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現実から物語へ、物語から現実へ

フィクションの強さを知る10冊

木皿泉 脚本家、小説家

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 ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』はファンタジーの名作で、私(妻鹿)に物語に入り込むおもしろさを教えてくれた本である。それと同時に、世間がいかに虚構に対して不寛容かを教えてくれたのも、この一冊だった。

 この本について、小学校の教師たちが不健康な物語だと評している記事を見つけた。主人公は物置で本を読みふける。やがて、彼はその本の中の人物とかかわりを持って活躍してゆくのだが、それは主人公の想像だけの話でそれが良くないと言う。子供は外に出て体を動かすもので、何の行動も起こさず、物置で本を読み想像するだけの少年をよしとするような話はダメだと言うのだ。これは三十五年前の話で、「おたく」と呼ばれる人たちはすでにいたが、今ほど理解されていない時代だった。

 今やフィクションは、細かく切り分けられて日常に紛れ込んでいる。スマホでゲームやマンガを、場所を問わず楽しめる。ネットでおびただしい商品を検索するだけで満足してしまうのもフィクションの一種かもしれない。

 それでも、いやそれだからこそか、リア充(現実世界(リアル)が充実している人)には負けるという意識はまだ強い。現実ではなく、仮想(バーチャル)で満足するのは下層だと、みんなどこかで思っている。通り魔もそう考えて実行する。なぜリアルはそこまで偉いのか。

厳格な事実こそが正義か

 エッセー本の中で、新幹線の窓から麦を踏む人を見たと書いたら、アマゾンのブックレビューに、それはウソだ、作者は油断のならないヤツだと書く人がいた。ウソの根拠を並べ、何が何でもウソは許しません、というような文章だった。

 私が新幹線の窓から見たのは、両手を後ろに組んで横に移動しながら何かを踏んでいる姿だった。踏んでいたのは麦ではなかったかもしれない。しかし私には、その動作があのお馴染みの麦踏みにしか見えなかったので、そう書いた。仮に、その光景が私の想像であったとして、それの何が許せないのだろう。
こんなどうでもいいエッセーにまで厳格な事実こそが正義だと言わんばかりの書きように、これが今の世の中なのかとため息が出る。

 私の好きな話がある。カナリアが家にいると言い張る小学生がいて、同級生たちが、じゃあみんなで見にゆこうということになる。いや、今日は無理だ、ちょっと待ってくれと言う。何日か後、いいよと言うのでみんなで見にゆくと、紙で作ったぼろぼろのカナリアが、これまた手製のぼろぼろの鳥籠の中にいたという話である。

 カナリアがいるというのはウソである。しかし、カナリアがいて欲しいと願った彼の気持ちは、本物なのではないか。もし、このシチュエーションをおもしろがり、誰かが「名前は何ていうの?」と聞けば、あたかもカナリアはそこにいる体(てい)で、ごっこ遊びが始まり、その後の雰囲気も、ウソをついた彼の立ち位置もまったく違ったものになるだろう。ガチガチに見える現実も、私たちがその気にさえなれば、変えることも可能なのである。

 私たちの書くドラマは、そんなふうに現実を少しずらしてみせるものが多い。生きづらい現実は確かにある。その中にみんながこうであればいいのに、と思うようなウソを投げ込み、それを何人かで共有することができれば、その空間だけは、数字だけがモノをいう、がんじがらめの現実と何とか対等にやり合ってゆけるのではないか、と考えるからだ。

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筆者

木皿泉

木皿泉(きさら・いずみ) 脚本家、小説家

木皿泉はペンネーム。和泉務(いずみつとむ)と妻鹿年季子(めがときこ)による夫婦ユニット。神戸市在住。テレビドラマ脚本作品に「すいか」(日本テレビ系)、「野ブタ。をプロデュース」(同)、「セクシーボイスアンドロボ」(同)、「Q10」(同)、「富士ファミリー」(NHK)など。小説に『昨夜のカレー、明日のパン』(河出書房新社)、『さざなみのよる』(同)、『カゲロボ』(新潮社)など。