安田菜津紀(やすだ・なつき) Dialogue for People所属フォトジャーナリスト
1987年神奈川県生まれ。上智大学卒。カンボジアを中心に、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で貧困や災害の取材を進める。東日本大震災以降は岩手県陸前高田市を中心に被災地を記録し続けている。2012年、「HIVと共に生まれる―ウガンダのエイズ孤児たち―」で第8回名取洋之助写真賞受賞。著書に『君とまた、あの場所へ シリア難民の明日』(新潮社)。
※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです
ISとは何だったのか 世界の無関心に疲れる人々
かつてISの「首都」とされたシリア北部の街、ラッカ。米軍の支援を受けたクルド人部隊を主力とする「シリア民主軍」(SDF)により、17年10月に奪還された。あれから1年半近くが経つ今も、破壊の爪痕は街の至る所に生々しく残されている。崩れかけた建物の間を車が走り去る度に砂ぼこりが舞い、人々が顔をしかめる。それでも内戦前の人口が22万人ほどだったこの街に、約15万人が帰還したとされる。瓦礫をかき分けるようにして広がる市場には買い物客が行きかい、街は少しずつ息を吹き返してきたかに見えた。
ただ、戻ってきた人々の生活はなお厳しい。かつて「天国の広場」と呼ばれた街中の環状交差点は、IS支配下で公開処刑場となったことで知られている。和やかに人々が集っていた場所が、「地獄の広場」と化したのだ。再建のための工事が進むその広場を囲む瓦礫の中から、子どもたちが何かを黙々と拾い集めていた。
「鉄を拾っているの」。アミナちゃんは、まだ4歳の少女だった。兄たちと共に埋もれた鉄くずを集めて換金し、家族の生活の糧を得ているのだという。一日歩き回ったとしても、稼ぎは1ドルに満たない日もある。帰還したばかりの両親は、復興道半ばのこの街でまだ仕事を得られずにいるのだという。
この広場の脇に自宅がある一人の男性が声をかけてきた。バシールさん(45)の自宅は、もはや原形をとどめていないほどゆがんだコンクリートの階段をのぼった2階にあった。砲撃に見舞われたという、ぽっかりと穴のあいた壁からは、あの広場が一望できた。「昔は窓からの眺めが自慢だった。行きかう人々を見ながら、水たばこをよく吸ったものだ」と怒りを込めて語る。「だがISが来てからは毎朝窓を開けると、槍に刺さった首がさらされているのを見なければならなかった」
そろりそろりとまた階段を下りると、バシールさんの自宅から数軒先の民家が物々しく警備されていた。ちょうど弾薬の撤去作業が行われていたのだ。かつてISが武器庫として使っていたという簡素な建物からは、続々と弾頭などが運び出され、あっという間に軽トラックの荷台が埋まっていった。人々の生活の場に、これだけの武器が1年以上も放置されていたのだ。そんな光景を遠目に見つめながらバシールさんが小さくつぶやいた。「あの記憶を消してほしい、誰か消してくれないか」