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多様性が発展させる民主主義

「新時代沖縄」をつくるポジティブパワー

徳森りま NGO「ちむぐくるアクション」発起人

 「めずらしい名前ですね――」 

 自己紹介の場面で必ずと言っていいほど言われる台詞だ。すかさず、私はこう返す。「父親が日系ペルー人で、ペルーの首都リマ市が由来なんです」。なるほど、と相手が頷いて腑に落ちた表情になる。

 沖縄県は歴史的に日本有数の移民県として知られており、県民の4人に1人は海外に親戚を持つともいわれている。琉球王国が廃止され、明治政府の「旧慣温存」政策によって農民層が重税と貧困にあえぐ中、移民政策が国を挙げて推進された。ハワイ、フィリピン、北米、南米、日本本土……。一獲千金を夢見て沖縄島から大勢の人々が国内外へ旅立った。

 筆者の父方の曽祖父母もその一例で、1世紀前に東海岸にある離島の平安座島(へんざじま)からペルー・リマ市へ移民した。そうして父の代までペルーでの暮らしを続けてきた。沖縄が米軍統治下から日本へ施政権が返還されることが決まり、これから経済が良くなるから沖縄に移りなさいと親戚から説得された父の家族は、「沖縄返還」の1972年、沖縄へ「引き揚げる」ことを決断した。

 しかしながら、ペルー育ちで日本語が理解できず、学歴も財産も持たない外国出身家族の来沖後の苦労は大変なものであった。筆者自身は沖縄生まれの沖縄育ちだが、「移民の子ども」として親の背中を見て育ってきた自負がある。

 先ほどの自己紹介のパターンには続きがあって、お決まりの質問が投げられる。

 「ペルーへ行ったことはありますか?」「―いいえ」
 「スペイン語は話せますか?」「―いいえ」
 「ペルーの〇〇を知っていますか?」「―いいえ」

 親が外国出身でも、子どもがその国の言語や文化を会得しているとは限らない。私の自己紹介はいつも否定することとセットだった。

 親の仕事の都合で幼少期を南米のウルグアイとブラジルで過ごし、8歳で沖縄に帰ってきたとき、小学校で「帰れブラジル人!」と言われた。強烈なショックだったが、この体験がきっかけとなってアイデンティティについて考えるようになった。「私って何者なんだろう? 日本人? ウチナーンチュ(沖縄人)? 外国人?」 

 ペルーの文化に愛着はあるが、行ったこともなければ言葉もわからない。見た目も国籍も周りの日本人/ウチナーンチュと変わらない。でも、「日本人でしょ」と言い切られるとなにか違和感がある――。

 みんなと同じ存在になりたいけれども、どんなにあがいても帰属できない。この世界のどこにも自分の居場所がないと感じていた。

 あまりにも息苦しくて、そのうちペルーにルーツがあることも、南米で過ごしたことも隠して生きるようになった。そうやって、周りに同化して生き抜くしかなかった。


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筆者

徳森りま

徳森りま(とくもり・りま) NGO「ちむぐくるアクション」発起人

1987年、沖縄県生まれ。琉球大学を卒業し、2014年、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科修士課程修了。辺野古新基地建設に反対する市民団体「島ぐるみ会議」事務局で勤務。16年、世界のウチナーンチュたちとつくるNGO「ちむぐくるアクション」を設立。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです