個人攻撃を許した事なかれ主義
2019年07月24日
『誰が「維新」を支持したか―大阪・首長ダブル選挙の光景から』(ハーバー・ビジネス・オンライン、2019年4月11日)というその記事は、大阪には今や、維新支持層が着実に深く根を張っており、橋下徹氏が首長を務めていた3年半前までの「熱狂」とは明らかに異なるステージに入っていることをレポートし、その理由を探ったものだが、とりわけ維新の関係者や支持者には好意的に読まれたらしい。「維新政治をポピュリズムだと批判してきたライターがついに誤りを認めた」というようなコメントとともに、SNSで拡散された。
橋下氏の目にも止まったらしく、彼はこんなコメント付きで、記事のURLをツイッターに投稿していた。
〈やっと気付き始めたか。この手の連中は初めから有権者の認識を誤解していた。今回の選挙結果を受けて自分たちの方が誤っていたのでは?とやっと認識。これが選挙の効果だ。ただまだ往生際が悪く、メディアが維新寄りだとか、維新が変わったとか言い訳をしている。〉
〈在阪メディアは維新の会誕生から一貫して批判的スタンスだ。それはメディアの役割として当然。(後略)〉
一度発表した記事がどのように読まれようが仕方ないし、解釈は読み手の自由だが、あえて言っておくなら、私は維新の政治手法や党の体質、大阪都構想をはじめとする彼らの政策や主張、何よりも言論の手法に対しては、現在も変わらず大きな疑問と危惧を抱き、批判的な目を向けている。
ただ、事ここに至って、「維新は所詮、ポピュリズム」「なぜ支持するのかわからない」とばかり言っていても仕方がない。対抗軸を立てるにも、市民の分断を埋めるにも、大阪において維新が支持され続ける理由と、反維新陣営の敗因をきちんと分析して、対話を試みるところから始めるしかないだろう、ということを書いたつもりだ。
本稿では、橋下氏が首長だった時代の記者会見から、彼の政治手法や「橋下劇場」が作られていった経緯を検証するが、もう一方の当事者だった在阪マスメディアに対する見方も、基本的には変わっていない。橋下氏の派手な言動と〝維新政局〟に踊らされた異様なまでの過熱報道には大きな問題があり、世論形成や言論状況に深刻な影響を与えたと、今も考えている。そこには、記者会見の在り方をはじめ、権力との距離の取り方、画一的な取材手法、速報偏重と検証・論評の弱さ、SNSの影響、報道のバラエティー番組化……など、政治とメディアをめぐる問題が凝縮され、現在の国政報道にもつながっている。
取材される側だった橋下氏にすれば「批判的」に見えたのかもしれないが、そんなことは決してない。少なくとも、「一貫して」などということはない。そのことは、先の記事の題名の元になった拙著『誰が「橋下徹」をつくったか─大阪都構想とメディアの迷走』(140B、2015年)に詳しく書いた。
橋下氏が知事になってから、政治家を引退するまで約8年間の橋下府政・市政と在阪メディアの関係を追った拙著の概要を、まずは記者会見や囲み取材のやりとりを中心に振り返ってみたい。
両者の関係を検証していくと、いくつかの時期に分けられる。拙著ではその変遷を時系列でたどり、各章のタイトルとした(太字部分)。
●一体化するメディア
「2万%ない」と出馬を完全否定したのを翻して立候補、圧勝した2008年1月の大阪府知事選から約2年間、橋下氏とメディアは蜜月関係にあった。売れっ子タレント弁護士だった橋下氏と身内同然の在阪テレビ各局は連日、動向を追いかけ、何の疑いも持たず権力者と一体化。彼の主張やコメントを垂れ流し、「改革」の名のもと、府庁や教育委員会などの公務員叩き、文化団体や社会的弱者を切り捨てるような施策を後押しした。
代表的な例が、毎日放送(MBS)の
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