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天皇制の謎と民主主義

「基盤装置」の危うい未来

大澤真幸 社会学者

訪英先のバッキンガム宮殿で立ち話をする(左から)エリザベス女王、天皇、皇后両陛下と夫のフィリップ殿下=2007年5月

 天皇は――制度としての天皇は――謎である。外からこれを見ている者にとっても謎だが、それを維持している日本人にとっても深い謎だ。天皇制はなぜあるのか。何のためにあるのか。日本人は、それを明晰に説明することはできない。ヘーゲルに、「エジプト人についての謎は、エジプト人にとっても謎である」という格言めいた命題があるが、日本人は、天皇制に関して、まさにこのエジプト人である。

なぜ続いてきたのか

 天皇制の歴史を振り返ると、謎はいくぶんかは小さくなるだろうか。逆である。謎は深まるばかりだ。最も大きな謎は、天皇制の継続性である。日本の歴史を振り返ってみると、その大半の期間において、天皇や朝廷は、たいした機能を果たしていないように見える。一見、ほとんど無用である。それどころか、ときの最高権力者にとって、天皇制は、ないほうがよい障害物だったのではないか、と推測したくなる期間が実に長い。日本の歴史の中には何度も、天皇制が廃棄されてもふしぎはないような局面があったのに、結局、天皇制は温存された。武家政権は、天皇制を完全に打倒し、撤廃することもできたように見えるのに、そうしなかった――そうできなかったのだ。武家政権は、互い同士では潰し合うこともあったのだが、それよりはるかに弱い朝廷を完全に廃棄することはなかった。どうしてなのか。

 とりあえず、最小限のこととして、次のように言うべきである。これほど無用に見えるのになお日本人がそれを棄てることができないのだとすれば、日本人は、天皇制をよほど必要としてきたのだ、と。しかし、日本人は、なぜ自分たちがそこまで天皇(制)に執着するのか、それを意識化できてはいない。

 天皇制の継続性は、「万世一系」という語によって表現されている。天皇の地位は、最初の天皇から今上天皇まで断絶することなく世襲されてきた……ことになっている。歴史上、世界各地にさまざまな王権が存在したし、現在でも存続してもいるが、しかし、日本の王権、つまり天皇制ほど継続性をもった王権は、ほかにない。万世一系であることの副産物は、天皇制には王朝の観念がない、ということである。中国の皇帝にも、またヨーロッパの王権にも、王朝という見方がある。たとえば、現在のイギリスの君主(エリザベス2世)は、ウィンザー朝――かつてハノーヴァー朝と名乗っていたこともある――に属している。ウィンザー朝=ハノーヴァー朝は、スチュアート朝の後に、イングランドに君臨した。だが、万世一系であれば、王朝によって、王の系列を区別する必要はない。王朝の観念の不在は、天皇が姓をもたない、ということを意味している。他の国の君主と違って、日本の天皇には姓がない。一般に、王朝は、「姓」によって区別されるからである。

影響力の範囲・直属の軍事力

 日本の天皇制が特異なのは、こうした時間的な継続性に関してだけではない。その空間的な広がりに関しても、それは例外である。今しがたも示唆したように、王権自体は、一般的に見られる社会システムである。細部を省略して基本的なことだけを述べれば、天皇は、呪術や神話を権威の源泉とする、比較的原初的なタイプの王に属する。たとえば、『古事記』や『日本書紀』などのテクストのかたちで自身の正統性を公言している点では、天皇制は、最も原初的な王権や首長制よりも複雑なシステムだが、なお呪術王の系列に属している。このようなタイプの王権は、めずらしくはない。

