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大本営は信じられていなかった

辻田真佐憲 作家、近現代史研究者

5期でみる大本営発表の変遷

拡大大本営発表の月別回数(1941年12月~1945年8月、著者調べ)

 はじめに、大本営発表の変遷を押さえておきたい。アジア太平洋戦争下のそれは、内容から5期に分けられる。

 第1期(1941年12月~1942年4月)は、有利な戦局を背景に、大本営発表がもっとも正確だった時期である。たしかに間違いはあったものの、その程度はきわめて低く、意図的な虚報も、戦意高揚のためのキャンペーンと言い訳できる程度だった。真珠湾攻撃やマレー沖海戦の勝利、また香港、シンガポール、ラングーンの占領など、緒戦の華々しい戦果はこの時期にあたる。

 しかし、第2期(1942年5月~1843年1月)に入ると、早くもその正確さは揺らぎはじめた。予想外に早い米軍の反攻を受けて、日本軍は敗退をごまかすようになった。1942年6月のミッドウェー海戦はその象徴としてよく知られるが、じっさいには、むしろ同年後半のガダルカナル島をめぐる攻防戦でその傷口は大きく広がった。激しい消耗戦で優秀なパイロットを多数失い、戦果報告が曖昧になったことも、大本営発表の不正確さに拍車をかけた。

 つづく第3期(1943年2月~12月)は、大本営発表の破綻が決定的になった時期である。同年2月にガダルカナル島からの撤退は「転進」として、5月にアッツ島守備隊の全滅は「玉砕」として、それぞれ発表された。日本軍はこうした言い換えで、劣勢を覆い隠そうと図った。前線部隊からの報告はますます過大になったが、それが訂正されることもなかった。

 そして第4期(1944年1月~10月)、戦局は急激に悪化し、戦果の誇張と損害の隠蔽はますますひどくなった。台湾沖航空戦やレイテ沖海戦はその典型だった。ここにいたって、さきのような言い換えはほとんど放棄され、守備隊の全滅は「全員戦死」などと露骨に表現されるようになった。B29による本土空襲が本格的にはじまったのも、この時期にあたる。

 最後の第5期(1944年11月~1945年8月)になると、もはや「勝った、勝った」とすらいわれなくなった。相変わらず架空の戦果が計上されていたものの、本土空襲の激化という動かしがたい事実をまえに、小手先の言い換えなどは意味を失ったのである。強調するものはもはや精神力しかなく、体当たりや斬り込み攻撃が盛んに喧伝された。

 大本営発表と一口にいっても、以上のような変遷がみられた。発表数の点でも、勝っていた第1期がもっとも多かった。そして負けはじめた第2期で減少に転じ、第3期に入るとごまかしかたを覚えてまた増えはじめ、第4期を経て、第5期には第1期に次ぐ雄弁さを取り戻したのだった。

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筆者

辻田真佐憲

辻田真佐憲(つじた・まさのり) 作家、近現代史研究者

1984年、大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部卒業、同大学院文学研究科中退。著書に『天皇のお言葉』『大本営発表』『ふしぎな君が代』『日本の軍歌』(以上、幻冬舎新書)、『空気の検閲』(光文社新書)など多数。監修に『満洲帝国ビジュアル大全』(洋泉社)がある。軍事史学会正会員、日本文藝家協会会員。