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県民投票の結果を反映するために

問われる日本の民主主義と報道姿勢

元山仁士郎 「『辺野古』県民投票の会」代表

ウチナーンチュの力と憤り

沖縄県民投票で反対多数の一報を受け、記者の質問に答える元山仁士郎さんら=2019年2月24日、那覇市
 「県民投票は、予想外のことだらけだった」

 2月24日の投開票が終わってから、記者の方々が私や私の周りの人々に語った言葉だ。予想外だったこととは、後述する、投票率、得票数、署名数の三つを指していた。今回の沖縄県民投票は、沖縄や日本の人々だけでなく、記者たちの姿勢が問われたものにもなった。

 沖縄県民投票の設問は「普天間飛行場の代替施設として国が名護市辺野古に計画している米軍基地建設のための埋立て」について。結果は、投票率52.48%。投票総数60万5385票のうち、反対が43万4273票(71.74%)、賛成が11万4933票(18.99%)、どちらでもないが5万2682票(8.7%)であった。

 この結果は、県民投票条例第10条に規定されている「4分の1の壁」を超えられた点で、まずは成功と言える。同条では、賛成、反対、どちらでもない、のいずれか多い数が投票資格者総数の4分の1(28万8400人)に達したときは、知事は投票結果を尊重し、かつ首相と米大統領に通知すると定められていた。また、過去最多得票であった玉城デニー候補の票数(39万6632票)を上回るかどうかが一つのメルクマールとされていた。その中で反対票が玉城候補の得票数を上回ったことは、結果にさらなる重みを与えたと感じている。

 さらに、低投票率が懸念されていた中で、投票率が50%を超えたことには沖縄県民の底力を感じた。2018年11月28日には、菅義偉官房長官は県民投票の結果が移設工事に影響することは「まったくない」と述べていた。埋め立て工事を推進する国側、現場で作業を進める防衛省・沖縄防衛局は、県民投票に向けた討論の場に出席せず、説明責任を果たそうとしなかった。結果が出た後に、いつものように国側は「丁寧に説明する」と繰り返しているが、その絶好の機会であったはずの県民投票でなぜ説明責任を果たそうとしなかったのか、大いに疑問である。

 埋め立てを容認する立場にいる沖縄の自民党は全くと言っていいほど表に出なかった。また、沖縄の公明党や日本維新の会は移設反対の立場だが、静観していた。こうした雰囲気の中で、多くの人が投票所に足を運んだと私は見ている。「県民の心が一つになれば、想像をこえる大きな力を発揮する」。昨年8月に急逝した翁長雄志前沖縄県知事が病室で息子に語った言葉だ。条例制定のための署名数もさることながら、投票結果にもこの大きな力を感じた。

 しかし、このような結果にもかかわらず、県民投票の翌日から埋め立て工事は続いている。岩屋毅防衛大臣は3月5日の参議院予算委員会で、県民投票の結果にかかわらず、事前に工事を続ける方針を決めていたと明らかにした。「あらかじめ事業については継続すると決めていた。総理(安倍晋三首相)への報告は逐次行い、了解をいただいていた」とも説明した。

 「主権が国民に存する」この国で、こんなことがあり得るのだろうか。岩屋防衛大臣は、2月26日の記者会見で「沖縄には沖縄の、国には国の民主主義がある」と言ったが、沖縄は日本ではないということなのか。日本政府・現政権の対応に、強い憤りと悲しさを感じるとともに、声をあげない日本に住む人々への不信感が募る。日本は「民主主義」という価値を本当に大事にしているのだろうか。日本にとって民主主義とは一体何なのだろうか。疑問ばかりが頭に浮かんでいる。

私の1年より、沖縄の50年

 私が県民投票への模索を知ったのは一昨年2017年の11月9日だった。大学の学部の頃にお世話になっていた成蹊大学法科大学院の武田真一郎教授から県民投票の話を聞いた。端的に言うと、知事の埋め立て承認撤回を後押しするために県民投票が必要だという説明を受けた。武田教授は沖縄県を支援する全国の行政法研究者や弁護士からなる辺野古訴訟支援研究会のメンバーの一人でもあり、2000年に徳島市で行われた吉野川の可動堰計画の是非を問う住民投票の経験も持っていた。