 特異なのは、その影響力の範囲である。今、前近代の天皇制の影響力が、最終的には(北海道を除く)日本列島のほぼ全域にまで及んでいたと考えると、この広がりはやはり破格である。原初的な王権がその権力や影響力を及ぼしうる範囲は、一般にそれよりもはるかに狭い。人々が王の存在をありありと実感できる範囲を、大きく超えることができないからだ。たとえばもし天皇制の影響力の範囲が、せいぜい畿内に留まっていたとするならば、(原初的なテクストだけをもつ)呪術王が支配する領域としてごく普通だと見なされたであろう。しかし、曲がりなりにも天皇制を受け入れ、尊重していた社会的領域が、最終的には、日本列島のほぼ全域だったとすると――中国の皇帝の支配が及んでいた領域と比べれば著しく小さいとはいえ――、それは、呪術王の支配領域としては例外的に大きい。

 天皇制のもうひとつの顕著な特徴は、直属の軍隊をもたない、ということである。古代の天皇は、直接的に動員しうる軍事力をもっていた。しかし、ある時期(平安時代のごく初期)以降、天皇は軍事力とは切り離された。それゆえ、天皇や朝廷は軍事的にはきわめて弱かった。軍隊とのこのような(無)関係という伝統は、今日の天皇制にも受け継がれている。もちろん、現在の象徴天皇が、軍隊(自衛隊)から切り離されているのは、直接的には、大日本帝国憲法の下で天皇が統帥権をもっていたことに対する反省からである。が、今述べたように、むしろ、天皇自身が、軍隊の最高指揮権を握っていた明治以降の体制は、天皇制の歴史にとっては例外である。軍隊から切り離されている戦後の天皇は、天皇制の常態への復帰だと解釈することができる。

 これは、日本の天皇制とヨーロッパの王権との顕著な違いのひとつである。ヨーロッパの現代の君主は、すべて軍隊と直接的に結びついている。たとえば、イギリスの国王もスペインの国王も、軍の最高司令官である。単に形式的にそのような地位が与えられているだけではない。彼らは、正式に軍事教育を受け、軍の関係者と親密な関係にある。たとえば、イギリスの王室の男子は、軍事訓練を受けることになっている。ウィリアム王子もヘンリー王子も、サンドハースト王立陸軍士官学校を卒業しており、彼らの父チャールズ皇太子とともに、軍との間に強い紐帯を維持している。

 要するに、歴史的に見て天皇制はきわめて特殊な王権であり、多くの謎に満ちている。この謎を、ここで解くつもりはない。ただここでは、天皇制の独特の性質を銘記した上で、現代の天皇制について考えてみたいだけだ。

戦後の左翼の目標

 天皇制はたいした機能を果たしていないように見えるのに、日本人はそれを放棄することができない、と述べてきた。この逆説が極大化したのが、戦後である。明治維新以降の政府は、天皇に、積極的で明示的な機能を与えようとした。戦後の政治と憲法は、これに対する反省と批判から始まっている。日本国憲法によれば、天皇は象徴である。「日本国」と「日本国民統合」の象徴だ、と。だが、これが何を意味しているのかは確定できない。どこにも明確に規定されていないからだ。憲法にある「象徴」は、消極的な概念である。「消極的な」というのは、「それが何であるか」ということよりも「何でないか」ということに力点が置かれている、という趣旨だ。日本国憲法において、「象徴」という観念は、天皇を政治的に無力化することを目的として活用された。そのため、戦後、天皇が何をする人なのか、何をするためにいるのかを積極的に規定しないまま、日本人は、天皇制を維持した。これが、GHQの、そしてアメリカの意志でもあったのだが、日本人は、これを喜んで受け入れた。

 しかし――先に結論を述べておけば――客観的に見れば、戦後、天皇制は、日本の政治に対して、ある重要な機能を果たしていた。天皇制が、民主主義が可能であるための最小限の条件を整えた、と言ってもよいほどである。これがどのような意味なのかを説明する前に、小さな回り道を通っておきたい。

