではないかという懸念もある。その空白地帯で新たな虐殺が始まってしまう、という構図は、イラクで米軍撤退後にISが台頭したときと何ら変わらない。こうしたことを受け、米政府はシリアからの「完全な」撤収を命じていた当初の方針を転換し、シリアに200人の米軍兵士を残すと発表した。

 加えてISに人々の目が集まるがゆえに、その他の悲劇が見過ごされてきた現状もある。空爆による犠牲者は増え続けている他、故郷に帰還を試みた難民たちが政権側に逮捕、拘束されることも少なくない。そもそも現政権の迫害から逃れた人々にとって、その脅威が変わらず残るシリアに帰るということ自体が壁となっている。

 「何より悲しいのは、人々の生活が困窮していくことはもちろん、世界の報道の目がほとんどISの恐ろしさにしか向けられなかったことだ。ここで起きていることが辛うじて伝わるのは、自国の人間が人質になったときだけだ」。援助関係者が語る言葉には、静かな怒りがこもっていた。内戦が長引き、時折「支援疲れ」という言葉を耳にすることがある。けれどもここで主語を違えては本質を見失ってしまう。世界の無関心に疲れているのは、シリアの人々のはずなのだから。

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※本論考は朝日新聞の専門誌『Journalism』4月号から収録しています。