 辺野古新基地建設をめぐる県民投票の議論は2016年から行われていたが、発議権を持つ知事や議員からはなかなか具体的な動きは起きず、かつ知事や議員が動いたのでは〝政治的〟とみなされかねないことから、県民が主体となる必要性を説かれていた。私は、武田教授から話を聞くまで中学・高校の授業で習う程度の直接請求の知識しかなかったが、教授の言う法的な意義だけでなく、歴史的・社会的な意義があると直観し、その日から県民投票に向けて少しずつ準備を始めた。

 2017年の12月上旬に「辺野古県民投票を考える会」を立ち上げ、12月27日に那覇市内で勉強会を開催した。やはり県民投票に関心のある市民は多く、100名ほど入る会場が満杯になった。その後は、2018年2月4日に行われた名護市長選挙を見守っていた。稲嶺進氏が3千票余りの差で渡具知武豊氏に敗れ、チルダイ(落胆)ムードに包まれながらも、県民投票の必要性はますます高まっていると感じた。3月4日に勉強会を名護市で開催し、約30名が参加。3月5日には辺野古キャンプ・シュワブゲート前でも勉強会を開き、約100名が説明を聞いた。懐疑的な意見もあったが、説明を受けると納得した表情の人が多いように見受けられた。

 その間、名護市長選挙後には、建設や小売り・流通業などを手がける「金秀グループ」の呉屋守将会長が、翁長知事を支持する「オール沖縄会議」の共同代表を辞任する意向を伝えた。理由は、名護市長選の責任を取るということと、「オール沖縄会議」では県民投票の検討すらされなかったことだった。この報道を受けて私は金秀本社に電話をした。日程の都合がつかず一度断られたが、3月中旬に先方から連絡があり、3月末に面談することとなった。面談ではぜひ一緒に実現しようと賛同いただいた。大学院を休学するかどうか悩んでいたが、この返事で県民投票の実現性が高まったと感じ、休学を決意する後押しとなった。私の1年よりも、50年先の沖縄の人々に活きる共通体験をいまつくりたいと思った。

世代間の対話と島々の対話

 私が直観した歴史的・社会的意義とは、主に「世代間の対話」と「島々の対話」の二つを指している。

 今回の県民投票は、私の祖父母を含む沖縄戦体験者がいる中で実施できる最後の機会になってしまうかもしれない。私たち若い世代が戦争体験者と改めて話し、沖縄戦/戦争と密接不可分な基地について一緒に考えてほしいと思った。私は祖父母に署名をもらいに行く際に、基地についてどう考えているのか、戦争のときどのような体験をしたのか、話を聞くことができた。また、沖縄の「祖国復帰」を経験している私の親にあたる世代からも、1972年の復帰前後の変化や、当時の望みと現状などについて聞いてほしいと思った。それが「世代間の対話」の目的だ。

 二つ目は「島々の対話」だ。沖縄は大小160の島々から成り、そのうち47島に人々が暮らしている。米軍基地は沖縄本島と呼ばれる島に集中しているが、他の島々の人々は基地に対してどう感じているのかを知りたい、さらに他の島々の問題も知りたいと思った。県民投票を通じて、沖縄の島々で課題を共有し、ともに解決していく一助になればいい。そんな思いから、私自身、八つの島を回り、その島に暮らす住民と話をしながら署名を集めた。条例が制定されてから投票日までの間にも四つの島を回り、県民投票までの経緯や辺野古基地問題の現状、私の思いを伝え続けた。それぞれの島で、人手不足や水不足、医療環境や教育環境の不備といった問題を聞くことができた。それらを沖縄本島での報告の中で話し、私自身がそれぞれの島々・地域を媒介する「メディア」の役割を果たした。