 戦後、日本人は全員一致で天皇制の存続を望んだ……かのように論じてきた。しかし、敗戦後の半世紀近く――1980年代までは――、より率直にいえば昭和天皇が存命だったあいだは、左翼の大半は、天皇制に批判的であり、天皇制の廃止や打倒を政治目標にしていた。そして、知識人や大学生の多くは、左翼にシンパシーをもっていた。今日では、しかし、左翼やリベラルを自任する人でも、声高に天皇制の廃止を主張しない。仮に天皇制に批判的な目を向けていたとしても、天皇制の打倒こそが日本の政治における最も重要な課題であると思っている左翼は、今や皆無だと言ってもよい。

 振り返ってみると、敗戦後の半世紀弱は、天皇や天皇制に対する批判や反対を公然と主張できた、日本史上、唯一の期間であろう。日本史にはひとつの法則がある。天皇や朝廷の敵と見なされた者は、必ず、政治的な敗者になるのだ。天皇・朝廷の全面的な敵となりながら、なお政治的に生き延びたケースは、たったひとつしかない。承久の乱のときの関東武士――北条義時・泰時に率いられた鎌倉の武士勢力が、その唯一の例外である。このとき初めて武士は朝廷を全面的に敵にまわした。そして彼らは圧勝した。このときこそ、鎌倉の武家政権は、京都の天皇制を廃棄してもかまわなかった(ように見える)のだが、そうはしなかった。鎌倉幕府は、後鳥羽上皇をはじめとする皇室の主だった者を遠流にするなど、彼らに厳罰を科したが、しかし、制度としての天皇や朝廷は温存したのである。とまれ、繰り返せば、この奇妙な例外を除くと、天皇や朝廷に反抗して政治的に生き延びた者は、日本史の中には誰もいない。このことを考えると、敗戦後の半世紀弱は、天皇制の打倒を叫んでも政治的に排除されることがなかった、日本史上の唯一の期間だったことになる。

 だが、今日の目から反省してみると、こう問いたくなる。あのとき、日本の左翼は、本気で天皇制を打倒するつもりだったのだろうか。彼らは、天皇制の存続を前提にした上で、つまり天皇制が消え去ることがない限りで、天皇制への反対を唱えたかっただけなのではないか。

天皇制廃止への本気度

成田空港反対運動で、抗議して道路に座り込むデモ隊=1978年7月、千葉県成田市三里塚

 極右と極左の両方のグループを渡り歩いた、見沢知廉という作家がいる。すでに故人となっているこの人物は、1995年に、獄中で書いた『天皇ごっこ』という小説を発表した。これは、天皇に関連した短篇をオムニバス形式で集めた作品である。

 この中に、次のようなシーンがある。これは、おそらく、見沢が実際に経験したことである。1978年の初夏、成田空港開港阻止のために千葉・三里塚に新左翼の活動家たちが集結した。赤、白、青等の色によって象徴される新左翼系諸セクトの活動家が一堂に会したのだ。しかし、1万数千人からなる全体集会は、まったく盛り上がらない。次々と各派のアジテーターが演説をするのだが、その度に、一部のセクトだけが喝采を送り、他は白けてしまうのである。戦略、闘争目的、それらの背後にある理論のすべてにおいて、各派の主張が異なっているからである。「インターナショナル」を合唱するにしても、セクトごとに歌詞の訳語が異なるために、歌も揃わない。

 最後に、アジテーションの名人とされている反対同盟委員長の戸川がマイクを握る。最初は、戸川の演説さえも、全体をまとめることはできない。だが戸川のある一言によって、情況が一変する。「さて」と一呼吸をおいてから、戸川は続ける。「そして何よりも――我々の唯一の目的は、天皇を、打倒することです……」。この言葉が吐かれた瞬間、オオオオという地鳴りのような叫びが参加者の全員からあがり、左翼系の諸団体が、一つになって共振した。「天皇を……殺すんです……」という戸川の呼びかけに対して、嵐のような絶叫が賛意を表明する……。

 これが見沢知廉の小説の一場面だ。このとき、左翼の活動家は、

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