 県民投票のスローガンとして掲げたのは、「話そう、基地のこと。決めよう、沖縄の未来。」。普段、友達や家族とも話しづらい基地について、県民投票を入り口に話してみよう。投票するときは、沖縄の未来を見据えて投票しようという思いを込めた。対話を重ねて、一つの意思を示すことに重きを置いた。そのために、私自身が世代や立場、生まれ育った環境の異なる方々と話す姿勢を見せ続けた。

新しさとハードル

 昨年4月16日、「辺野古」県民投票の会(県民投票の会)を設立した。これまで勉強会や説明会に来ていただいた方々に声をかけ、立ち上げ時のメンバーは20名ほどだった。その友人・知人と輪が広がり、請求代表者は多いほうが運動が広がると見越して、2012年に直接請求が行われた「東京電力管内の原子力発電所の稼働に関する東京都民投票」の請求代表者31名を上回る33名を集めた。5月1日に沖縄県への代表者証明書交付申請を行い、審査ならびに手続きを経て5月23日から署名集めを開始した。地方自治法第74条に定める条例制定の直接請求には沖縄県の有権者の50分の1である2万3千筆ほどが必要だったが、私たちは有権者の10分の1である11万5千筆を目指して活動を行った。

 沖縄では1996年にも一度、県民投票が行われた。「日米地位協定の見直し及び基地の整理縮小に関する県民投票条例」に基づき、日本で最初に行われた都道府県単位での住民投票である。この県民投票の署名活動と今回の違いは主に三点ある。第一に、〝市民〟主体の運動であったこと、第二に設問がより具体的であること、第三に文字通り全県的な取り組みとしたことだ。

 前回の県民投票は、連合沖縄(日本労働組合総連合会沖縄県連合会)が主導した動きだった。詳しい内容は江上能義・琉球大名誉教授の論文「沖縄の県民投票」(1998年)に譲るが、当時の渡久地政弘会長が先頭に立って傘下の組合員に呼びかけ、街頭署名活動を行った。しかし今回の署名活動は、私のような学生や、弁護士、司法書士、会社役員など既存の政党や団体に依らない市民が始めた。たしかに6月頃から各政党、団体が徐々に協力を表明し、ともに署名集めを行っていたが、主に街頭に立って呼びかけをしたのは若者・市民であった。その〝新しさ〟が輪を広げる原動力となったように思う。

 次に、今回の県民投票では設問をより明確にした。前回の県民投票は、1995年の米兵による「少女暴行事件」を受け、県民総決起大会の要求事項にあった日米地位協定の見直しと、基地の整理縮小を一つの設問に盛り込み、賛否を問うものだった。これには、当時から「抽象的な要求」という批判があった。県民投票の2日後に行われた大田昌秀県知事との会談後、橋本龍太郎首相は記者会見で「地位協定の見直し及び米軍基地の整理・縮小を求める今回の県民投票に込められた沖縄県民の願いを厳粛に受けとめております」と述べた。しかし、「知事さんは、普天間基地の問題を含め、具体的な特定の基地の問題について言及されてはおられません」とも答えている。結果的に「整理・縮小」の名の下に、現在行われている普天間基地の移設/辺野古新基地建設が進められることとなった。こうした前回の県民投票の教訓も踏まえて、今回の県民投票は、沖縄県知事の権限であり、県民が選択できる「埋め立て」の賛否を問い、承認撤回の裁判にも活かせるものとした。

 全県での取り組みは、前述のように、沖縄の島々・地域を回ることで、そこに住む人々の議論を促すことができた。条例が制定されてからも、宮古島、石垣島、多良間島、久米島を回った。後述する市長らの県民投票不参加表明や、ハンガーストライキが注目を浴び、各島々の人々が思考し、議論する環境をつくりだすことができた。

焦りと広がり、県知事選へ

 署名集めの期間は2カ月間。しかし、1カ月経って集まった署名は5千筆程度と、必要数の2割程度に過ぎなかった。そのことが報じられた翌日から、事務所の電話が鳴り止まず、多くの方から叱咤激励や具体的な協力をいただくようになった。その後、沖縄県内でスーパー約60店舗を展開する金秀商事に協力を打診し、店頭での署名活動を強化するようになった。会のメンバーのみならず、

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